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定義集-「国家」

2012年01月31日 15時28分12秒 | 言葉はおもしろいかも

 

 

 


◇国家:state, country, nation;commonwealth, republic


(1)国家の字義
白川静『常用字解』によれば、「国」は、「口(都市をとりかこんでいる城壁の形)の周辺を戈(ほこ)で守る形」、「武装した国の都」という意味であり、「家」は「家を示す宀(建物の屋根の形)の下に、犠牲(いけにえ)として殺された犬を加える。(中略)家はもともと先祖を祭る廟(みたまや)であるが、これを中心として家族が住んだので、人の住む「いえ、住居」の意味となった。家族によって家柄が構成されるので、住居としての建物の意味だけではなく、家族・氏族のあり方をも含めて家という」という意味を表す文字列とのことです(★)。

尚、弊ブログのこの「定義集」コーナーでする、ある言葉の<定義>については、
要は、「定義の定義」につきましては下記拙稿をご参照ください。


・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0fb85611be79e7a89d274a907c2c51ac


★註:修身・斉家・治国・平天下

日本では「国家」という単語は、幕末期の終わり、よって、明治初期頃までは、主に、(ⅰ)天皇と皇室のこと、(ⅱ)主に大名家(加之、「大名家」でもある徳川将軍家の宗家)について、(ⅱa)その治める領地と領民、および、(ⅱb)その領地領民を治める統治機構、ならびに、統治機構を担う領主と領主の家来の集団という二つの意味に専ら使用されてきました。

他方、漢語では「国家」も「家国」あるいは「家邦」も同じ意味であり、それらは「ある人の故郷やある人が属する国」を意味していた。「国」と「家」、そして、「国家」の語義を調べてみると、四書の一つ『大学』で孔子が打ち出した社会思想;修身・斉家・治国・平天下の意味もよく理解できる気がします。

すなわち、天下泰平のためには(天下を構成する)国々がよく治められなければならないし、国をよく治めるためには(国を形成している)各氏族や家族が正しい秩序に従っていなくてはならなず、家族がそのような秩序によって統制されるためには家族メンバー個々が正しい身の処し方(儒教のルール)を体得しなければならない、と。

現在の目から見れば、「修身→斉家→治国→平天」のプロセス(特に、斉家→治国の移行には)少なからず飛躍というか我田引水的なものが感じられるけれど、孔子(や孔子に仮託して『大学』を編纂した儒家)にとって、このプロセスは総て、当時の氏族共同体である「国家」を念頭におけば、祖先の御霊を祭る礼という価値に貫かれたものであり髪の毛1本ほどの隙間もそこには存在していないかったの、鴨。

・加地伸行☆儒教とは何か
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5534f3fafe2f782756fc72f5d65f37fb

何を価値の内容と考えるかは別にして、ヘーゲルが人類史の発展の中で<価値=自由の精神>が漸次現実化する経緯を思念したのに対して、儒教は<価値=祖先の霊を祭る行動の正当性>の現実化を共時的かつ空間的に捉えていたのでしょうか。祖先の霊が世代を超えてつながること自体の孕む歴史性、否、現実性に思いを馳せるとき、儒教はヘーゲルの世界認識に共時的な側面(而して、資本主義の構造分析の契機)を加えたマルクスの社会思想に似ていると言えるかもしれません。



(2)国家の語義
『広辞苑』によれば、「国家」とは、「一定の領土に居住する多人数から成る団体で、統治権を有するもの」らしい。領土・国民・統治権を国家の三要素とするこの考えは、周知の通り、近代国家学の完成者イェリネックが定式化したもの。

では、国家とは何か? 

