二村嘉一のネオジャパニズム

 世界の中で生きて行く、私達の創る新しい日本の形とは

今生きていることの意味。

2006年07月01日 16時56分08秒 | 日記・エッセイ・コラム
 皆さんこんにちはお元気ですか?
 今日の名古屋は曇りで蒸し暑く、少し小雨がぱらついて、すぐやみましたが、不安定な天気です。昨日は天皇皇后両陛下が、宮内庁の美術館にお出かけになり、花鳥画の世界展をごらんになったそうです。「花」の金曜日を両陛下が文字どうり花を飾った一日だったのではないでしょうか。また小泉首相もブッシュ大統領とともに、プレスリー邸に訪問し小泉首相はプレスリーの歌を口ずさんだようです。夢が叶ったとおっしゃるなど、よほどプレスリーが好きだったのでしょうね。お互いの文化のよいところを尊重しあえ、中曽根元首相ではないですが、文化国家を日米双方理解しあえたのではないでしょうか。また橋本元首相がお亡くなりになられたようで、まだ若いのにお気の毒です。ご冥福をお祈りします。そういえば昨日寝る前に、僕はいったい何者だろうと思いながらベットの中で考えていました。僕が生きると言うことは何を意味するのだろうと、きっと意味は自分にしか分からないと思いますが、せめて自分しか分からない答えを、自分自身を大切にしてあげたいと思いました。わずか60キロ足らずの肉体が、いつかは土に返っていくという事実は、今生きている人にとってさして重要なことでは無いように思われます。住宅ローンや子供の教育、等、現実は生きていくことを前提に成り立っています。もしかしたら交通事故で明日死ぬかもしれないという事実さえ、保険金がおりてくるからと、死ぬという事実より、お金が入ってくるという現実に、焦点が集まり、死はもはや資本主義の一部です。確かに人が死ぬということは一大事です。残された人は大変悲しみそして困難な生活を余儀なくされることもあるでしょう。僕には伴侶が無く、子供もいません、今死んで悲しむのは両親と妹ぐらいでしょう。保険に入っていないのでお金は入りませんが、悲しいことには変わりがありません。しかしそれは何を意味するのでしょうか、人間は死んだらどうなるか、宗教的な考えになりそうです。昔からの知恵で、人は宗教を構築して来ました。それは生きるという行為にも影響を与えています。人は死ぬ、なので生きているうちから極楽へといけるような生き方をしなくてはならないと。現代を生きていると、死んで極楽へ行くより、生きているうちにマイホームを手に入れて、できればリホームもして、子供が独立したら老後の楽しみとして旅行を趣味にしてと。現実的なことが重視されます。日本は豊かになったのです。それを支えてきたのは団塊の世代で、もうすぐリタイアし第二の人生を送ろうとしています。もう少し働くもよし、田舎に帰って土いじりをするもよし、ボランティア活動に従事するもよしとさまざまな老後が待っています。自らたちが豊かな社会を築き、そして自らの老後を生きる。きっと今の若い人たちには許されない老後でしょう。きっと今の若い人たちの老後は厳しいと思います。金銭的にも、文化的にも。しかしながら、人間は生きなくてはなりません。死ぬときまで生きなくてはならないのです。その壮絶な運命を人間一人ひとりが持って生まれた運命を、人は人生と呼ぶのかもしれません。人間に何ができるのでしょうか、生きている間に、社会に、家族に、そして世界に。よりよく生きるとはどのようなことか、少しづつでも勉強しつつ生きて行きたいです。
 それでは失礼いたします。

 我生きる君無き生路たどるともあの世で会えば花でも咲こう

 アメリカの社会の中君生きる大統領リーダーとして 
  ブッシュさんこれからも頑張ってください。

 雅子さまこの国の母病みにけり健やかな日々いつか帰らん

 God bless you!

 

コメント
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