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<アーカイブ>小さな<窓>からも空は見える-日本再生のケーススタディーとしての福岡県大牟田市の菓子舗だいふく物語

2020年02月06日 11時32分21秒 | 雑記帳

 実は、ネット上でそれを最初に指摘した情報源の一つは弊ブログです。で、それで、

 はい、それがなにか? この「記事」のメッセージと関係がありまして、です。

 以上


                  

2014年02月24日 15時23分25秒

 

どんな家庭にも会社にも<物語>があるでしょう。例えば、私が直接お仕えしたことのある、ある大手予備校の経営者の方は、幾度も倒産の危機を前に首を括るために「枝振りのよい木」をさがしたことがあると仰った。でも、彼の凄いのは、その危機の際に都度、逆張りでドーンと広告を打ち、有名講師をほぼ泣き落としの状態でスカウトして乗り切ったこと、あるいは、逆に、50億円ほどの損きりを決断して--融資したい銀行には半ばあきれられながらも--あっ、というまに不採算部門から撤退された。その判断が商社と歯医者じゃなかった<勝者>と<敗者>を分けるもの、鴨。

私はコンサルタントとしては人事・研修、あるいは、知的財産権と外国人雇用を巡る業務提携契約の法律問題が一応専門なので、で、で、なにかと言うと、実は、経済学は素人。けれど、日本再生のために参考になる鴨という、ある<物語>を知っているからこのエントリー記事を書くことにしました。

もちろん、日本の市場自体の--所得やら投資やらの--パイが拡大しない限り、日本経済の再生は容易ではないのは素人にも分かる。つまり、一企業の経営について「竹やりでB29を落とす!」が如き精神論では--限られた、もしくは、縮小するパイを巡る競争の中で、そのある企業を勝者にしたとしても--結局、日本全体の元気さは回復しないのも分かる。


けれども、ある企業が元気になることは、間違いなくその地域を活性化するだろうし、その地域に対する投資も増やすことになるだろう。

逆の例になりますが、例えば、世間からは蛇蝎の如く嫌われている「無担保の消費者金融=サラ金」が、一時期、九州や東北では特にコネのない高卒女性にとってホワイトカラー雇用のほとんど唯一の提供先だった事実。

だから、例えば、ある私の教え子--経済的理由から高卒でその会社に入社して、そいでもって、通信教育で4大卒の資格を取り、その後、シカゴ大学のMBAを取得した彼女--は、某最大手のその会社があの<大岡裁き>と讃えられている最高裁判決によってあれよあれよという間に見るも無残に整理された際には、誇張ではなく涙を流していた。

あるいは、B29の空襲は「こちら側がボコボコにやられたワンサイドゲーム」では必ずしもなく、そう、

例えば、主な出撃基地のマリアナの部隊では27000ソーテイ(機体×出撃の数)に対して400機を失っています。特に、日本本土を攻撃した米陸軍第20空軍は、B-29、485機を失っています。而して、1945年8月15日までに延べ33000機(ソーテイ)のB29が約380の爆撃ミッションを行ったけれど、その間、512機のB29が失われ、乗員の戦死者は3000名弱(ちなみに、ブリテン島から爆撃に出撃したアメリカのB17とB24は、ドイツの降伏までに4100名の乗員を失っています)。この生還率については撃墜されたものよりも帰路洋上に落下したものが多いとされている。

蓋し、これはひとえに「竹やりでB29を落とす!」という人々のいる地域に向けて、かつ、長時間かけて往復する--読者のあなた、あのー、今でも、乗客としてもですよ「グアム-成田」往復は辛くないですか?--プレッシャーがB29の乗員に課した疲労のためと私は考ています。つまり、マクロ的には「竹やりでB29を落とす!」は効果がなかったわけではないということ。

何を私は言いたいのか。

それは、「精神論」と言われようが、ある企業が元気になることは--マクロ政策とは別に--、やはり、日本再生の鍵であり、そして、<精神論>の裏には必ずロジックがあるということ