つまり、国家の正体や行動原理については、このイェリネックの<定式>はほとんど何も語ってはくれないけれど、「国家」なるものを世の森羅万象から切り取ってきて思考の俎板に載せる上では(特に近代の国民国家成立以降に限定した思索の場合)、この<定式>は大変優れたもの。それは、見ることもできず触ることもかなわない「国家」を我々が確実に認識するための<試薬>なの、鴨(★)。と、そう私は考えます。

★註:イェリネック余滴

「国家とは領土・国民・統治権(国家主権)を備えた社会集団」というアイデアが人口に膾炙しているわりにはイェリネック(1851-1911)の主著『一般国家学』(Allgemeine Staatslehre)を読んだことのある方はそう多くないと思います。私は、自分のお気に入りの法学者ハンス・ケルゼン(1881-1973)がイェリネックの下で研究していた際、この師匠にあまり評価されなかった(口の悪い、もとい、人間が正直な長尾龍一さんによれば、「イェリネックはケルゼンの主張をほとんど理解できなかった」とも。)ということからイェリネックにあまり良い印象を持っていませんでした。しかし、『一般国家学』は間違いなく傑作。それは、国家の歴史学的と社会学的理解を通して、国家と人間の実存性、および、国家の観念性と規範性をトータルで把握しようとしたものである点で、周回遅れながら結果的にケルゼンの先を走っていたの、鴨。

蓋し、ケルゼン自身は、「国家」を認識と評価の「帰属点:Zurechnungspunkt」と規定したこと。 要は、「ソフトバンクフォークス」や「なでしこジャパン」などは究極、 人々の観念の中にしか--カール・ポパー流に言えば「世界Ⅱ」および「世界Ⅲ」にしか--存在しないということなのです。

確かに、世界女子サッカー界の至宝・宮間あや姫から私もサインをもらい握手してもらったことはあるけれど、<なでしこ>に触れたことなど一度もない。而して、しかし、そのあや姫がPKで直接ゴールネットを揺らせば、<なでしこ>に1点が入り、そして、その虎の子を守りきり宿敵ドイツか、女王アメリカに勝ったら、その<なでしこ>に1勝と勝ち点3がつく、来月のFIFA世界ランクも3位から2位にあがるかもしれない。このような経緯、つまり、だれかのなんらかの行為や事態の結果がそれに社会的に帰属される観念上の--くどいですが、「世界Ⅱ」および「世界Ⅲ」に存在する--思考の結節点がすなわちケルゼンの言う「帰属点」の大凡の意味。こうケルゼンの「法と国家の同一説」の基底を踏まえるとき、イェリネックのセンスの良さが感じられるのではないでしょうか。と、そう思います。

国家とは何か;国家の正体や本質は何か? 

ホッブスによればそれは「可死の神」、すなわち、崩壊する可能性はあるものの、国家が国家として存在している限りその領土内では無制限の権力を行使してその領土内の人々の運命を決定する力を持つものらしい。ヘーゲルによれば「現実化した絶対精神」であり、ケルゼンによればそれは「法体系そのもの」。そして、マルクスとマルクス主義者にとって国家とは「暴力装置」、つまり、市民社会から分離し公的な装いに飾られつつも市民社会の支配階級(ブルジョアジー)の欲求と利益を貫徹するための強制装置かつイデオロギー装置。はたまた、多元的国家論者ラスキに言わせれば「国家も世にある継続的な社会集団の一つ」にすぎないとか。正に、これ百家争鳴、千紫万紅、支離滅裂の状態。

而して、長尾龍一『リヴァイアサン』(講談社学術文庫)は
国家のイメージを3個に整理分類している。すなわち、

①共同体としての国家
②利益集団としての国家
③暴力装置として国家


これら①~③の3分類である(ibid,p.16)。この分類法を借用すれば多様な国家観も比較的きれいに整理できそう、鴨。実際、この分類法に従えば、さしずめ、

①共同体説>アリストテーレス・ヘーゲル
②利益団体説>ホッブス・ラスキ・ケルゼン
③暴力装置説>マルクス・朝日新聞

という所になるのでしょうか。もちろん、ケルゼンの「国家=法体系」説は、方法論的の指摘なのだから、国家を実在論的に見る見方を分類したこれら①~③とは位相を異にしていると言うべきなのでしょうが、しかし、その理路を実在論に降下させれば、ケルゼンを②に仕分けしても満更間違いではないとも思います。尚、特定アジア諸国のお家芸、「中華思想」は、国家観というよりも天下論=帝国論=宇宙論に関する社会思想だと私は考えています。

