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応報刑思想の逆襲☆裁判員制度を契機に司法の「常識化」を推進せよ(上)

2009年06月04日 13時39分31秒 | 日々感じたこととか

2009年5月21日、裁判員制度(Lay Judge System)が施行されました。すなわち、①殺人罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、危険運転致死罪等々の重大な犯罪を対象に5月21日以降に起訴された、②地方裁判所で審理される刑事事件について、③裁判員(lay judges)がプロフェショナルな裁判官とともに、④有罪・無罪のみならず(有罪と判断された場合には)量刑をも合議で決する制度が導入されたのです。

では、裁判員制度に我々は何を期待し何を期待すべきではないのか。一部、結論を先取りして述べれば、私は裁判員制度や被害者の訴訟参加等々の最近の一連の刑事司法改革の眼目は、(少年・精神障害者による犯罪を含め単なる「厳罰化」の推進ではなく)市民の<常識=報復感情>の刑事司法への繰り込みであり、些か専門的用語を使えば、刑事司法における「応報刑思想」の具現(incarnation)、畢竟、<応報刑思想の逆襲>ではないか。そう考えています。

裁判員制度の導入や被害者側の訴訟参加の推進。裁判員制度を通して刑事司法の常識化。これらに思いをめぐらしていたからでしょうか、次のような報道が目につきました。

●裁判員裁判で被害者参加決定=隣人殺害事件の遺族-東京地裁
東京都内で隣人女性を殺害したとして、殺人罪に問われた無職藤井勝吉被告(72)の公判について、東京地裁の秋葉康弘裁判長は2日、被害者参加制度に基づき、遺族の参加を認める決定をした。同地裁の裁判員裁判で被害者参加制度の適用が公表されたのは初めて。昨年12月から始まった同制度では、被害者本人や遺族が出廷し、被告人質問をしたり、量刑について意見を述べたりすることができる。藤井被告の事件は5月22日の起訴後、検察側から弁護人への証拠開示が進んでいる。今月10日に第1回公判前整理手続きがあり、争点整理が進めば、7月下旬にも初公判が開かれる見通し。(時事通信:6月2日)


そう、確実に国民の常識がこの国の硬直した刑事司法に流れ込みつつあるのかもしれない。そう感じました。なぜならば、僅か5年半前に私は自分のHP上の日記コーナーに次のような文章を書かざるを得なかったからです。

●国家が死刑判決を出さないのなら仇討ち制度が復活する
平成15年10月9日、前橋地裁で、当時16歳だった高校生を誘拐し殺害した被告人に無期懲役の判決が下された。久我泰博裁判長は(我々保守改革派は「久我泰博」、この名前を終生忘れるべきではない)、被告人退廷後、傍聴席に残っていた被害者遺族に対して、「国家が死刑判決を出すことは大変なこと、納得できないでしょうが、納得してください」と言い放ったという。この報道を聞いて私は呟いた「国家が死刑判決を出さないのなら仇討ち制度を復活させるべきでは」、と。それは私の偽らざる気持ちであるだけでなく犯罪と刑罰を巡る法理からも当然の帰結だと今でも思っている。

死刑を容認する日本国民の法意識と法感情を鑑みれば、死刑は現在の日本ではいまだ国家が被害者と被害者遺族に代わって発動する制裁のメニューに確実に入っているだろう。ならば「死刑判決を国家が出せないのなら仇討ち制度の復活」は凶悪事件に関しての論理必然の帰結である。そして、それは、アムネスティー等のカルト的な死刑反対団体や朝日新聞がしばしば言うように「激情にかられた感情論」だけではない。もちろん、「厳罰=極刑」を求めるのは国民の感情ではあるだろうが、犯罪と刑罰に関して圧倒的多数の国民がそのような法感情を抱いていることは事実であり、それは裁判所たる裁判官の判断を規定する枠組みに他ならないからだ。而して、私には、現実の国民の法感情の所在を冷静に勘案することもなく馬鹿の一つ覚えの如く「冷静に冷静に。厳罰化では問題は何も解決しない。犯罪者に犯罪を選択させたこの社会の歪みの究明と是正が犯罪の撲滅には大切」と唱える、朝日新聞やカルト的死刑反対論者の方こそ「惰眠を貪る感情論」に思えてならない。
<2003年10月10日>