ということで、私達の郷里、福岡県大牟田市にある、あるパン屋さんの<物語>を書かせていただきます。尚、本稿はその菓子舗だいふくさんの代表の方や、私の父の教え子の方から聞いた話を元に、半ば創作した<物語>です。ですから、事実関係等で間違いがあればご指摘いただければ嬉しいです。



【老舗菊水堂さん、りゅう子さんはここの若奥様であり自民党の市会議員】


終戦直後、数次にわたる空襲で街の中心部が焼け野原になったものの--東洋一の規模と世界屈指の石炭の質を誇る三池炭鉱を擁する--大牟田市は、文字通り、日本再建の<動力源>であり、活況を呈していたとか。そんな中で、食料品は、就中、菓子類はこれまた文字通り飛ぶように売れたらしい。近所の炭鉱夫だったおじさん(←大牟田弁で「おっちゃん」と言います)から聞かれたことがある。


>今日がこの空の見納めかもしらんと思い入坑してくさ、
>重労働の末に地上に戻ったとき人間は何が欲しかと思うか、と。


酒とか●(←自主規制)・・・。と答えたら、一笑にふされた。そんかもんもおらんちゅは言わんが、それは馬鹿か、まだ、半人前の坑夫たい。本当に欲しかつは、お茶と甘かもんぞ、酒とか●はそれから後の話たい、と(Even though there is such a person; but he must be a crazy or novice collier, I think; a veteran collier will want a cup or two cups of hot tea and something sweet, I believe. )。

そんな会話を思い出したのは、大牟田市は、所謂「カステラ饅頭」の発祥地ということを最近知ったから。

wikiによれば、カステラ饅頭とは「福岡県大牟田市発祥の和菓子。白餡を、卵・砂糖・はちみつ・小麦粉などを使用した生地で包んだ焼き饅頭。「カステラ饅頭」の名前は、長崎カステラと同じ原料を使用したことに由来するという」らしい。調べると、大牟田市の老舗、菊水堂さんが明治18年(1885年)に生産を始めたとも、同じく、大牟田市の老舗の城屋さんが昭和6年(1931年)、あるいは、創業大正元年(1912年)の長崎屋さんが長崎から大牟田に移転した終戦直後に作り始めたとも言われていますが、とにかく、カステラ饅頭が大牟田発祥のお菓子であり、その売り上げが爆発的に増えたのが昭和20年代後半ということ。

 

そして、当時饅頭屋だっただいふくさんも作れば売れるこの商品の生産に参入した。

だいふくさんの創業者は友清健児氏(1911年生まれ)、友清家は代々、旧柳川藩から--いわば支店の--三池藩に派遣されていた幹部駐在員。大牟田では五指に数えられる「財閥」(笑)というか名家ですが、健児氏の祖父とお父様が若くして他界されたことでかなり困窮された時期もあるとか。それで、饅頭屋を開業して(1929-1930)、苦学しながら今でいう高校(←我が母校「三池高校」ですよ!)を卒業し、早稲田に進むも病を得て帰郷。そいでもって、頼りにしていた饅頭職人さんが「北海道のカニ工船に憧れて出奔」(あのー、小林多喜二『蟹工船』(1929年)が出鱈目とは言わないけれど、当時のカニ工船が全国の若者の憧れだったというのも間違いないと思いますよ)。





さて、ここまでが長い前置きでした。而して、
不幸は単独ではこない(Misfortunes never come singly.)
この状況で、健児青年はどうしたか。


冒頭の某大手予備校の経営者の方とパラレルな行動選択。洋式の機械を購入、値段を適正価格に据え置き、腕の良い職人さんをスカウト、本格的なレギュラーコーヒーを出す喫茶部を開設・・・。

そんな中で戦中戦後を潜り、作れば売れる--よって、コンペティターも無数にありうる--カステラ饅頭だけでなくパン製造に本格参入。実は、当時の大牟田では鳳来軒というパン屋さん(1914年創業)がガリバー的存在だったけれど、筋を通し、辞を低くして健児氏はその鳳来軒さんに販売とか製造とか教えを請うたとか。だから、例えば、ある営業エリアでは「だいふくは鳳来軒が暖簾わけした店」と思っている人も今でもいるくらい。