長尾・国家論分類のポイントは、しかし、3分類自体ではないと思います。そうではなく、その要諦は、いずれの国家論も「国家とは超自我の虚焦点である」というフロイト的な国家観(日本では、55歳以上の方には、吉本隆明的な「共同幻想論的な国家観」と、55歳未満の方には、ベネディクト・アンダーソン的な「想像の共同体的な国家観」と言った方がわかりやすいかもしれませんけれども、)をその思考の前提にしているという主張でしょう(cf. ibid, pp.17-19)。

国家とは、個々の国民が自分の行動を制御する無意識的な道徳心を(これまた各自が、しかし、共通に)社会に投影したものである、と。尚、老婆心ながら補足しますと、各自が自己の内面の中のものにすぎないあるイメージを共通に社会に投影する経緯を「虚焦点」といいます。

私は長尾さんの主張にほぼ同意します。簡単な話です。

例えば、「国家を見せてみろ」と言う人がいたとして、彼/彼女に国会議事堂や最高裁判所、刑務所や税務署、富士山麓で毎年夏に行われる陸上自衛隊総合火器演習や、初秋の横須賀沖や晩秋の東京湾で行われるの護衛艦隊の観閲式を見せた所で、彼や彼女はそれらは単なる建物や装備や人員にすぎないと言い張るでしょう。

蓋し、国家なるものは、結局、人間の思考の中にだけ存在するもの、つまり、観念の表象であり、ある社会の中の人々が(同床異夢であるにせよ)国家なるもののイメージを共通に抱いていること、加之、(あたかも、ネーティブアメリカンの人々が自分達が作ったトーテムポールに自分達の行動を左右されるよ事態とパラレルに、)自分達が形成した国家のイメージに自分達の行動を左右されているという、間主観的な(要は、社会学的と現象学的に観察可能な)社会現象の中にのみ国家は観察されるということ

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』が実証的に、かつ、小気味よく描いたように、国家とは人々の意識と習慣の中に存在する<想像の共同体>に他ならない。それは、単なる観念の表象であり、フィクション(擬制)にすぎない。しかし、それは、社会的に成立している、間主観性を帯びた、かつ、現実にその社会のメンバーの行動を左右する力をもっているフィクションであり観念の表象でもある。と、そう言えるのではないでしょうか。

而して、ならば、国家の正体を3分類のいずれと考えるにせよ、<想像の共同体>であって初めて、国家は3分類のいずれか(共同体・利益団体・暴力装置)として機能しうる。ならば、「本質」と「正体/属性」という言葉を前者が後者の前提という意味に使わせていただければ、国家の全体像はこう把握できる、鴨。

国家の本質=想像の共同体・超自我の虚焦点
国家の正体=共同体∨利益団体∨暴力装置
国家の定義=領土∧国民∧統治権






(3)国家の意味
国家は幻想にすぎません。それは、地球市民や国際社会が幻想にすぎないのと同じです。けれども、後者の系列の幻想、よって、妄想や願望とは異なり、国家は「擬制=幻想」にすぎないけれども、社会を構成するメンバーが国家という幻想を抱いているということは間違いのない事実であり、国家という擬制に基づいて社会の(否! 世界中の)人々が生活していることも明確な事実なのです。

