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朝日新聞元旦社説☆戦後民主主義からの国際関係論は「アナドル」の妄想か?

2007年01月01日 21時24分30秒 | 日々感じたこととか


皇紀2667年、平成19年(2007年)1月1日の朝日新聞社説「戦後ニッポンを侮るな 憲法60年の年明けに」を読んだ。無内容&無根拠。その二語に尽きると思った。

朝日新聞の元旦社説といえば度々物議を醸してきたけれど(★:過去の元旦社説に関しては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。尚、本稿では字数制限のためにURLにはリンクを張っていません)、今年の出来栄えは贔屓目に見ても(笑)、パワー不足の感は否めなかった。それは自己の妄想を朝日新聞と戦後民主主義的の価値観を共有する身内筋の読者に対して呟いたという呈のもの。

・2006年:駄洒落で反日遊戯する朝日新聞の元旦社説 
  http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-249.html

・2003年:「千と千尋」の精神を! <春から笑わせてくれるよ、朝日新聞>
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E42.htm

現在、公私多忙&多難で、「こんなのを俎上に乗せる暇はないよ」というのが正直な心境である。しかし、そこは年の初め。やっぱ、正月は謙虚に衿を正し一年の計をはかるべき時空間だろう。ならば、朝日の社説を媒介にしてこの国の行く末と自分のレーゾン・デトールや立ち位置に思いを馳せるのも正月ならではないかい。そう思い返しPCに向かうことにした。まず、今日の社説から幾らか引用しておく。以下、引用開始。

悲願だった教育基本法の改正を終え、次は憲法だ。そう意気込む自民党の改憲案で最も目立つのは、9条を変えて「自衛軍」をもつことだ。(中略)

だが、よく考えてみよう。

自衛隊のイラク撤退にあたり、当時の小泉首相は「一発の弾も撃たず、一人の死傷者も出さなかった」と胸を張った。幸運があったにせよ、交戦状態に陥ることをひたすら避け、人道支援に徹したからだった。それは、憲法9条があったからにほかならない。

もし名実ともに軍隊をもち、その役割を拡大させていたら、イラクでも英国軍のように初めから戦争参加を迫られていただろう。そうなれば、一発の弾も撃たないではすまない。間違った戦争となれば、なお悔いを残したに違いない。

もちろん、国際社会が一致してあたる場合は知らん顔はできまい。テロ組織の基地を標的としたアフガニスタン攻撃はその例だった。自衛隊はどこまで協力し、どこで踏みとどまるか。「憲法の制約」というより「日本の哲学」として道を描きたい。(中略)

昨年はじめ、うれしいニュースがあった。英国BBCなどによる世界33カ国調査で、日本が「世界によい影響を与えている国・地域」で2位になったのだ。(中略)

軍事に極めて抑制的なことを「普通でない」と嘆いたり、恥ずかしいと思ったりする必要はない。安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げるが、それは一周遅れの発想ではないか。むしろ戦後日本の得意技を生かして、「地球貢献国家」とでも宣言してはどうか。エネルギーや食料、資源の効率化にもっと知恵や努力を傾ける。途上国への援助は増やす。国際機関に日本人をどんどん送り込み、海外で活動するNGOも応援する。そうしたことは、日本人が元気を取り戻すことにも通じよう。

「軍事より経済」で成功した戦後日本である。いま「やっぱり日本も軍事だ」となれば、世界にその風潮を助長してしまうだけだ。北朝鮮のような国に対して「日本を見ろ」と言えることこそ、いま一番大事なことである。(以上、引用終了)




◆朝日新聞の独善性と自己絶対視の構図
この元旦社説のポイントを私は次の3点と見た。すなわち、
(1)国際政治における第三者的な立ち位置
(2)日本国民の蔑視と衆愚視
(3)軍隊や自衛隊の国際政治における意義への過小評価


而して、現実の国際政治の秩序と日本国民の国際関係認識の現下の有様を相対化し、あるいは、侮蔑する(おそらくそれは、「世界市民なるもの」への期待や「国家の死滅」に至る歴史の必然的運動への確信に基礎づけられた戦後民主主義と通底する)朝日新聞一流の独善性と自己絶対視によってこれら3点は貫かれていると私には思われた。

レッテル貼りは不毛だろう。それではまるで朝日新聞だ。それでは、昨年の12月22日に公布施行された改正教育基本法を「改悪」と断じたプロ市民や(子供達を見捨てて国会前の抗議行動に参集した)日教組や全教の<教育を放棄した教師達>と同じになってしまうではないか。よって、元旦社説に見られる朝日新聞、すなわち、戦後民主主義的心性に特徴的な独善性の検討は本稿の後半に譲り、その前哨としてその心性の拠って来たる構図についてまず考えてみたい。