重要なことは、戦後の作れば売れる時代に、そんな饅頭バブル時代が長く続かないことを見据えて、また、例えば、仕入れルートを持っていた人口甘味料の(要は、サッカリンですね)卸でも、適正価格で販売して--同業者からは「馬鹿ばい」と言われながらも--黙々と製品の品質向上に取り組んだらしい。

それから20年余りが経過したときにはどうなったか。もちろん、饅頭バブルは終焉していた。そして、だいふくさんのパンと他社のパンの味には格段の差ができていた。はい、私は子供のころ、その鳳来軒さんの経営者の方が父の教え子ということもあり、義理もあり、滅多にだいふくのパンは買ってもらえなかったけれど、友達の家でたまにご馳走になるだいふくの食パン(←菓子パンじゃないですよ!)のあまりの美味しさに、ぼーっとしたことがあります。文字通り、異次元の美味しさ。

而して、鳳来軒さんが事業多角化に失敗して会社を一旦整理された後、我が家でも、おそらく、大牟田中の子供たちがだいふくのパンを食べられるようになった。いやー、とにかく、美味いんだな、これが。





畢竟、あのダイエーが倒産した原因の一つ、というか、背景の構図は、蓋し、物が乏しい時代に豊富な物資を廉価に提供して隆盛を誇ったダイエーのビジネスモデルが物の溢れる時代に日本が移行したにもかかわらず修正されなかったこと。最後的には、価格破壊ほど安くもない陳腐な品揃えの退屈な店舗群を作り続け破たんしたこと、そして、マーケットから退場を余儀なくされたこと、鴨。

このダイエーの失敗の原因理解が満更間違いではないとすれば、だいふくさんの成功理由はその逆のこと。すなわち、分をわきまえたマーケット選択、商品力の維持向上、そして、元来の適正価格をもとにしたPL/BSの上での投資戦略と言えると思います

実は、友清健児氏は「防共の闘士」と呼ばれる保守派の同志だった方。1969年2月5日付けの地方紙フクニチ(←長谷川町子『サザエさん』が最初に連載されていた新聞なんですよ!)には、「三池高校の教育は一部の赤の教師に振り回されている」、なんとかせねばと述べておられる。

蓋し、けれど、私が思うに、このような<闘士>としての発言は、単に羽振りの良い経営者だからその口から出たものではなく、商品の「適正価格」というものが、マルクスの『資本論』第1巻にあるような、その時代に普遍的な労働の価値なるものによって定まるものなんかではなく、「お客様に買っていただいて初めて商品は価値を生む」ことを、青年時代からの苦学の中で--また、饅頭バブルやパンの商品開発を通して--体得された結果ではないかということ。

そうじゃなきゃー、同じ材料で同じ機械を使い同じ値段で出したカステラ饅頭が、ブランドによっては炭坑夫の皆さんの「財布による投票」でワンサイドゲームになる理由はないじゃん、ということ。つまり、労働力商品(笑)も含む商品の「適正価格」の見極めも経営スキルの要点ということでしょうかね。



而して、現在のだいふくは、経営者の方も代替わりしているものの基本は同じです。実に誠実。菓子パン等々--あっ、現在の社長のお薦めは「たまごロール」らしいですけどね--品揃えも悪くない。なにより、事務の方も含めスタッフの方々が活き活きしているのにおっとりしておられる(←これ、かなり好印象!)。そして、鳳来軒さんも現在は社業は縮小されたものの、--「石窯ぱん工房どんぐりの樹」という屋号で郊外型ベーカリーを展開するという--ニッチなマーケットで凄く良い経営の味をだしておられる。なんか--ここに書けないことも/書くべきではないことも--、いろいろ知ってるけれど嬉しいですね。

畢竟、企業には<物語>があるということ。なにより、
企業が元気じゃなきゃ地域は衰退の一途だということ。
と、そう私は思います。


尚、「大牟田市」については下記拙稿も
ご一読いただければ嬉しいです。


・書評:西村健「地の底のヤマ」<書評編><画像編>
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/439275b45c3a02732a517a58a9c02699


・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧

 -あるいは、マルクスの可能性の残余

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/385e8454014b1afa814463b1f7ba0448

 

 

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