カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

1999年12月1日から13日

2012年03月27日 01時24分38秒 | Weblog
12月13日(月)

 ウォルフレンの新刊出てないのかな、と、本屋覗く。見当たらず。『手塚治虫の動物王国』(いそっぷ社)、『人間以上』(駕籠真太郎、久保書店)、『王道の狗』五巻(安彦良和、潮出版)、『テリー・ギリアム映像大全』(河出書房新社)、衝動買いする。

12月12日(日)

 朝6時起床。曽さんと曽さんの彼女を駅に送る。2人は今日は浅草を見物するのだそうだ。私も一緒に東京へ帰ろうかと思っていたが、ゆっくりしていけと曽さんから諭されるので、帰るのを遅らせる。午前中にはすっかり後悔する。散髪し、脱色する。夕方、バスに乗り、駅へ。
 そうだ、みいちゃんとこ寄って行こう、と思う。途中下車し、みいちゃんの家へ。みいちゃんの家の前で、玄関の靴を見る。みいちゃんいるな。しばらく呻吟し、煙草一服し、お邪魔する。みいちゃんと買い物に行く。前回気づいたのだが、みいちゃんは私の母に少し性格が似ている。人の話を基本的に聞かないところとか。「もうお兄ちゃんを尻に敷いてるね」とみいちゃんが言う。言葉を間違えたのだろうか。甘い幻想に浸っておくことにする。夕食を馳走になる。駅まで歩いて行くつもりだったが、みいちゃんの母とみいちゃんに送ってもらう。
 東京へ戻る。
 『パリ・ロンドン放浪記』(ジョージ・オーウェル、岩波文庫)読了。オーウェルの記すホテル業の裏側に、色々複雑な思い。オーウェルへの好感は更に深まる。そうか、皿洗いってそうだよな。ああ、オレは15年間も皿洗いで人生潰したんだよな、とか。自分はつくづく下層階級なんだよな、とか。

12月11日(土)

 曽さん&曽さんの彼女を、エンジン船に乗せ、巡る。巡った後、3人で遊園地へ。15年ぶりだか18年ぶりだかえらい久しぶりに行ったので、入り口が変わり、駐車場へ辿り着くのに難儀する。絶叫マシンに初めて乗る。帰宅し、夕食を3人で食べる。曽さんと、マンガの話などする。曽さんの彼女は日本語が判らないので、少々退屈されたようだ。曽さんと曽さんの彼女、就寝。妹帰宅。私は客室のひとつへ行き、NHKのドキュメンタリー観ているうちに寝こける。就寝。

12月10日(金)

 印刷屋さんへ宅急便出す。
 午前11時、新宿で、曽さん&曽さんの彼女と待ち合わせ。3人で、私の実家へ。…正直言うと、11日にはえだのさんのオープンミーティングがあるので、私はそれに参加したかった。が、約束なので、曽さんを田舎に招待する。
 実家で食事するうち、雲が消え、富士山の姿が見えてくる。良かった良かった、連れてきた甲斐があった。3人で近くの観光スポットへ行く。最近できたスポットで、初めて行ったが、予想よりずっと良いところだった。富士の姿が神秘的に綺麗だった。良かった良かった。
 夜、妹と母と、曽さん&曽さんの彼女と、私の五人ですき焼を食べる。父は不在。
 曽さんと曽さんの彼女が就寝した後、3人で話する。母は娘息子の縁談に突然熱心になり錯乱したこと随分言う。妹は建設的な反論をする。
 私も自分の意見を言う。二人に軽蔑され、みいちゃんへの悪口を二人から私は言われる。妹のみいちゃんへの評は、半分は同意できないが、残り半分はまことに理に叶っている。妹も幼い頃年長者に求愛され、それは良い記憶ではないと言う。そうだろう。

 
12月9日(木)

 ディグさん、夕方に来る。飛行機の写真、持ってくる。ディグさんにアイアンジャイアントは好きか訊く。知らないそうなので、サイトを教える。「こ、これはイイ」予想通りの反応が聞けて嬉しい。
 ディグさんと話しているうちに眠くなる。銭湯行き損ねる。

12月8日(水)

 風邪でくたばって一日中寝てる。

12月7日(火)