実際、身近に見聞きした中に好個の事例がある。それはキリスト者を名乗るある方が運営されているブログでの話し。戦争反対と教育基本法改正反対を同根のイシューと捉えるそのブログ管理者が都立高校のある教師の方からの投稿コメントを削除されたのだ。その投稿は概略、

国民の多くがその改正を今国会(165回臨時国会)にこだわる必要はないと返答しているにせよ、過半を越える国民が教育基本法改正に賛成しており(少なくとも反対ではなく)、また、国会議員の圧倒的多数は今国会での教育基本法の改正を是としている。

これらの現状を見れば、教育基本法改正を「改悪」と断定し、教育基本法改正の狙いを「教育への国家の介入を促進し、時の政府に都合のよい国民を育成しようとする、究極的には愛国心を強制され排他的なナショナリズムを注入された国民を作り出すことで日本を戦争ができる国にしようとするもの」と看做す、ある特殊な社会認識と歴史認識を絶対視する反対派の態度は「教育基本法改正に反対しない者は為政者側の狙いを理解できぬ愚か者」とする国民蔑視の心性の反映ではないか、
というもの。

この投稿に対してそのキリスト者を名乗る管理者は「そうです。教育基本法改正に反対しない者はわたしから見れば愚か者なのです」と返答されたが、先の投稿ともどもいつの間にか削除された。蓋し、このキリスト者を名乗る御仁こそ<ファシスト>と言われてしかるべきだろう。

少なくとも、彼女がその平和を願い国家権力に対する個々人の自由に価値を見出すそのヒューマンな言説とは裏腹に、(民主主義を否定するような言説や政党を許さない戦後ドイツ流の「闘う民主主義」を含め)民主主義のなんたるかを理解されていないことは確実である(尚、私の「民主主義と憲法」および「民主主義と国家」の理解に関しては取り敢えず下記拙稿を参照いただきたい)。

・政治と社会を考えるための用語集(Ⅰ) 民主主義
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/11e73438ed3c960be96ce179877bd1a7

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a11036903f28f118f30c24f1b1e9f2bf

・民主主義--「民主主義」の密教的意味 
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0364792934f8f8608892e7e75e42bc10



朝日新聞の今日の社説のごときも民主主義の何たるかを理解せず、自己の価値観と認識を絶対視する、独断の甘美なマドロミの中から紡ぎだされたもののように私には思われる。いずれにせよ、日本では(皇室を敬愛し愛国心を抱き、而して、世の一隅を照らす気概をもって日々を健やかにすごされている圧倒的多数のキリスト者とは異なり)キリスト者団体とそのネットワークはプロ市民の主要な供給源の一つになっている。ルター派の教えに共感し、同志社大学神学部と東京神学大学の卒業者に濃密な縁故を持つ私はそう断言できる。

而して、この事実を鑑みるに、朝日新聞と日本におけるキリスト者団体が大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する姿勢だけでなく、その言動に付随する独善性と自己絶対視のattitudeとatmosphereをも共有していることは記憶しておくに値しよう。

誹謗中傷ではなく、プロテスタント諸派の連合組織である日本基督教団は左翼系活動家の巣窟としてつとに有名である。他方、カトリック教会は戦前-戦中-戦後を一貫して簡単に言えば「キリスト者といえども時の政府に従うのは国民の義務である」「靖国神社は宗教施設にあらず。それは、日本国民の国民精神の結節点である。ならば、キリスト者といえども(世俗の行事の一環として)靖国神社に参拝し、日本国民として英霊の御霊に感謝の誠を捧げることは許される。否、それは日本国民たるキリスト者の当然の責務である」との認識をバチカンの公式見解として維持している(★)。流石は、ペテロの後を継ぐ者だ。

★KABU註:日本の赤い司教集団
プロテスタント教団と轍を一にして、(残念ながら)日本に16ある教区レベルでは左翼系の司教集団が蠢いている。教育基本法改正に反対しただけでなく、カトリックの戦争責任なるものを(戦争協力の責任と戦争に対する反省を回避してきた責任を)カトリックの教義を度外視して言いつのる司教集団が跋扈しているということ。この「赤い司教集団」の策動と、そして、多くのカトリック信徒はそのような赤い司教達の言動を苦々しく見ていることについては『正論』(2007年2月号)所収の斉藤吉久「教育基本法「改正」反対で揺れるカトリック教会」を参照いただきたい。


キリスト者はキリスト者がゆえに「反戦論者」にならなければならないわけではない。まして、「反皇室-反靖国」の立場を取らなければならない、あるいは、「特定アジアの利益増進を図らなければならない」という理屈が成立するはずもないのだ。

ならば、(消去法的にせよ)民主主義を肯定し、現行憲法の作る秩序を肯定する者は須らく「反戦」や「反皇室-反靖国」のサイドに立たねばならないことなど断じてない。個人の道徳や信条、あるいは、特定アジアを利する特殊な党派的な歴史観を信仰や憲法解釈に持ち込むべきではないのである。「カエサルのものはカエサルに返せ」。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返すべき」(マタイ22章21節)なのだろうから。閑話休題。

Matthew 22: 21 (New International Version)
Then he said to them, "Give to Caesar what is Caesar's, and to God what is God's."




