本作はチチトランと読むらしい。間違ってもチチトタマゴとは読まないでくださいとのことだが、むしろ読者が牛乳と卵を連想することを狙った感さえあるように思われる。
さて、その内容であるが、母の豊胸手術とその子供の生理についての葛藤やら倫理観やら違和感などなどがひたすら語られる。私の想像力が稚拙なのか、いまひとつその切実さ、真剣さが伝わってこない。
この子供である緑子は母に口でしゃべることをせずに、自分の意思をひたすらノートに綴る。しかし特にしゃべれないわけでもなさそうだ。そんな状況って親子として不自然なわけで、なのに全然切迫されている気がしない。むしろ淡々としている気がする。
映像にすればもっと違ったイメージで取られるのかもしれない。でも映像にしなかったのは費用の問題だろうか? それとも書き文字によって伝えなければならない何かがあったのだろうか? もしあったのなら残念ながらそれを読み取ることはできなかったと言わざるを得ない。伝えたいことを何かに例えて婉曲的に伝えようとするのは文学では良く使う手法であるし、また、それが文学と言うものなのかもしれない。しかしそれが読者に理解されないのではあまり意味がないだろう。
もしくはこれは意味ではなく音の響きを楽しむもの、散文詩のようなものだろうか?
なぜか、私のブログからgooにトラックバックが飛ばないので、コメントで失礼します。
乳をチチと読ませるのは、私のブログにも書いた通り、緑子の父なんだと私は思います。それから、書き文字にしなければ、樋口一葉へのオマージュにはならなかったと思います。
わからないことをわからないと書いたら教えていただける。そしてそういう読み方をするのかと納得できる。すばらしいですね。どうもありがとうございます。
映像にしなかったのは、女湯の場面の問題でしょう(笑)。あれを映像にするのは難しいです(変な意味ではありません)。
意味ではなく音の響きを楽しむもの、散文詩のようなものというのは、その通りだと思います。楽しめる人と楽しめない人が極端に分かれそうですが。