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【再掲】「天皇制」という用語は使うべきではない」という主張の無根拠性について(補論)

2019年05月02日 22時19分50秒 | 言葉はおもしろいかも


■中間小括
私の主張を整理しておきます。蓋し、

(α)天皇は「制度」でもある
(β)天皇を「制度」としても見る立場と天皇を「実存」と捉える立場は両立可能である
(γ)コミンテルン流の「天皇制」は日本社会の社会学的認識仮説の一つである
(δ)コミンテルン流の「天皇制」は1930年当時の水準のものとしては優れたものだ
(ε)コミンテルン流の「天皇制」は、しかし、1930年当時においても間違いである
(ζ)天皇を「制度」として見る見方はコミンテルン流の「天皇制」に限定されない
(η)コミンテルン流の「天皇制」とは異なる「制度」として天皇を見る見方を「天皇制」
   と呼ぶことは、その定義が明確である限りなんら問題ではない
(θ)天皇を「制度」としては考えない立場は、天皇をコミンテルン流の「天皇制」として
   のみ見る立場と同様に根拠を欠く、憲法無効論なみの馬鹿げた主張である
    


「天皇制」という言葉を使うべきではないという主張の裏には、満更無下には否定できない二つの疑念が横たわっているのかもしれません。すなわち、

(1)「天皇制」という用語の意味はコミンテルンが定式化した意味に規定されるのではないか
(2)「天皇制」という用語の基盤には「天皇は制度にすぎない」との認識がありはしないか    


本編記事でも述べた如く、しかし、認識と対象は別次元のものである。つまり、(2)は不毛な認識である。蓋し、天皇という対象を見る認識論的な枠組みに「制度」や「実存」があるのであって、天皇自体が「制度」であるわけでも「実存=国体」であるわけでもないからです。強いて言えば、光が波と粒子の性質を併せ持っているように、また、松田聖子さんが歌手であり母親であるのと同様、天皇は「制度」でもあり「実存」でもある(より、正確に言えば、天皇という対象は「制度」としても「実存」としても認識できる)のです。

而して、(1)においても、学説史理解の礼儀として、コミンテルンの用語法もきちんと踏まえる(プロ市民の如く揚げ足を取らないように! 「踏まえる」というのは「賛同する」とか「容認する」ということではなく、「あん人達はこんな馬鹿げたことを言っていたのね、でも、1930年代としては馬鹿にはできない水準だよな」と情報を正確にインプットするということですよ。)のは当然として、定義を明確に示す限りそれとは異なる内容を「天皇制」という用語に込めるのはなんら問題ではない。蓋し、言霊信仰よろしく、「制度」など持ち出すのは皇室を廃止することにつながる縁起でもない不敬なことだとばかりに、「制度」として天皇を考えるのが嫌なら、そのような論者は理論的な論争の舞台からは退場すべきであり、それは嫌と言うのなら「天皇制」とは別の制度概念を考案すればよい。と、それだけのことではないかと思います。


■「制度」としての天皇
本編でも記したように、どのような社会現象も法学的に観察すれば法現象として、また、経済学的に観察すれば経済現象として再構成されるように、天皇も「制度」として見れば<制度>であり、「実存」として見れば<国体>である。

有名な天皇機関説事件を持ち出すまでもなく、旧憲法においても現行憲法においても憲法学においては、第一義的には、天皇は「機関=制度」以外の何ものでもない。而して、社会学的にも、一個の自然人たる/ムツヒト/が/ヨシヒト/に、/ヨシヒト/が/ヒロヒト/に代わっても、また、旧憲法が現行憲法に変わってさえも、天皇を「ジグソーパズルの枢要なパーツ」とする諸々の社会関係はその基本的内容を変動させることなく存立してきた。このことでも明らかなように、天皇は(個々のパーツが差し替えられても自己同一性を保持するという意味で)「制度」である。それがコミンテルン流の「天皇制」のイメージとは異なるにしても「制度」ではある。正確に記せば、「制度」でもある。

