英語と書評 de 海馬之玄関

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天皇の政治性を巡る憲法の精神

2009年12月27日 20時45分25秒 | 日々感じたこととか


天皇陛下と支那の習近平国家副主席の会見に端を発した民主党の小澤一郎幹事長の「天皇は内閣の命令に従っていればよいのだ」ばりの不遜な発言もあり、現行憲法秩序における天皇制の意味が人口に膾炙しているようです。

小澤氏は、12月14日の記者会見では、憲法では「国事行為は、内閣の助言と承認で行われる。天皇の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認ですべて行われる。それが日本国憲法の理念であり、本旨である」と述べたのだけれど、もちろん、現行憲法7条に列挙されている10個の天皇の国事行為には「外国要人との会見」は含まれておらず、この小澤氏の発言は憲法論的には完全な間違いでした。而して、小澤氏は12月21日の記者会見では「外国要人との会見は憲法が規定している国事行為ではない」ことを認めつつ「憲法の理念や精神として天皇が内閣の意を受けて行動することは当然であり、国事行為以外の天皇の行動にも国民が選んだ内閣が責任を負う」と発言を一部軌道修正した上で改めて<天皇=内閣のマリオネット説>とも言うべき憲法論を開陳しました。本稿はこれら2回に亘る小澤氏の発言を憲法論的観点から俎上に載せる試みです。

結論から先に書けば小澤氏の主張は憲法論的には成り立たない。けれど、それは、憲法無効論の如き無知蒙昧のお花畑に咲いた妄想とは異なり、「国民主権を基盤とする議院内閣制」「政治的行動の自由を認められない天皇」、よって、「天皇の政治利用の禁止」という現行憲法における天皇制の大方の理解と重なっており、実は、それをきちんと咎めることはそう簡単ではない。而して、本稿では、天皇の政治、議院内閣制と天皇制の二点から小澤発言の不当性を照射して、もって、現行の日本国憲法における天皇制の<精神>を提示したいと思います。

尚、国民主権と民主主義の意味、三権分立と議院内閣制の関係、そして、憲法の概念に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。また、「天皇制」という用語はご存知のように戦前にコミンテルンの指導の下に(コミンテルン日本支部であった)日本共産党とその「与力の論客=講座派」が「発明」したものですが、私は、彼等が「アジア的生産様式下の封建制」という出来合いのマルクス=レーニン主義的概念ではなく、「天皇制」という用語を考案しなければならなかったことは、逆に言えば、天壌無窮皇孫統べる豊葦原之瑞穂国という日本の実質的意味の憲法の核心というべき<政治的神話>が「天皇制」という用語には投影されていると考えており、本稿でもこの用語を用います。

瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
  あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 
・民主主義--「民主主義」の顕教的意味

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
・憲法無効論の破綻とその政治的な利用価値(上)~(下) 
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11396110559.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b699366d45939d40fa0ff24617efecc4

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)


■天皇の政治性
今回の小澤発言に対しては左右両翼から「天皇の政治利用」だとの批判がなされています。確かに、どの国を優遇するかは外交活動そのものであり、安全保障・治安維持・徴税・予算配分と並んで外交が政治と無縁だと考える人はそう多くはないでしょうから、「小澤発言=天皇の政治利用肯定」という理解は満更間違いではない。

けれども、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国たる日本国において、また、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)として天皇を位置づける現行憲法下のこの社会において、社会学的観察からは天皇の行動で<政治性>を帯びないものは一つもない。逆に言えば、「天皇の政治利用の禁止」で言う「政治」の意味をそのような<社会学的な政治性>の意味で捉えるとすれば、土台、「天皇の政治利用の禁止」なる命題は、「燃えない火」や「嘘を書かない朝日新聞」と同様、形容矛盾であり(イエーリングが喝破した如く「法は不可能を誰にも要求しない」のだから)、もともと、少なくとも憲法論的には無意味な命題であろうと思います。

