マッシュムラムラ(仮) ――クラ鈴が斬る!――

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氷室京介、あぶない刑事、マンガ etc

別冊ベースボール よみがえる1980年代のプロ野球 PART3&4

2020-03-07 21:58:58 | スポーツ

「週刊ベースボール」の別冊、今回は87年と88年です。
まずは87年(PART3)から。
上の画像のとおり、この年はKK対決ですね。
86年、ルーキーでレギュラーに定着し、1年目から3割30本を達成、さらにはチームも日本一になった清原和博に対し、桑田真澄の1年目はどうしても見劣りしてしまう数字でした。
まあ、高卒1年目からローテーションに入ってただけでも、凄いといえば凄いんですが・・・桑田の1年目は二軍でじっくり育てたほうがよかった気はしますね。って、これは清原にもいえたことかな(清原は1年目から、いい成績を残したとはいえ)。
ふたりとも、焦らずじっくりと、せめて一年目くらいは二軍で育てたほうが、桑田は200勝行ったかもしれんし、清原は主要タイトルを複数回、取ってたんじゃないかな?
話を戻すと、この年の桑田は最優秀防御率を取り、勝ち星も15勝と、まあ、エースの片鱗を見せつけましたね。
前半戦の桑田の連勝街道は、巨人ファンとしては爽快でしたね。何連勝したんだろ? とにかく、ほとんど負け知らずで、勝ち星を重ねていってね。
ピッチング(内容)のほうも、爽快でしたね。このころはまっすぐとカーブだけで勝負しててさ。おもしろいように三振取ってたような気がします。
ただ、夏場から負けが込んできてね。後半戦は勝ちと負けがトントンくらいじゃないかな?
日本シリーズでも打ち込まれたし。とくにKK対決は清原が打ちまくってましたもんね。
ってか、このKK対決は、この年のオールスターの時点で、清原がホームランを打った気もします。たしか、ふたりの対決は甲子園球場というね(笑)。
ただ、清原はこの年、二年目のジンクスというか、あまり数字はよくなかったんですよね。それでも28本くらいはホームラン打って、勝負所ではきっちり打ってた印象かな。
結局、この年の日本シリーズは、西武ライオンズがV2を飾ってます。
で、この年で忘れてはならないのが、





江川卓、引退。



衝撃でしたね。まだ32,3歳で(当時の野球選手としては、引退してもおかしくはない年齢ですが)、たしかに衰えは見えても、この年も13勝しており、日本シリーズだって、7イニングス投げて、2失点(しかも、ソロホームラン二発)だったわけだし。
ちなみに、江川vs清原は、江川が三振を奪うなど、清原を抑えています。
ともかく、リアルタイムのころは、「まだ騙し騙し、できるだろ?」なんて思ってましたね。
まあ、「広島の小早川毅彦に、渾身のストレートをホームランされて、引退を決意した」なんて話もありますが・・・
最近、広島のキャンプかなんかを見学してた江川に、緒方監督が小早川を引き合わせ、緒方が「やっぱり、小早川さんの一発で?」みたいなことを聞いたらしいんですが――

江川「あの試合、





中畑さんがエラーしてなかったら、



そこで試合終了(巨人はリードしていた)だったんで、





ボクは中畑さんに、引退に追い込まれたようなもの



なんて言って、小早川と緒方を爆笑させたらしいですが(笑)。
話を戻すと、85年は11勝と低迷した江川ですが、86年には16勝(防御率2点台)と、球威はともかく、ピッチングとしては復調し、この年も結構、安定したピッチングを見せてたんでね。まさか引退するとは思わなかったなぁ。
この年、ボブ・ホーナーという現役バリバリのメジャーリーガーをヤクルトが獲得してね、たしかにその実力を見せつけてきたんですが(バースが『よくこんな選手が日本に来たな』的なことを周囲に漏らしたそうです)、そのホーナーに対し、「あの打ち方なら、落ちる球は打てない」いって、たしか全球、カーブ(曲がる変化球であるカーブも、落差はあります)で、全打席、三振に取ったんじゃなかったかな。
正直、「まっすぐで勝負してほしかった」と思ったもんですが・・・後述の「球威の衰え」から、いま考えると、それは危険だったかな。
そんな江川ですが、「江川と西本」の記事でも書いたけど、この年のシリーズと、20勝した81年のピッチングをYoutubeなんかで見比べると、明らかにストレートの球威、(江川特有の)ノビが段違いなんだよね。明らかに衰えている。
さっき、この年の桑田の(前半戦の)ピッチングについて、「爽快」なんて書きましたが・・・それでも、違うんですよ。江川の爽快感とは。
言葉では表せませんし、主観の問題もあるだろうし、「江川=幼いころに初めて目にした大エース、スター選手」ゆえのインパクト、「先に江川のほうを体験していたから」という部分もあるんでしょうが・・・
個人的には、桑田より江川のほうが、彼のまっすぐやカーブのほうが、彼が奪う三振のほうが、爽快感が強かったなぁ。
っていうか、江川以上に爽快感のあるピッチャーはいませんね、オレ的には。次点で、このころの工藤公康、90年代の斎藤雅樹、伊藤智仁ってとこかな。
で、その工藤。