天皇は自生的、かつ、その変化が緩やかな「制度」である


ここで本編の主張を再度繰り返せば、私の「制度」の定義、すなわち、「他の領域から区別されたある特定の機能を遂行し目的を達成するために、編成・形成された一塊の(慣習を含む)諸法規の有機的連関」からは、それが人為的に廃止できるか否か、廃止や変更が容易であるか否かは、「制度」の本質ではない。文化人類学における制度の典型たる言語や家族の<制度>は、自生的であり、それは時代と共に変化するとしてもその変化は氷河の流れの如く極めて緩やかなものだからです。

実際、自身当時第一級の言語社会学者であり、かつ、当代無双の民族政策のエキスパートであったスターリン(1879-1953)は、要素還元主義的に「民族」を理解した(その点、「制度」は廃止可能と考えた)代表的論客として悪名高い。けれども、その反面、彼は「民族」を形成する契機としての言語・家族関係、そして、私の言う生態学的社会構造(自然を媒介にした人と人とが相互に取り結ぶ歴史的に特殊な社会関係の総体)が、極めて、堅固(robust)なものであることを織り込んでその冷徹・過酷な民族政策を策定したのです。蓋し、私は<制度としての天皇>とは、このような自生的であり、かつ、その変化が緩やかな「制度」であろうと考えます。


■コミンテルンの呪縛に縛られているのは誰か
この間、「「天皇制」という用語は使うべからず」とのたまう論者の言説を垣間見て、私が極めて滑稽に感じたことは、「天皇制」という用語がコミンテルンの考案によるものという(日本の社会主義の歴史、就中、「講座派-労農派」論争に関心のある向きには常識中の常識でしかない)情報が一般の目には<新鮮>に映ったからなのでしょうか、コミンテルン流の「天皇制」の意味内容を批判するだけでなく、天皇を「制度」としても捉えるアプローチすべてを否定するその悪乗りぶりです。彼等こそ、「天皇に関する制度」にはコミンテルンが規定した意味での「天皇制」以外は存在しないと素朴に考えている点で、コミンテルンの呪縛にいまだに縛られていると言えるから。

しかし、コミンテルン流の「天皇制」という用語の意味が歴史的に間違いであることを指摘することから、更に進んで(悪乗りして)、「制度」概念を一般的に忌避する態度は知的廉直性を欠く不健全なものと言えるでしょう。コミンテルンの使用した「天皇制」という歴史的に特殊な用語の用法に「天皇制」の三文字の意味を独占する権利はない。また、コミンテルンの手垢のついた「天皇制」の三文字を天皇を巡る「制度」として排他的に使用する必要も確かにない。ただ、「天皇制」という用語には現在に至るまで、学説上も左右の多様で豊饒な意味が折り重なっているのも事実。よって、私自身は「天皇制」に代わる代案が見当たらない以上、私独自の意味を背負わせながらこの用語を<使い倒>していくつもりです。

蓋し、「制度」で語りつくせぬsomethingが天皇にはある。それは、保守派であれば誰しも(というか、マルクス-レーニン主義の教科書通りのパラダイムでは日本社会の歴史的発展段階を特定できないという壁に突き当たった、32テーゼの起草者さえも)感じていることでしょう。

畢竟、コミンテルン流の「天皇制」理解ではない、実存としての<天皇=国体>を保守するための理論武装としてなされる、制度としての天皇の理解は可能であり有意義でもあり不可欠でさえある。而して、それをも拒否する論者は、それこそ制度どころか実存としての天皇をも廃止・廃絶しようと狙う「左翼-リベラル派」の攻勢に対して自ら丸腰になるような愚者である。それは、羹に懲りて膾を吹くの類の、死せるコミンテルン、日本の国粋馬鹿右翼を走らせる類の滑稽譚である。と、そう私は考えます。