■裁判員制度の整理と評価
裁判員制度は何を目指したものか。ご存知の方も多いと思いますが、素人が裁判に参画する制度、所謂「陪審制(jury system)」や「参審制(Schöffengericht)」は、その非効率性と下される判断の合理性に対する不信から現在ではその本家の英国では著しく、また、アメリカ・ドイツ・フランスでも漸次衰退しつつあります。けれども、裁判員裁判(lay judge trial)を通して市民の常識を司法に導入するという試みは、「犯罪が生起するのは社会の歪みが原因」とばかりに被疑者・被告人の権利の擁護に熱心な戦後民主主義を信奉する勢力が牛耳るこの国の刑事司法に対する、「厳罰化」、あるいは、少年事件裁判への被害者参入と知る権利の保障を求めてきた世論の一定程度の勝利ではあろうと思います。



畢竟、「どの社会でもどの時代にも妥当する最適な制度」などは、刑事司法のみならず選挙制度・国籍付与制度・税制等々どのような法域においても存在しないでしょう。而して、(明治初期のボワソナードの建議以来の検討を踏まえ)戦前に施行されていた陪審制度が「多額の訴訟費用負担」「陪審裁判を経た判決の控訴禁止」「同輩の者達からの審理を嫌う風潮」等々の理由から陪審裁判を辞退する被告人が続出した反省を踏まえ、更には、英米の陪審制に投げかけられてきた主要な批判点、例えば、

()陪審による決定には(コモンロー上)、全員一致、少なくとも、12人中の10人程度の多数での評決が必要とされてきたことにより、真の犯罪者にも無罪の評決が下されかねない

()法律の素人である陪審員だけでなされる陪審では、(法律上、陪審員はその教示に従わなければならない)専門裁判官が行なう法律に関する説明が理解できない陪審員によって、法的には無意味で非効率な討議がなされる傾向がある

()仕事で忙しい相対的に知識水準の高い市民ほど陪審員を辞退する傾向があり、陪審員の知的水準が漸次低下しているのではないか

()社会の工業化と情報化の昂進の中で、事実認定においても素人の陪審員が適切に判断しえない事例が増えてきた(特に、19世紀以降、民事陪審裁判の対象をミニマムにしてきた英国とは違い、連邦憲法と各州の憲法において、原則、ほとんどの民事事件に対しても陪審裁判を受ける権利が保障されているアメリカではこの弊害は特に大きく、実際、アメリカでも「わけの分かっていない陪審員」による審判を嫌い、陪審裁判を受ける権利を民事事件の双方当事者が放棄する傾向が顕著!)


これらの英米の陪審制が抱えてきた問題点を鑑み、今次の裁判員制度は、(イ)裁判員裁判の対象を重大な刑事事件に限定して裁判員候補・裁判員となる市民の負担を極小化し、また、(ロ)(コモンロー上の権利は地域社会のメンバーが主体となって守るべきだという、我々保守改革派にとって好ましい原理に英米の陪審員制度は根ざしてはいるものの、土台、英米流のコモンローを継受したわけではないこの社会にあっては)専門の裁判官と素人の裁判員が合議する謂わばドイツ・フランス型の「参審制」を導入することが妥当であり、それによって無知による素人の暴走は制御可能である。更に、(ハ)合議の議決は単純多数決によるものとし裁判員裁判の効率と適正さを担保しつつ、(ニ)原則、裁判員候補はその職務を辞退できないとしたこと。これらは賢い制度設計ではなかったかと思います。

蓋し、裁判員制度の目的は一般的な市民の法感情を公的に刑事司法に導入することと言えるでしょう。ならば、今次の裁判員裁判の対象事件に少年審判事件が含まれていなかった等些か不満は残るものの、市民の常識を刑事司法に導入可能な制度が始動したことは評価に値する。そう私は考えています。尚、裁判員制度に関しては下記のURLをご参照ください。