 都立大に宮台博士の授業聞きに行く。風邪が心配だったので完全防護して行く。以下、メモ。

 教養社会学

 宗教について。
 社会システム論による、宮台真司氏による宗教の定義は、こうだ。「前提を欠いた偶然性を、無害なものとして受容する(馴致する)枠組の総体」
 「前提を欠いた偶然性」は、「絶対的所与性」ともいう。なぜ私は男なのか? など。
 これの対立概念は、手段的努力によって結果を左右できる偶然性だ。努力によって、結果に一定の蓋然性があるもの。たとえば、受験は、勉強という努力をするぶん、落ちるという結果に至る可能性が減る。これは了解可能なものだ。

 不慮の事故、男女の出会い、これらは前提を欠いた偶然性だ。旧い社会では、人の流入が少なかったので、偶発的余地が少なかった。現代は、偶発性が高い。誰と出会うのか判らない。成熟社会は、偶発性に満ちている。結果、「なぜ俺だけが」という感覚に充ちる。

 春菜ちゃん殺人は、映画『太陽がいっぱい』に通じる問題を表している。「なぜ彼はああも恵まれていて、自分はこんなにも恵まれないのか」個人に関わる前提を欠いた偶発性。春菜ちゃん殺人は、「お受験」の殺人と言われている。「受験」はたかがクジではないか、と非難する者がいる。たかがクジであることが、むしろ重要だ。「自分とは全く異なるラッキーな彼女と、なぜ自分はつきあわなくてはならないのか?」「春菜ちゃんを殺せば、春菜ちゃんの母親とつきあわなくて済むようになる」春菜ちゃんの母の行動には悪意はなかったが、それは殺人者となった母を追い詰めることとなった。

 「神が定めたのだ」と考えることにより、前提を欠いた偶発性を馴致可能にするのが、宗教だ。

 宗教進化論

 宗教には、二つの側面がある。偶発性がどう表れるか。偶発性をどう馴致するか。宗教とはこの二つのコンビネーションである。

 主体。「誰にとって偶発性が表れるか」、これには、「共同体にとって」と「個人にとって」がある。
 対象。「どのように馴致するか」、これには、「出来事」での馴致と、「枠組」での馴致がある。

1;原初的宗教【主体は共同体、対象は出来事】
 「なぜこの共同体に、このような出来事が」
 儀式化。儀式は共同体全員参加。ハレの日・祭のときは、ケの日・日常とは別な時間となる。聖・俗の図式が生まれる。
 なぜこの村に災厄が訪れるのか? 昨年の儀式に不手際があったからだ。
 分裂症患者・狂人を、シャーマンとして聖の側に隔離することで、日常を温存する。

2;古代的宗教【主体は共同体、対象は枠組】
 ユダヤ教的宗教。否定の図式。出来事を処理する枠組の創造。戒律化。日常の側で災厄(問題・期待外れ)を処理できるようになる。合法・非合法、美・醜、道徳・不道徳。この枠組は神の定めたものである。枠組の秘蹟化。旧約は、神との契約を守ればユダヤ人は災厄に合わないことを約束しているが、不信心なユダヤ人によって、神との契約は常に破られる。だからユダヤの民は神によりさまざまな災厄を与えられる。

3;中世的宗教【主体は個人、対象は枠組】
 (この段階まで進化したのは、主にキリスト教世界である。ごく一部日本の宗教にもある)
 信仰化。個人の信仰の問題、個人がいかにcommitment(献身、遂行、明確な主義を持つこと)するか、という問題。ユダヤ教徒は、皆ユダヤ民族だ。共同体と宗教が同じだった。その中で、イエスが救世主であることを信じるかどうか、という個人の信仰の問題へ進化する。
 社会学的には、当時、ユダヤ共同体の階層化が深まっていた。戒律を守っても生活できる者と、生活するためには戒律を守っていられない者とがいた。
 イエスのロジックは、二つ。
 一つは、戒律の否定だ。戒律を守っていられる豊かな暇人だけが救われるのなら、それはトートロジー(同語反復)だ。救われている者だけが救われることになる。むしろ、戒律に従えない者こそが救われるべきだ。戒律に従えるほど恵まれた者は、救われない。
 もう一つは隣人愛。これは親を捨てよ、故郷を捨てよ、という厳しい主張だ。自分を突き飛ばそうとする他人を、自分を殺そうとする他人を、愛する。見も知らない他人のために命を捨てる、これが隣人愛だ。
 ユダヤ共同体からの、脱共同体化が、ここでなされる。
 キリスト教を地中海世界に布教したパウロは、隣人愛(共同体を超えた愛)を拡大した。地中海商業圏の、ギリシャ語を話す他民族に布教した。共同体を持たない人々へ、浸透していった。これが、「パブリック」という概念のベースとなった。
 古代においては、パブリックと共同体は一致していた。小林よしのり的「公」は、この段階を言っている。
 中世以降、パブリックは、共同体の対立物となる。正しさ、確かさ、神は、共同体の外にある。