俳優・工藤阿須加の親父さんです(笑)。



って、桑田真澄もMattの親父さんか(笑)。工藤の倅が俳優はわかるけど(工藤も男前だったし)、桑田の倅がああいうタレントになるとは(笑)。
ともかく、80年代後半の工藤(とくに87年)は凄かったなぁ。やはりこのころはまっすぐとカーブだけでさ、それでおもしろいように三振取ってたもん。
この年の巨人は、85年の阪神ほどではないにせよ、重量打線でね。篠塚が首位打者、原もクロマティも吉村も3割30ホーマー、中畑だってそれらに次ぐほどの数字だったし、山倉もいいところで打って、シーズンMVPだったし。
また、駒田なんかも本格的に出てきたころでね。
ただ、その巨人打線が、工藤に対しては手も足も出なかったもんなぁ。
また、工藤はヤンチャな性格もね(笑)。「そこが嫌い」って人も多かったけど、オレらのような厨房(中学生)は、むしろ好きになる一因でしたね。
そして、87年ごろで、忘れてはならないのが、





王監督「ピッチャー、鹿取」(笑)。



いや、でも、鹿取はホントにいいピッチャーでしたよ。
そりゃ、速球派ではないので、派手さはありませんが、勝負度胸が満点で、スライダーやシュートのキレで確実に内野ゴロや、あるいは三振も取れる投手でね。
後に藤田が放出したときはキレましたね(マジで)。
また、パ・リーグの三冠王・落合博満が中日に移籍してきたシーズンでもありましたね。
この落合と江川卓の対戦は、開幕前から楽しみでしたね。
開幕戦で西本聖がインコースへのシュート攻めで落合を抑え込んだのを見て参考にしたのか、江川もインコース攻め(こちらはまっすぐ)で、ほぼ抑え込んだんですよね。
後に落合が「じつは、オレはインコースが苦手だった」みたいなこといってたんで、江川としては前述のホーナー対策同様、事前に「インコースは打てない」って察してたのかもしれませんね。
まあ、このふたりの対決は、それぞれの全盛期に、真っ向勝負を見たかったんですけどね。84年のオールスターは、(衰えが見え始めたとはいえ)3イニングスなんで常に全力投球できた江川に対し、(オールスターゆえに)どこまで本気だったかわからない落合でしたからね。
そんなこんなで、87年でした。って、87年にボリューム取り過ぎたか? (笑)

で、88年(PART3)。
この年は、V3を達成した西武でも、星野仙一監督の元では初優勝の中日でも、あるいは東京ドーム元年の巨人でもなく、



近鉄バッファローズが球界の主役でしたね。

西武が絶対的王者として君臨し、3年連続で日本一(リーグ優勝だけなら、4年連続)になっちゃったから、それに対するアンチテーゼというか、(いまの日本人が忘れている)判官贔屓もあったんでしょう。
正直、オレも近鉄を応援してたもん。当時のエース阿波野秀幸が同じ横浜市出身ということもあって(彼が念願叶って、在京チーム=巨人や横浜に戻ってきたときは、うれしかったもんなぁ)、応援しとったんですよ。
それに阿波野は、野球選手にしては線が細かったじゃないですか。華奢な彼が、ガタイのいい選手たちをきりきり舞いにするとこが好きでね。オレも野球やってながら華奢なまんまだったんで、勝手に親近感も持ってね(オレは阿波野のような速球も変化球も投げられないんだけど/笑)。
もちろん、前述の判官贔屓や、近鉄の豪放な野球がおもろしろかったから、ってのもありますけどね。
西武や中日、あるいは巨人なんかも「管理野球」といわれつつも、もちろん、選手の才能任せな部分もあり、ときに大味な野球も見せてくれましたが、この年の近鉄や85年の阪神は、まさに豪快だったなぁ。
両チームとも打線が強力でしたよね。で、88年の近鉄はブライアント、オグリビーといった外国人が打ちまくって、大石第二朗、金村義明、鈴木貴久、村上隆行なんかが続いた、って感じでね。
もちろん、85年の阪神も、88、89年の近鉄も、投手力もよく、また、オフェンスにおいても細かい野球もやってたけどね。
ともかく、この年は、大抵の野球ファンは近鉄贔屓だったんじゃないでしょうか。
で、運命の10・19ダブルヘッダー。ロッテvs近鉄でね。
当時はまだ、パ・リーグの試合はそんなにテレビ中継されてなかったんですよ。西武戦ですら。それが、ニュースステーションの中で、臨時的に中継されましたからね。
「西武は全日程終了済み」「近鉄は残り数試合、全勝すれば優勝」って状況でね。まあ、近鉄としては、逆にいえば「一敗もできない。引き分けも不可」ってことだったんですが。
そんな状態で臨んだダブルヘッダー、一試合目も接戦だったんですよね。
まあ、エースの阿波野をリリーフに回すなどで、近鉄がどうにか勝ったんでね、誰もが近鉄の「奇跡の逆転優勝」を信じたんじゃないかな?
ただ、二試合目の、同点で迎えた9回裏・・・ロッテの有藤監督が判定を巡って、猛抗議。
前述のように、引き分けでも、近鉄の優勝はなくなります。この当時は延長戦に「4時間」の壁がありました。
試合時間は既に3時間半を経過しており、延長に入ったとしても、10回の1イニングだけで切り上げられる可能性が高い。
これは観客も視聴者もキレ気味でしたよね(笑)。「有藤、引っ込め!」なんて、テレビの中から聞こえてきた気がする。
ってか、オレもまだ高校生だったから、





「有藤! てめぇ、なにやってんだよ!? ロッテはどうせ優勝の可能性、ねぇだろ!」



って感じに、キレてたもん(口には出さなかったけど/笑)。
っつーか、有藤の抗議は、たしかに嫌がらせもあったんじゃないかな?
ともかく、この抗議が10分弱にも及び、案の定、延長は10回の攻防のみとなり、10回表、近鉄は得点できず、結果は引き分けで、この瞬間、西武の優勝が決まりました。
ただし、これは近鉄ナインにとって、エピローグではなく、翌年のドラマのプロローグとなります。

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