■「天皇制」によって「天皇制」を乗り越えよ
上でも述べたように、天皇を「制度」として捉えたところで制度を超える天皇の実存が制度に収斂するわけではない。その逆も真なりで、天皇を「実存」として捉えたところで制度的側面を帯びる天皇の実存が国体に純化されるわけでもない。

ならば、天皇は<国粋馬鹿右翼>と<コミンテルンの末裔>の両者だけがそれを見て自慰行為が可能な、そんな左右の社会主義者専用の<masturbation tool>ではないのであって、それは、公共的、かつ、理論的分析に開かれた思索の対象でもある。その意味で、彼等「「天皇制」という用語は使うべきではない」という論者は、「天皇制」の意味はコミンテルンが定式化した意味に限定されるとほざくプロ市民と同様(公共の施設なのに)なぜかそこの公園での遊び方を仕切る権限が自分にあると勘違いしている世話焼きおばさんに等しいと思います。

蓋し、コミンテルン流にせよ「天皇制」という用語が切り開いた認識があればこそ、明治維新以降の日本の社会関係の理解は促進された。しかし、コミンテルンの「天皇制」理解は、1950年代にはすでに、例えば、「最後の講座派論客=丸山真男」や「転向左翼のチャンピオン=吉本隆明」によって、それが日本国民統合の実定的イデオロギーである側面を看過している限界を指摘された。それ以後の、天皇制論はある意味、コミンテルン流の「天皇制」理解を叩き台にコミンテルン流の「天皇制」パラダイムを批判する道程であったと言っても過言ではないと思います。

これは、「従軍慰安婦」「強制連行」という歴史的に間違った(トータルでは事実と異なった)概念があればこそ、「不当な日本の支配」という歴史認識の誤謬が更に一層明らかになったのとあるいはパラレルなの、鴨。蓋し、このことだけでも、反面教師的にではありますが、コミンテルン流の「天皇制」さえいまだに存在意義はある。

畢竟、「「天皇制」という用語は使うべからず」と提唱しておられるある方は、私の反論を「屁理屈」といわれる。蓋し、浅学菲才の身として、また、そう受け取られるのは不徳のいたすところ、鴨。しかし、その方は、

>日本は万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に存在するものです。
>これが万古不易の国体であり、この大義に基づいて一大家族国家として億兆一心
>聖旨を奉体し、忠孝の美徳を発揮するものです。
>これこそ我が国体の精華なのです。この国体は我が国永遠不変の大本であり
>国史を貫いているものなのです。    


と、厳かに宣言されるも、その主張の根拠は何も提示できない。思うに、「屁理屈」であろうと主張に根拠を付け自ら批判に身をさらす私と、無根拠な高説を吟じながらも批判から逃げ回るこの方とどちらが日本人として恥ずかしくないかは自明ではないでしょうか。彼の態度こそ、「従軍慰安婦」「竹島」「強制連行」を根拠も示さずに論じたてるかの半島の人々と同様のものである。「天皇制」という言葉は使うべからずとのたまう方々は、自身の言説が極めてマルクス主義的や特定アジア的である滑稽を反省された方がよいと思います。

蓋し、「天皇制」は(その意味内容だけではなくアプローチ方法という意味でも)最早その考案者のコミンテルンの独占物ではなく、理論的に日本の歴史と社会を考察しようとする者の共有財産なのです。なにより、コミンテルン流の定義などとは別に、しかし、「制度」としての天皇にアプローチすることで、「制度」では語りつくせぬsomethingが存在することを初めて公共的な言説空間で理論的に提示できる。而して、それは、このアプローチによって初めて、<科学>や<世界の常識>なるものを引き合いに出して天皇批判を企てる「左翼-リベラル派」に対して的確に反撃できることと同値である。すなわち、「天皇制」は<良い猫>でありうる。と、そう私は考えています。



 

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