ならば、この意味での「国家が幻想(擬制)にすぎない」という論断、つまり、国家の幻想性の暴露なるものは、「巨人軍なるものは球団と契約している個人事業主である選手や監督、コーチの総和にすぎず、存在するのは個々の人間以外にはない」とか「天皇制とは天皇を<万世一系の皇孫たる天皇>と考える人々の意識と行動の総和にすぎず、天皇制なるものはそれらの人々の意識と行動以外になんらの実体もない」と言うこととパラレルであり、そう生産的な認識ではないでしょう。畢竟、この国家の擬制論や幻想論で、国家や国家を巡る諸々の社会的の現象についてそうそう多くの情報が得られるわけではないからです。よって、最後に、「国家の幻想論」から離れて国家の意味について考えてみたいと思います。

蓋し、国家が幻想にすぎないとしても、否、正に、幻想や擬制そのものとして現実的かつ実体的な影響を国家は人々の生活や人生や運命に及ぼしています。逆に言えば、幻想やイデオロギーにすぎない国家が持つ影響力が無視できないからこそ、大東亜戦争後の戦後民主主義を信奉する朝日新聞を始め、左翼・リベラル派は「国家主義」を批判し、神代から平成の御世まで連綿と続く日本の文化的伝統に対して、あるいは、ナショナリズムを巡っては、それらを総否定するか、総否定しないまでもそれらを相対化し、若しくは、比較的に低い評価しか与えたがらないのではないでしょうか。

幻想やイデオロギーはそれが幻想すぎないからといってその存在意義が否定されるわけではないということ。畢竟、幻想とイデオロギーに基盤を置く、ある擬制の存在意義はその擬制の幻想やイデオロギーとしての性能・効能・機能に収斂することになるということ。そして、この点において、どう控え目に見ても、国家や日本という幻想と国際社会や地球市民という幻想の性能の優劣は明らかであろうと思います。問題なく前者の勝ちである、と。

敷衍します。国家はご自分が所属する地域のフットサルや草野球のチームやそのチームのユニフォームにすぎない類の事柄なのかもしれません。しかし、フットサルも野球も一人ではできない。野球やフットサルを満喫堪能したければ野球やフットサルのチームに所属することが不可欠でろうし、また、それらのゲームに出場するに際してはユニフォームがあれば便利でしょう。而して、ユニフォームやチームが記号や幻想にすぎないとしても、その記号や幻想は観念の表象として社会的と間主観的に実在しており、かつ、ある効能を発揮する機能を担っているのです。

ことほど左様に、国際競争の渦中に放り込まれながら社会生活というゲームで七難八苦に対面する運命を与えられているのが人間存在であり、加之、社会生活というゲームの中で自己の個性を華咲かせ感動に満ちた人生を享受したいと切に願っているのが人間存在である。人間存在を、もし、このように規定することが満更間違いではないとするならば、蓋し、「日本国」や「日本人」、そして、「家族」や「天皇制」という幻想やイデオロギーが、人間存在が対面している上記の過酷な運命から個々の日本人を護り、個々の日本人の願いを実現することに少しでも有効であれば(すなわち、社会的コストの面において「投資対効果」費用がプラスであれば、)、国家や家族という幻想を社会において確立すること誰からも否定される筋合はない。と、そう私は考えるのです。

ならば、「日本人たる自分」や「豊葦原之瑞穂国住まう外国人たる自分」というアイデンティティーとプライドを、個々の日本人や個々の日本市民が少しでも体得し易くなるような教育をこの国で徹底することもまた何ら批判されるべきことではない、とも。

ならば、もしそれが、日本人のアイデンティティーに貫かれたものであるならば、<修身→斉家→治国>の思考枠組みのパーツとしての列国家論もまた現在でも有効なのかもしれません。少なくとも、個々の主権国家の存在と行動に世界全体の秩序が圧倒的に依存している現在の国際情勢を、<治国→平天下>の部分はよく示している。私はそう考えます。

尚、国家を幻想やイデオロギーと捉える思考にとって避けては通れないだろう論点が、国家を超える(「平天下」の部分と重なる)「帝国」の理解、ならびに、その「帝国と国家」の連関性の考察だと思います。これらの点については下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/23df204ea7185f71ad8fd97f63d1af5c



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