4;近代的宗教【主体は個人、対象は出来事】
 『太陽がいっぱい』的問題、「なぜ私だけがこんな目に遭うのか?」「なぜ彼らはいい目に遭って、私はいい目に遭えないのか?」
 全ての枠組を宗教的に説明するのはムリになってくる。多くのことは宗教的枠組を用いず、科学的枠組で説明可能になっている。認識枠組の多元化、多様化。
 宗教はパートタイム的なものとなり、必要な時に穴を埋めるためのものとなる。
 宮台真司氏が80年代に学生を対象として統計した結果、宗教のオリエンテーション(志向)は二つに分かれることが判明した。
 a;個別的問題設定~行為系。幸せになりたい系。おまじない、呪術で、幸せを招こうとする。世俗的御利益祈願。
 b;縮約的問題設定~体験系。ここはどこ? 私は誰? 非世俗的意味追求。
 この二つは宗教教団の分類ではない。宗教教団は必ずこの二つを持つ。受け取る側の態度の分類だ。

 プログレッシブ・ロックの話題を提示。難波博之を知っている人がどれだけいるか、学生に訊ねる。知る者はいない。話、しにくいなあ、という顔を宮台真司氏はされる。荒井由美、少女マンガ、シンフォ系プログレ、SFのファンタジー派、これらを好む人々は重なっている、と宮台真司氏は言う。「体験系」の人々は、オルタナティブalternativeな輝き、ここでないどこか、日常でない非日常の輝き、そういうものを求め、かつて垣間見た。実験という言葉に、輝きがあった。日常でない非日常へ、絶対そこへ辿り着くぞ、という感覚を持っていた。ビートニクス、サイケデリックなどは、日常ではない非日常を求めたものだ。
 宮台真司氏の世代には、物書きが多い。その後の世代には、東浩紀氏のような例外はいるが、物書きが乏しい。宮台真司氏の世代は、かつてそれを垣間見た。60年代にルーマンやデリダのように現代哲学の基本枠組のほとんどは出尽くした。生産的なものは全てその時に現れ、それ以降30年間、何も新しいものは生まれていない。音楽ではカットアップ、リミックス、サンプリングがなされるだけだ。プログレでは、ロバート・フィリップがこんなことを言った。「天使の扉がこちらに開いた時があった」演奏をしていると、二年に一度くらい、神がかったプレイができるものだ。60年代後半は、演奏全てが神がかっていた。70年代後半、天使の扉が閉じていった。天使の扉が閉じると、全てが閉じた。全ては日常となった。オルタナティブが消えた。待っていても訪れない。「ここではないどこかを指す光」は消えた。
 60年代、なぜ人は生産的だったか。近代過渡期から近代成熟期への移行期にあったからだ。移行期は、3年ほどで終わる。移行期には、枠組を自覚し、枠組から解脱する。そのプロセスで得た解放感は、実に濃密だ。移行が終わると、全ては日常となる。ドラッグすら日常となる。
 クスリは使いはじめには非日常的トリップを与えるが、クスリが日常になると、初めて得た時の昂揚は得ることはできなくなる。

 以上、メモ。宮台真司氏が最後に述べた「天使の扉」のところは、宮台真司氏が(世代的に)当事者であったため、一次的観察になっていると、鎌やんは思う。移行期でない時代はないと思う。局所的に劇的な変化が起きる場所と時間は確かにあるけど。
 以下、宮台ゼミのメモ。

