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保守主義の再定義(上)

2010年09月17日 12時46分53秒 | 日々感じたこととか

保守主義とは何か? このテーマが日本でも世界でもいよいよ実践的な重要性を帯びてきていると思います。グローバル化、すなわち、資本主義の一層の昂進に対して人類はいかにしてその生活と生存を守ることができるのか。あるいは、資本主義と鋭く対立する側面も持ちながらも、ある意味、グローバル化の裏面でもあるリベラリズムの浸透、「地球市民」なるものを標榜する伝統破壊のこの思想潮流に保守主義はいかにして拮抗し得るのか。これらは、『大学』に所謂「修身斉家治国平天下」の四個すべてのプロセスに影響を与えつつあるのではないか、なぜならば、「修身斉家治国平天下」を成し遂げるための主体的格率(maxim)である「格物致知誠意正心」の内容確定において、保守主義の意味内容、あるいは、保守主義とリベラリズムの関係性はパラメーターとして機能するだろうからです。

私はこのブログで既に「保守主義とは何か」という問いに対して自説を展開しています(下記拙稿参照)。畢竟、自己の自己同一性を保つための恒常的な伝統の再構築と、そのような伝統を公共的で実定的な社会規範に高める漸進の前進の営み。これこそが保守主義の本性である、と。すなわち、

保守主義とは、世界と社会と歴史についての総合的で体系的な理論ではなく、ある歴史的に特殊な特徴を持った「社会認識のための姿勢」と「社会改革を実践する態度」であり、その基盤は「人間存在の有限性」と「自己の歴史的特殊性」に対する確信に遡り得る「実存主義的な価値相対主義」「経験主義的な現実主義」である。畢竟、伝統は自己の自己同一性を形成する不可欠のパーツであるがゆえに保ち守られるに値する価値を持つ、と。


恒常的な伝統の再構築。これを(シャム双生児の関係にあると看做し得る)戦後民主主義を信奉する勢力と憲法無効論なる妄想に囚われている国粋馬鹿右翼という左右の観念的な社会主義と比べれば、「保守主義」と「社会主義≒リベラリズム」の違いは明確だと思います。

而して、保守主義の具体的な意味内容については旧稿に譲り、本稿は上で述べた如き保守主義の本性から演繹される、①伝統尊重、②人間の有限性の確信と反教条主義、③国家権力にあまり多くを期待しない心性といった保守主義のエッセンスと私が考えるものに絞って自説を敷衍したものです。

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html






■保守主義と伝統の多様性と単一性
旧稿でも書いたことですが、「保守主義」の再定義の前哨として、「言葉の意味」について確認しておきます。蓋し、私はどの用語を誰がどのような意味で使用するかは、それが、(甲)専門家コミュニティー内部で確立している一般的な用語法に従っているか、そうでなければ、(乙)その話者が事前に当該の言葉を明確に定義している限り基本的に自由であると考えます。

すなわち、概念実在論が想定していたような「言葉の本当の意味」なるものはこの世に存在しないのであって、言葉を使った相互討論が生産的で有意味なものになるか否かは、「言葉の正しい意味」ではなく、討論参加者の「言葉の正しい使用方法やマナー」に依存する、と。概念実在論を最終的に葬った分析哲学に従い私はそう考えています(尚、この論点に関しては下記拙稿、就中前稿の前段を参照してください)。

・「プロ市民」考
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57630212.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59402294.html


蓋し、「保守主義」という言葉もまた本質的に多様ならざるを得ない。まして、例えば、イスラームとアメリカの伝統が異なるように各国各民族が唱える「保守主義」の具体的の意味内容も異ならざるを得ない。この経緯は共時的のみならず通時的な要因からもまた加速される。

すなわち、土台、「主権国家」「民族国家」、否、「民族」という概念自体が極めて歴史的なものであり、畢竟、一般に「主権国家」と「主権国家間の関係としての国際法秩序」を確立したとされるウェストファリアー条約体制(1648年)の後も1世紀余り、近世と近代の渾然融合は続いたのであって18世紀半ばまでは「主権国家」も「民族」も地球上に存在してはいなかった。ならば、「日本の固有の伝統」や所謂「法の支配」を可能にする「英国社会に普遍的な法」なるものがこの世に存在し得ないこともまた当然でしょう。後者に関しては、名誉革命(1689年)における「議会主権の確立」、および、階級対立の先鋭化を受けた19世紀後半以降の制定法の社会化とコモンローに対する制定法の優位の確立を想起すれば自明な如く、「法の支配」なる原理にいう「法」の意味もまた極めて歴史的で可変性を帯びたものなのですから。

実際、我が国においては、幕末・明治初葉までは「国家」とは統治の主体たる大名家中と統治の客体たる領地・領民を指す、ローカルガバメントに関する言葉でした。更に、ゲルナーが喝破した如く、例えば、現在、我々が「日本的なもの」「日本古来のもの」と感じているものの少なからずは、「皇国史観」然り、「家父長制的な家族関係」然り、「教育勅語」然り、明治維新を契機に人為的に作り上げられた表象にすぎないこと。これまた否定できない事実なのです。而して、「終身雇用制」や「年功序列制」に至っては(「農地改革」とともに)国家社会主義を目指した所謂「1940年体制」の産物であり、戦後改革の中でこれらが日本の伝統的なものと錯覚されたのは心理学で言う所の「記憶の自己改竄」に他なりません。
    
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】


「国家」も「民族」も歴史的表象でありその意味内容も可変的で多様なものとすれば、これらを依代とする「保守主義」の意味内容もまた可変的で多様なものにならざるを得ないことは自明でしょう。これが、先に述べた、保守主義の意味内容は共時的のみならず通時的な要因からも本質的に多様ならざるを得ないという私の主張の背景です。


では、「日本の伝統」などはこの世に存在しないのか? 
保守主義とは定まった意味内容を欠く空疎な社会思想なのか?