蓋し、現行憲法がその第1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴:The Emperor shall be the symbol of the state and of the unity of the people」と明記している如く、天皇は対外的に日本国と日本国民を象徴する記号であり、他方、この社会の社会統合を担保する機能を現行憲法は天皇に期待している。再度記しますが、ある意味、現行憲法1条は「天皇の政治利用」を宣言している条項でさえあるのです。

では、「天皇の政治利用の禁止」という命題が憲法論的に有意味になるための、すなわち、権力の行使を制約する具体的な意味を持ちうるための、その命題における「政治」の意味は如何。蓋し、一般の政治学の定義に従い、「政治=権力の分配構造と権力運用の全過程」「権力=公的な資格と権威をもって他者の行動を左右しうる実力」と捉えるとき、「天皇の政治利用の禁止」に言う「政治」とは、上に述べたようにこれら一般の定義よりも限定されたものでなければならないでしょう。

畢竟、外交・安全保障・治安維持・徴税・予算配分等々の政治が覆う領域においても、時の政権の意志と相対的に疎遠な行政実務的分野と時の政権の意志が濃厚に反映される政策実現的分野が(もちろん、無限の段階差のグラデーションの様相を取りつつ)存在しているように、不可避的に天皇が帯びる<政治性>にも憲法論的に許されるものと許されないものが存在しているのではないでしょうか。では、両カテゴリーを分かつものは何か。

結論はコロンブスの玉子的。許されない「天皇の政治利用」とは(現行憲法7条が列挙する10個の国事行為を除けば)憲法1条が期待している<政治性>を超えるものと言える。具体的には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(4条)と規定する現行憲法の規範意味からは、国会の両院で絶対多数を占める政権政党といえども、単なる日本社会の部分的存在(party)にすぎない時の政権与党が形成する内閣の意志が濃厚に反映される類の政治領域においては「天皇の政治利用」は憲法論的に許されない。

而して、今次の天皇陛下と支那の習近平国家副主席の会見などは「許されない天皇の政治利用」という概念のストライクゾーンど真ん中の事態であり、それが「天皇の政治利用にはあたらない」とする鳩山首相の認識は憲法無効論並に馬鹿げた主張であり、他方、「国事行為以外の天皇の行動についても天皇が内閣の意を受けて行動することは当然」とする小澤発言も憲法論的には完全に間違っている。そう断言できると思います。


■議院内閣制と天皇制
小澤氏の「天皇は内閣の命令に従っていればよいのだ」という、朝日新聞並に傲岸不遜な口振りに憤慨された国民も少なくないと想像しています。

しかし、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない:The Emperor shall perform only such acts in matters of state as are provided for in this constitution and he shall not have powers related to government」(4条)、「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左【に制限的に列挙されている10個】の国事に関する行為を行なふ:The Emperor, with the advice and approval of the cabinet, shall perform the following acts in matters of state on behalf of the people」(7条本文)という現行憲法の規定を読む限り(前項で論証した如く、今回の支那の要人との会見が「許されない天皇の政治利用」であったとしても)、残念ながら、小澤氏の主張自体は満更根拠薄弱とは言えないのではないか、ならばこそ、天皇規定の見直しを含め一刻も早く憲法改正を実現しよう。と、切歯扼腕、そう考えておれる保守改革派の方もおられる、鴨。蓋し、「否」です。

現行憲法からも<天皇=内閣のマリオネット説>は成り立たない。もし、「天皇は内閣の命令に従っていればよい」、すなわち、天皇の行為はすべて内閣の意を受けた行為であるのならば、天皇制自体不要であり、不要な制度を現行憲法が、しかも、その第一章に規定しているはずはないからです。畢竟、現行憲法は(私的行為以外の)公人としての天皇の行為に内閣の容喙を許さない範疇のあることを前提にしていると考えざるを得ない。