・裁判員の参加する刑事裁判に関する法律全文
 http://www.saibanin.courts.go.jp/shiryo/pdf/02.pdf

・裁判員の参加する刑事裁判に関する規則
 http://www.saibanin.courts.go.jp/shiryo/pdf/27.pdf


■刑事司法改革の背景
秋葉原通り魔事件(2008年6月8日)や茨城通り魔事件(2008年3月23日)、あるいは、国立大阪教育大学付属池田小学校乱入殺傷事件(2001年6月8日)等々理不尽な犯罪の横行、また、少年によるセンセーショナルな犯罪や幼児虐待の多発によって厳罰化を求める世論は強い。他方、光市母子殺害事件やオウム真理教裁判を巡る不埒な弁護側の対応と裁判の遅延等、日本の刑事司法の改革が不可避な状態であることは誰の目にも明らかだと思います。而して、裁判員制度や被害者の訴訟参加制度の導入、そして、少年法の数次にわたる改正も全体としてこの流れに沿ったものかもしれません。

では、刑事司法改革を不可避としているこの社会の様相はどのようなものでしょうか。2008年9月の世界金融危機の後、新自由主義のみならず、資本主義やグローバル化自体に対する批判さえこの国では叫ばれていることを私も知らないわけではないのですが、畢竟、現下の刑事司法改革もトータルには、新自由主義に立つ論者が都度指摘してきた「官僚支配の終焉=事前規制の終焉」のコンテクストの中の事象である。そう私は考えています。すなわち、

許認可権限と監督権限を武器に官僚が事前に社会活動の細部にまで目を光らせることで紛争は比較的少なく、よって「事後的紛争処理の制度=司法」の役割がミニマム化していた社会。そういう戦後日本的な(否、戦時中の国家総動員体制とともに確立した、所謂「1940年体制」的な)「紛争処理=予防システム」は、この社会の大衆社会化、そして、産業の高度化と多様化をともなうグローバル化の潮流の中でその神通力をほとんど失いつつあります。

近侍、食品の賞味期限や建物の強度計算の偽装問題等、世間を騒がせた事件で監督責任を問われた官僚達が「役所は許認可の審査はするが、個々の業者が実際に正規のルールに則って業務を遂行しているかどうかを、常時監督する能力は役所にはない」と答弁するのをしばしば見聞きするにつけ、悪名高き日本の官僚支配等は<張子の虎>にすぎなかったことに気づきます。「こんなことやっていたら次から認可をもらえないかもしれない」という恐れが社会的に機能していた条件下でのみ日本の官僚は<虎>として振舞えたのだ、と。

よって、様々な産業において国内外からの新規参入とそれに伴う業界再編が常態となった現在。否、産業自体もドッグイヤーでの栄枯盛衰が珍しくなくなった現在。日本の官僚支配などは<借りてきた猫>でしかない。ならば、虎が猫になったのだから、虎がやり残した「事後的な紛争処理」を担当していた司法制度もまた変革の必要に瀕していることは当然でしょう。では、日本の司法制度は、就中、刑事司法制度はどう変わるべきか? 繰り返しになりますが、「どの社会でもどの時代にも妥当する最適な制度」は存在しないでしょう。ならば、ある制度の評価は「今ここでのパフォーマンス」に着目するしかなく、而して、そのパフォーマンスの優劣はその当該の制度が実現を期す理念と目的をいかにefficientlyに達成できるかどうかで決まるでしょう。このような状況認識と作業仮説に基づき、日本の刑事司法制度のあるべきあり方について以下私の考えを整理してみたいと思います。



■抑止効果のない刑罰は無意味か?
かなり旧聞に属しますが、新聞にこんなコメントが載っていました。「抑止にならず逆効果」(朝日新聞・2003年6月20日朝刊・東京本社版、「被告席の親たち 幼児虐待事件 中 厳罰化より要約紹介)

「子どもの虐待防止ネットワーク・あいち」の多田元弁護士の話
厳罰化の流れが強まっていることは、児童虐待の防止に逆効果だ。責められていると感じることで、親は不安な状態に陥り、水面下での虐待はますます増えるだろう。厳罰化は抑止にはならない。これからは裁判で虐待のメカニズムを解明し、社会の責任を明らかにする必要がある」


このような主張は、例えば、少年法改正(「少年法等の一部を改正する法律」(平成19年法律68号。施行は平成19年11月1日;同、平成12年法律第142号。施行は平成13年4月1日)の時にもしばしば聞いたものです。また、これは死刑廃止論者の常套句とも言える。すなわち、「厳罰化(=死刑)には犯罪の抑止効果は乏しい。ならば、犯罪者を犯罪に向かわせた社会的諸問題こそ問題であり、その社会的な歪みの実像をこそ裁判を通して明らかにすべきだ」と。