 宮台ゼミ。社会学演習

 『消えるヒッチハイカー』
 社会システム論的に都市伝説を考えると、それまで生活環境になかった物を、都市伝説でもって無害化させる、という機能が考えられる。
 都市伝説は60年代に多かった。マンガでは、楳図かずお、古賀新一的なもの、「呪い」の都市伝説の、さまざまなバージョンがあった。
 都市伝説に共通する要素は、慣れ親しんだ共同体の中に、異物が入るところ。そのせめぎあいが都市伝説を生む。生活に新しく登場した物(車、マクドナルド、電子レンジ)にとっては、通過儀礼的。
 近年は、都市伝説は少なくなっている。慣れ親しんだものと、そうでないものの差異が乏しくなっているからだ。都市伝説は、郊外的なもの、都市的なものが広がっていく過程で生まれる。80年代後半、テレクラが流行りはじめた頃は、テレクラに関する都市伝説が随分あった。

 TVの『マグマ大使』に人間モドキが登場する。これは恐かった、と宮台真司氏は言う。ボディスナッチャーは3回映画化している。よく知っていると思っていた人物が、実は全然知らない人間なのではないだろうか、という恐怖。SFは、郊外化の恐怖を描いている。

 共有された空間感覚を、コスモロジーと言う。 都市伝説は、情報の流れによる空間の不均質性を示す。どこに境界があるのか、都市伝説を調べることによって判る。都市伝説は、一世代、二世代のうちに消えていくだろう(空間が均質になると都市伝説は消える)。だから都市伝説は記録と研究に値する。研究者が現れてほしい、と宮台真司氏は言う。おそらくマスコミで引張りだこになるだろう。
 都市伝説の発祥地点を特定するのは難しいが、いくつか発祥の特定された都市伝説がある。口裂け女は岐阜で発祥した。岐阜という土地はどういう意味を持つのか、という研究が成り立つ。人面犬は筑波で発祥した。

 静岡出身の学生が「五円バアサン」という都市伝説を披露する。五円渡さないと、そのバアサンに殺されてしまう、という伝説だ。子供の頃、五円バアサンを警戒して、いつも五円玉を持っていた、という話。
 それを聞いた福島の学生が、自分のところでは百円オバサンだった、と言う。また茨城では、五十円オジサンだった、と言う。

 60年代の恐怖マンガは、メタモルフォーゼの恐怖だった。かつてあったものがなくなっていくことへの恐怖、薄れゆく記憶に関わる恐怖だった。1970年代、恐怖マンガは、つのだじろう的なもの、黒田みのる的なものへ変化する。水子霊など、個人的なものとなる。空間感覚が消失する。高度成長から、安定成長へ移行したことによって、恐怖の質が変わった。孤独な都市民の恐怖に変化した。

 次回のゼミは、『私たちは大人少女』(青樹社、村岡清子)について。

 宮台博士から一口羊羹貰って、鎌やんは帰る。

 編集さんに電話。6月出す予定のマンガ単行本、ロリ本としてのスタイルだと取次ぎが嫌がるだろうという話、蒸し返る。日記には明確に書いてなかったけど、繰り返し蒸し返ってる。工夫をするための打ち合わせを後日することにする。
 案。タイトル『これはロリ本ではない』。制約があるほうがむしろアイデア出たり意欲が湧いたりする。そういうものなんだろうなあ。『オタクの哲学』という企画だいぶ前から暖めている。怠惰なもので、マンガの単行本がすんなり出るようだと『オタクの哲学』動かそうという意欲、阻喪する。単行本が難航するなら『オタクの哲学』を動かそう。既に数人に軽く当っている。自作自演してないと意欲を自身かきたてられない。『オタクの哲学』始めると自分で自分のことペテン師だなあ、と自覚迫られるので、それが厭だったのだが、しっかりとペテン師らしく。

12月6日(月)