◆戦後民主主義の国際関係論は「アナドルの妄想」?
朝日新聞の元旦社説が「侮るべきではない」と主張する戦後民主主義流の国際関係理解は喩えれば「アナドルが垂れ流す妄言」ではないか。それは、政治・経済・国際関係・教育問題等々に関してほとんどなんの専門知識もない、さりとて、庶民の常識をも持ち合わせているとは言いがたい「女子アナ」の発言に近いということ。

蓋し、朝日新聞が擁護しその再生を願う戦後民主主義的な憲法解釈と世界市民なるものを押し立てる国際秩序の理解は、認可事業である放送ネットワークという与件を基盤として始めて「アナウンサー」が「アイドル」として機能している実態を看過しつつ、「アナドル」の人気という事実からアナドルの吐く無知蒙昧なる言説を正当化しようとする謬論とパラレルということだ。上で述べた3点を補助線にしてこのことを敷衍しよう。



●国際政治への第三者的な立ち位置からの思考
陸上自衛隊のイラク派遣は「一発の弾も撃たず、一人の死傷者」も出さず終了した。確かにそれは朝日新聞が言うように「交戦状態に陥ることをひたすら避け、人道支援に徹したからだった。それは、憲法9条があったから」と言えなくもない。けれど、交戦状態に陥ることも辞さず国際秩序の安定に寄与することはアプリオリに否定されることだろうか? 「否」である。

蓋し、貿易にせよ投資にせ技術と知的財産権における国際競争力の維持向上にせよ、円滑な「人・物・金・情報の時空を超えた移動」を担保する安定的な国際秩序が日本の生存に不可避であることは誰も否定しまい。また、軍事的抑止力と軍事行動が国際秩序を維持する手段の少なくとも一つであることも同様である。

これらを鑑みるならば、(「一発の弾も撃たず、一人の死傷者」を出さなかったことを言祝ぐことは自衛隊を愛する国民として当然であるにしても)「交戦状態に陥ることをひたすら避け、人道支援に徹する活動」しか自衛隊に許さない憲法9条を称賛するなどは第三者的な立ち位置からの無責任な発言にすぎない。

而して、「国際社会が一致してあたる場合は知らん顔はできまい。自衛隊はどこまで協力し、どこで踏みとどまるか。「憲法の制約」というより「日本の哲学」として道を描きたい」などは噴飯ものの言い草だ。それは、国際秩序の維持が「他者への協力」などの文字通り他人事ではなく日本自体の問題であることを看過した評論家的な発言であり、加えてそれは、大東亜戦争後の日本の平和が(憲法などではなく)自衛隊と日米安保条約によって、しかも、マクロ的には冷戦構造の軍事的均衡の中で維持されてきた経緯を忘れた議論である。蓋し、それは「アナドルの脳天気な言説」の如き現行憲法称賛に賛意を呈する愚とパラレルと言うべきであろう。



●日本国民の蔑視と衆愚視
「もし名実ともに軍隊をもち、その役割を拡大させていたら、イラクでも英国軍のように初めから戦争参加を迫られていた」という認識には、教育基本法改正反対派のファシスト的言説と同様な国民蔑視が伏在している。どのような戦争にどのように係わるのかを決めるのは最終的に国民の現実具体的な意思であるという議会制民主主義の理路と価値を認めない独善性と自己絶対視がそこに明瞭に見て取れる。

1989―1991年の社会主義崩壊後、冷戦構造の解体にともない日本は憲法改正を経ずして、カンボジア-インド洋-イラク等々数次にわたり海外に自衛隊を派遣した。そして、国民はこの15年近くの間、安全保障と自衛隊の海外派遣を巡る政策変更を政府に迫る数度の機会にことごとくこの派遣を是認し支持してきたのである。



私は何が言いたいのか? 簡単である。それは、(イ)(米国からの強い海外派兵要請を日本が断れるかどうかを含め)どのような戦争に日本がどのように係わるのかは国際政治の現実の利害関係と力関係に規定される政策判断であり、日本はその政策決定にフリーハンドでは臨めないこと。他方、(ロ)再度記しておくが、その政策判断の是非は最終的には国民の意思が決定するということだ。