憲法学の通説では、現行憲法上の天皇の行為を、①国事行為、②私的行為、③公的行為の三類型に区分して考え、就中、公的行為を現行憲法7条が列挙している10個の国事行為以外の「象徴としての天皇の行為」と理解します。通説の理解とここまで述べてきた考察を整理すれば、天皇のすべての行為と内閣の意向に沿った天皇の行為の包摂関係はこう定式化できるかもしれません。

[天皇のすべての行為]=[私的行為]+[公的行為]+[国事行為]
[天皇のすべての行為]-[私的行為]-[内閣の意向に沿った天皇の行為]=α
α>0;α=[政治利用が許されない公的行為]
∴[内閣の意向に沿った天皇の行為]
=[国事行為]+[政治利用が許される公的行為]


では、政治利用が許されない公的行為とは何か。政治利用が許されない公的行為と政治利用が許される公的行為の分水嶺は那辺にあるのか。これまた、前項の帰結の延長線上にその解はある。すなわち、圧倒的な政権与党といえどもこの社会の部分(party)にすぎないことと、主権国家としての政治意志決定の必要性というダブルバインド状態が、議会制民主主義を採用するすべての憲法秩序の恒常的な現実であることを踏まえる時、現行憲法の<精神>は、時の政権が日本国民総体を僭称することを許す政治の領域と許さない政治の領域をメルクマールにして、天皇の公的行為に関して政治利用の可否を定めていると考えざるを得ない。

蓋し、天皇がこの社会の統合を維持促進する機能部面においては天皇の公的行為の政治利用は許されるけれど、それ以外の部面、就中、部分にすぎない政権与党が(憲法典と憲法慣習とを問わず、現行の実定憲法が定めている議会制民主主義の制度的な仕組みを援用するのではなく)天皇の公的行為を用いることで自己の権力行使の正当化を行なうことは、憲法論的に許されない。それは、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国という社会統合イデオロギーを法体系内在的な<政治的神話>とする(憲法典と憲法慣習が編み上げている総体としての)現行憲法の<精神>から見て許されないことなのです。

而して、天皇制と議会制民主主義、皇室と議院内閣制を並置する現行憲法の解釈論においては、<天皇=内閣のマリオネット説>は憲法論的に成立しない。畢竟、時の政権与党の外交戦略を促進すべく、(象徴としての天皇の行動の枠組みは間違いなく憲法規範の一斑であるがゆえに、これまた間違いなく実質的意味の憲法の一斑である)外国要人との天皇の会見に関する慣習ルールを逸脱した今般の民主党政権の行動は、憲法の<精神>に背くだけでなく実質的意味の憲法たる「憲法慣習=憲法規範」に直接違反するものだ。蓋し、民主党政権が主張する「議院内閣制下の天皇の政治性のあり方」の意味内容と現行憲法の規範意味の径庭は甚だ大きい。


すなわち、国民主権にせよ民主主義の立場を憲法が取るにせよ、(「株式会社」には手も足も頭もなく、法的に定められた「取締役会」や「株主総会」がその意思を世間的に体現しなければ対外的な経営活動などは一日も行なえないのと同様)「国民の総体」なるものはこの世に存在しないわけですから、それを代表するものが求められる。「代表民主制-議院内閣制」下において、権力の意思を代表するものとしては国会であり内閣になるのでしょうが、それらも「国民の総体」としては極めて脆弱な社会学的根拠しかもたない、否、それらが<社会の部分>でしかないことは自明である。

而して、立憲君主制を採用する憲法秩序においては「国民の総体」を、政策実現活動とは無縁の<君主=王室・皇室>が担うことになる。ならば、国民の社会統合、日本国総体の対外的代表という最高度に政治的な機能を担う天皇の行為に関しては、時の政権の政策価値体系とは無縁な領域に限り政治利用が認められるべきである。と、憲法論的にはそう私は考ます。



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