 風邪でくたばってて一日中寝ていた。頻繁に電話がかかる。主に実家の関係のことらしい。朦朧としながら受け応えする。

 変な夢を見る(夢というのはいつでも変なモノだが)。どういうわけか自分は再び小学生になったらしい。ああ、また10年間もバカな目に遭うのか、と、夢の中で思う。高校あたりからならやりなおすにも多少の意味はあるだろうか、と、夢の中で思う。初めての授業らしい。冴えない教員が入室する。紹介もなく授業が始まる。それなりに内容のある授業、聞いている間は筋道が追える。だが一瞬気を抜くと、もう何が語られているのか全く聞き取れず、板書も意味不明。黒板には、小さい丸が4つ縦に並び、その横に、横長の長方形で赤く枠どりされた中に、びっしりと細かい字が書かれている。
 「先生、何を言っているのか判りません」と質問する。授業が止まる。どこが判らないのか、と教員が言う。
 「まずあの板書されている丸は何ですか?」と訊ねる。おそらく丸印は単に何かを箇条書きにした際の印で、箇条書き部分を消したあとたまたま消し忘れたところだろう、と予想して、故意に、ズレた質問をしてみた。教員が応えるには自動車メーカーのマーク(意匠)を説明のため描いたのだと言う。近くに寄って見る。たしかにそうだ。
 「見えませんよ。ボクら目あまり良くないんですから」と私は言う。あ、そうなのか、と、教員は初めてそのことに気づく。
 「この下のマークはなんですか?」釣具メーカーのマーク(意匠)のようだ、と推測して質問する。飛行機・戦車のメーカーのマークだと教員が応える。私は見え易くなるよう黒板に拡大して板書する。

12月5日(日)

 夕刻まで寝る。曽さんから電話。7時吉祥寺待ち合わせ。曽さんの彼女と初めて対面。博多ラーメンを一緒に食べる。最近オープンしたヴィレッジ・ヴァンガードを案内する。

12月4日(土)

 上野科学博物館へ、ディグさんと零戦観に行く。零戦を展示していたオレンジ館は改装中だかで、観ることが出来ない。品川へ。船の科学館で展示している飛行機を観に行く。市ヶ谷へ。靖国神社遊就館へ行く。展示物見る。
 近頃ディグさんは飛行機にずいぶん詳しくなった。ディグさんは今まであまり本を読まないタイプだったが、飛行機がきっかけで知の連鎖が始まり、古典も色々読みはじめている。
 「紅の豚」に描かれていた飛行機の連なる天国のイメージは、イギリス空軍パイロットだった作家ダールの短編が元ネタだという話を、ディグさんから伺う。
 どういう飛行機が美しく、どういう飛行機が美しくないのかディグさんから伺う。私には基礎知識が足りないので今一つわからない。ディグさんによると、日本の飛行機は、たおやかな優しいラインをしているのだそうだ。
 靖国の展示では、過剰に気を遣っているがゆえに結果感情的になっている説明文を見て、あーあ、と、思う。小林よしのり氏の寄贈した展示を見て、あーあ、と思う。東郷平八郎のビールを見て、ほうほうと思う。靖国の展示に児玉源太郎の写真がないが、児玉源太郎の写真は残ってないのだろうか。戦争後期の展示物に、ゆらゆらと立ち上るものを感じる。ヒステリックさが痛々しい。

 下宿の駅へ戻る。定食屋が休みだったので、隣駅のうどん屋へ行く。中休みの時間だったので、本屋へ行く。『西遊妖猿伝』14巻(諸星大二郎、潮出版)、『残酷な神が支配する』14巻(萩尾望都、小学館)、『青青(あお)の時代』1巻(山岸涼子、潮出版)、『カラモランの大空』1巻2巻(神坂智子、潮出版)、『ジオブリーダーズ』5巻(伊藤明弘、少年画報)購入。
 本屋で『ケンペーくん』が文庫になっているのに気づく。これ、たしか、睦月影郎が描いているマンガじゃなかったかな。複雑な気持ちになる。
 からしうどん食べる。随分歩いたので身体が痛い。下宿に戻り、買ったマンガ読んで、就寝。

12月3日(金)

 風邪っぽい。風邪薬購入して、寝る。曽へ電話。曽さん、少年マガジンの選外佳作を受賞し、そのパーティで日本に来るとのこと。ディグさんから電話。飛行機観に行こうとのこと。足立真一さんからも電話あったかな。

12月1日(水)-2日(木)

 夕方起きる。宮路兼幸さんとこへアシに行く。向こうの駅に着くと、小雨が降っている。傘買うほどではないと思い、傘差さずに宮路さんとこへ。
 アシする。田舎との往復したばかりなので、気温がどうなのか、勘違いをする。昨日に比べ、急に寒くなった。私はやや薄着だった。アシしている間に、風邪っぽくなる。

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