確かに、絶対的終身刑に比べて死刑にそれほど大きな犯罪抑止効果がないことは刑事政策の常識。また、衣食足りて礼節を知る。恒産なくして恒心なし。金持ち喧嘩せず。これらも真理でしょう。すなわち、社会が豊かになり格差が解消して社会のすべてのメンバーが善良になれば犯罪は起きないかもしれません(ただ、冗談抜きに私は、犯罪も起きないような社会はある意味極めて非人間的で歪な社会ではないかと思わないでもありませんけれども)。しかし、刑事司法制度の運用は社会が理想的な社会になりその社会のすべてのメンバーが善良になるまで小休止するわけにはいかないこともまた自明であろうと思います。ならば、このような「犯罪の原因は社会→犯罪の責任を負うべきも社会」という主張は、少なくとも、刑事司法制度のデザインを巡る議論においては空虚で無内容なものでしかない。そう私は考えます。

犯罪とは安全な社会生活に対する脅威であり、(「犯罪者」を被疑者・被告人・受刑者等を含む広い意味で用いるとすれば)刑罰とは犯罪者から社会の安全を守るための技術に外ならず、刑事法の法体系は、犯罪から社会の安全を守る機能と犯罪者の正当な人権を守る機能を両立させるためのものです。

刑事法体系には大きく二つの機能があります。一罰百戒、刑法を事前に定め惹起した犯罪に対して凛として刑罰を科すことにより一般の人々に犯罪を思いとどまらせること。刑事政策的にはこれを刑法と刑罰の一般予防効果と呼び、他方、犯罪を犯す素質を持つ者を前もって社会から隔離すること(そのような者を永久に社会から隔離する制度の一つが「死刑」!)を特別予防効果と言います。医療刑務所での長期の隔離治療や累犯の場合に宣告刑が初犯時よりも重くなる等が特別予防効果の顕れと観念してもよいでしょう。而して、特別予防の機能をより重視する刑法学派が「近代学派」と言われ、他方、一般予防の機能を重視する学派が「古典学派」と呼ばれています。学説史的には、古典学派は「目には目を、歯には歯を」のタリオの法則以来、古代・中世を通じて幾多の法学者・哲学者によって彫琢を施された思潮であるのに対して、近代学派は19世紀後半にイタリアで誕生した比較的新しい思潮だからです。

上記のことは、刑法総論や刑事政策のどの教科書にも書かれていることなのですが、要は、古典学派であれ近代学派であれ、社会の安全を犯罪者と犯罪から守ることを刑事法体系の役目と考え、よって、犯罪抑止効果がない刑事政策(宣告量刑も含め)は拙い政策と一応考えている点では両者に本質的な差はないと思います。

ならば、「厳罰化は抑止効果がない」「犯罪から社会を防衛するには犯罪の原因となった社会の側の問題をこそ裁判で明らかにすべきだ」という人権派の主張対して、例えば、「どの国のどの時代も天国ではなかった。殴りたい奴、殺したい奴を一人や二人は皆心に抱えて世過ぎ身過ぎしてきたのだろう。しかし、それでも、大部分の人々は犯罪の衝動をグット我慢してきた。だからこそ、その衝動を抑えられなかった者が社会的に厳しく非難され厳罰を科せられるのは当然なのだ。実際、江戸時代は十両盗むと首が飛んだというではないか」「15や16の若造に、妻子を強姦され絞殺された被害者遺族の憤りを考えた場合、死刑にすることを禁じ、あまつさえ、被害者遺族に少年審判廷への出席を原則認めなかった少年法は間違いなく人倫に反する悪法だ」等々と反論しても、上記の戦後民主主義的な刑罰観からの主張を論駁することはできず、むしろ、犯罪者に優しい人権派からは、「そのような主張はセンセーショナルな事件報道に接して高ぶった素人の感情論だ。法改正や量刑の在り方は、もっと冷静になって慎重な議論が積み重ねられるべきだ」と再反論されるかもしれません。では、刑法と刑罰の機能論からは人権派の主張は容認しなければならないものなのでしょうか?


<続く>




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