二村嘉一のネオジャパニズム

 世界の中で生きて行く、私達の創る新しい日本の形とは

野球と柔道。

2006年07月12日 11時40分24秒 | 日記・エッセイ・コラム
 皆さんこんにちはお元気ですか?
 今日も名古屋は曇っています。気温はやや高く、エアコンをつけています。今日は少し早めに書いています。NHKの野球の中継を見ながら書いていますが、野球が好きなわけではないですが、ニュースを見逃すといやなのでつけっぱなしにしています。そういえば小学生のころ野球部で、補欠だったのですが、結構強いチームで名古屋市で準優勝したチームで補欠をしていました。そういえばどうしてみんなはボールがグラブの中に入るのだろうと思っていて、外野の守備ではいつもこっちに飛んでくるなということを考えながら守っていました。さらに打撃となると、どうしてみんなあんなにバットに当たるんだと、その才能に圧倒されていました。あのころは野球が楽しかったわけではないですが、どうしてか小学校を卒業するまで野球部でした。そういえば一緒に帰っていた子がいじめっ子で、僕もその例外なくいじめられて、いやな思いをしていたのですが、中学になってまで一緒にプレイする気が無かったので、柔道部に入りました。前から護身術を習いたくて、本当は剣道がやりたかったのですが、中学には剣道部が無く、仕方なく柔道部に入りましたが、一緒にやってた同じぐらいの体格の子がやめてから、非常にマッチョな体形の子と乱捕りをすることになり。腰にできものができて、膿がパンパンにたまってしまう病気になってからなんだか柔道がいやになって途中で退部しちゃいました、先生は一本背負いをお前の特技にしろといわれて、あんな実戦的じゃない技を一生懸命にやったってと思っていましたが、後から柔ちゃんの得意技が背負い投げだったので、あんな技でも試合に使えるんだとちょっとびっくりしていました。今から思うと心身ともに子供だったし、いいかっこしいで、練習がきらいだったのに俺は強いと思いたくて、あまり真剣になりすぎることができず、中学の柔道部なんてたかが5,6人しかいなかったし、結局白帯のまま終わってしまったのですが、そういえば高校にも柔道部があったなと思って、そういえば昇段試験の会場が、今の名古屋高校で、僕の母校だったことを思い出したのですが、高校は帰宅部で、ちょうど昨日話した喫茶店に春休みにバイトしだして、当時はやってたデザイナーズブランドの服を着てディスコへ行くことに夢中になってしまいました。おかげで今では筋肉が落ちちゃって、こんなにというかわりと背の高い182cmの身長になったので、もう少し我慢して運動部に所属していたらもう少しいい体になれたのにと、反省しています。でも今の体形もなんだかイエスキリストのような、不健康ながらエロスを感じる体形で、なかなか味があるぞと結構気に入っています。下腹ポッコリのときもあったのですが、ビールを飲まなくなったら、また二十代のような体形に戻ってきて、見ようによっては、セクシーかなと自分では思っていますが、彼女がいないので誰もほめてくれないので残念です。大学時代はよくスポーツクラブで泳いでいましたが、水泳部に入る気も無く、近所のスポーツクラブで50mの潜水に挑戦していました。体を動かすことは好きでしたが、人間関係が苦手で、きっと小学校のいじめっ子が心底嫌いで、その影響を忘れることができなかった、まあ弱い意志の少年と青年期でした。そのいじめっ子は大阪に行って飲み屋を経営しているそうです。アルチューになりそうだと親御さんはおっしゃっていました。誰もが理解していて、そしてそれを理解できていない。そんな印象ですね、今回のミサイル事件は。中国は時間稼ぎをしているだけのように思えます。早期に決議案が可決されるよう祈りながら失礼いたします。
 それでは。
 
 それは今ミサイル飛んで大騒ぎ敵の手のひら転がされてる

 スポーツマンベストを尽くし手に入れる最大のものそれは誇りか

 スポーツのルールのように行くのなら悩みはしない世界外交

 God bless you!

コメント
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