蓋し、もし(その軍備強化によって日本が独自路線を取り始めるリスクや極東地域で軍事的緊張が高まるネガティブ要因をも考慮した上で)、米国が日本に対して強く海外派兵を要請するような場合にはそれを日本は断れないだろうことは、憲法改正と無関係に具現する「緊急は法を破る事態」の惹起である。そして、そのような「緊急がゆえに憲法を破った政策判断」を是認するかどうかは究極的には国民自身が決めるしかないマターなのである。

ならば、「イラクでも英国軍のように初めから戦争参加を迫られていた」という言辞は、(その結果は惨憺たるものであるにせよ)国際政治全般をにらんだ上で自国の利害を担保すべく軍の派遣に踏み切った英国の怜悧を「戦争は悪」「戦争反対」なる独善的な国際関係認識から批判する書生論でしかなく、なにより、それは(その後の総選挙で与党労働党に政権運営を引き続き任せることで)派兵を支持した英国国民を愚民視する傲岸不遜と言うべきであろう。

畢竟、「イラクでも英国軍のように初めから戦争参加を迫られていた」などは、米国の安全保障戦略などは他人事と捉える第三者的言辞であると同時に、「戦争は悪→戦争反対」などの戦後民主主義的な主張の荒唐無稽さが露にならなかったのは冷戦構造下の日本という特殊な条件が働いていただけという経緯を看過した、正に、それはアナドルの非常識な発言の擁護にすぎない。



●軍隊や自衛隊の国際政治における意義への過小評価
「軍事に極めて抑制的なことを「普通でない」と嘆いたり、恥ずかしいと思ったりする必要はない」ということが「英国BBCなどによる世界33カ国調査で、日本が「世界によい影響を与えている国・地域」で2位になった」ことからどのように演繹されるというのか。なにより、「世界によい影響を与えている国・地域で2位」になった日本とはすなわちイラクやインド洋に自衛隊を派遣している日本でもあるのだ。

蓋し、「エネルギーや食料、資源の効率化にもっと知恵や努力を傾ける。途上国への援助は増やす。国際機関に日本人をどんどん送り込み、海外で活動するNGOも応援する」ことも国際秩序の安定があって始めてefficientlyに遂行できるものであろう。また、繰り返しになるけれど、国際秩序の安定が(軍事力だけで実現できるものではないにせよ)軍事力をその不可欠な契機としていることも自明であろう。

ならば、「地球貢献国家としての日本」と「普通の国になった日本」とはなんら矛盾するものではない。否、むしろ、あらゆる戦争を拒否する非戦論者は論外として、米国の世界戦略に沿った戦争や抑止力保持に反対する平和主義者は国際秩序の不安定要因でさえある(これに関する基本的な私の考えについては取り敢えず下記拙稿を参照いただきたい)。

・退屈な戦争体験
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11142107293.html

・「二重被爆が示すむごさ-広島と長崎」☆逆立ちした反核運動を教唆する朝日新聞社説
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-18.html

・再録☆イラク戦争を支持する10個の理由
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-183.html

・妄想平和主義の基底☆戦争は人為か自然か?
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c187dd58fb5747c0f767685c241e0f2b

・無防備地域宣言と無防備宣言条例推進運動の落差
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-21.html


畢竟、「軍事より経済で成功した戦後日本」とは冷戦構造の中でのみ可能であった現象である。ならば、社会主義の崩壊以後、米国一極集中化として進行する経済のグローバル化(そして、おそらく更なるグローバル化の進行のプロセスの中での米国自体の凋落)は国際政治の構図もルールも変容させた。

而して、この現状を鑑みるならば、「軍事は必要悪」「戦争は必要ですらない絶対悪」などの戦後という特殊な時代に日本という特殊な地域でのみその矛盾が露呈しなかった「アナドルの発言=戦後民主主義からの国際関係認識」を捨て去り、新しいゲームのルールに対応すべく「経済・外交と同様に軍事も重視する対外政策」に日本も舵を取ることは当然ではないか。

「経済・外交と同様に軍事も重視する風潮」は今更それを助長しようがないほど世界を風靡している。ならば、北朝鮮のような国に対して「「軍事より経済」で成功した戦後日本」などではなく、「経済・外交と同様に軍事も重視する日本を見ろ」と言うことこそ今一番大事なことであろう。蓋し、「日本の非戦主義なるものが世界に伝播するはずだ」などの、その主張が言下に否定されないできた特殊な条件を忘れて戯言を繰る「アナドル的妄想」は国際秩序の変遷と共に葬り去られなければならない。

畢竟、「安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げるが、それは一周遅れの発想ではないか」との言は、戦後民主主義者とそれを擁護しその神通力の復活を願う朝日新聞に対してこそふさわしい。「新しい酒は、新しい皮袋に」。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5章 38節) のだろうから。平成19年元旦の朝日新聞社説「戦後ニッポンを侮るな」を読んで私ははそう考えた。

Luke 5: 38 (New International Version)
No, new wine must be poured into new wineskins.




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