否、です。伝統とは、よって、保守主義とは伝統の恒常的な再構築の営みに他ならず、「日本的なもの」「日本古来のもの」は厳然と存在している。ただ、それら個々の表現形が通時的な普遍性を必ずしも持たないだけのこと。つまり、伝統とは外化され物象化され物神性を帯びる個々の事物ではなく、伝統を再構築する人々の意識と規範と行為に憑依する(ポパーの言う意味での「世界Ⅲ」(★)としての)何ものかに他ならない。

★註:世界Ⅲ
カール・ポパーは『客観的知識』第3章・第4章で、「考えられる対象」と「考える行為」と「考えられた内容」とは、相互に密接な関係はあるだろうが、それぞれ別の独自法則性を持つ領域であるとして、それぞれを世界Ⅰ・世界Ⅱ・世界Ⅲと名づけ区別しています。蓋し、学問体系・常識・生活のノウハウ等々は、すべて、公共的な言説空間に間主観的に存在するものであり、もちろん、それらはすべて人間の主観が産み出した産物には違いないけれど、他方、それが産み出された後、間主観性を帯びて以降は、最早、「非主権的-客観的」な知識と言うべきものである。と、そうポパーは考えます。

単なる「物の世界:世界Ⅰ」や「主観の世界:世界Ⅱ」とは別次元の「間主観的な知の世界:世界Ⅲ」は確かに存在している。例えば、誰しも、義経が頼朝に危険視されて討伐された事実を知っている。あるいは、かぐや姫が求婚者を体よくあしらって最後には月の世界に帰る結末を知っているし、憲法無効論の信徒がいかに悲憤慷慨しようが、外国人地方選挙権の賛否を巡る「保守派-良識派」と「リベラル派-売国派」の議論は現行の日本国憲法の条規や最高裁の過去の判決を前提にして戦われている。歴史的事実も御伽噺も現行憲法も「物の世界:世界Ⅰ」ではなく、論者の主観にのみその場を占めるものでしかないにも関わらずそれらは間違いなく間主観性を帯びているのですから。






畢竟、歌舞伎や狂言が日本の伝統のパーツであるのと全く同じ論理的な資格で劇団四季のミュージカルも新国劇のオペラも日本の伝統のパーツである。ボンカレーもカップヌードルも、女子高校生のセーラー服も甲子園の球児達の仕草やそぶりも日本の伝統のパーツなのです。換言すれば、伝統とは伝統的な個物と制度を恒常的に再構築するコミュニティーメンバーの心性と行動に他ならず、保守主義とはそのような伝統的の個物と制度の再構築に価値を置く社会思想であり、この意味の伝統と保守主義は、「共時的-通時的」に単一の表象として「世界Ⅲ」の中に厳然と存在している。

而して、現行憲法第1章にインカーネトしている「皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合する<政治的神話>も、所謂「夫婦別姓」を断乎拒否する「家父長制的な家族イデオロギー」も、そして、「教育勅語」もまた日本社会の醇風美俗であり日本人が堅持すべき伝統である。と、そう私は考えています。

本節の帰結を定式化すれば以下の通り、

(甲)伝統とは事実ではなく表象である。それは「世界Ⅲ」にその場を占めている

(乙)伝統の価値は事実から演繹されるのではなく伝統に価値を置くコミュニティーメンバーの心性によって効力を獲得する

(丙)民族が異なれば、また、時代が異なれば、あるいは、属する社会階層や居住する地域の生態学的社会構造(自然を媒介にした人と人との社会関係のあり方)が異なれば伝統の内容もまた異なってくる。その意味での伝統と伝統に価値を置く保守主義の意味内容は極めて多様である

(丁)伝統に価値置く心性と伝統の恒常的な再構築という行動パターンは諸民族・諸国民に広く観察されるのであり、それらの伝統と伝統の恒常的な再構築に価値を置く社会思想は単一の思想類型と言える。畢竟、保守主義とはそのような思想類型に他ならない


尚、保守主義の基盤たる<伝統>というものの、<私>と<我々>に対するたち現れ方をどう捉えるのか。私はこの問題を、(イ)「存在論-認識論」的にはフッサールの現象学、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、他方、(ロ)「認識論-価値論」の領域においては、新カント派の価値相対主義の実践哲学から基礎づけています。而して、このことを巡る私の基本的な考えについては、とりあえず下記拙稿をご参照ください。

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html



【十六夜日記】



<続く>

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