英語と書評 de 海馬之玄関

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日本の核武装-是だけれど理も利もない、鴨

2012年01月07日 14時37分39秒 | Weblog


ブログ同志のぬくぬくさん経由で、東京財団研究員の河東哲夫氏の記事を転記収録させていただきます。つまり、この記事は、Just for my referenceのものです。原著者・ぬくぬくさん、そして、読者の皆様、ご了承ください。


== 新年早々核武装論議 ==

 http://www.tkfd.or.jp/blog/kawato/2012/01/post_226.html

前から気になっていて、まさかと思っていたが、僕の主宰しているブログ、www.japan-world-trends.com に1click投票という欄があって、その「結果を見る」という個所をクリックしてみればわかるのだが、今後の日本の安全保障戦略として、中立を選択する人が実に全体の57%強に達している。そして、そのうち「核兵器を持った上で中立路線をとるべし」とする人が21.5%もいるのだ。僕などがかねがね支持してきた、「日米同盟を基礎として中国とも友好関係」という行き方は、もう24.3%の支持しか得ていない。

イラク戦争が強めた米国への反発、金融恐慌による米国の弱体化が、このような状況にまで日本世論を持ってきたのかと思う。日本国内はがたがたなのに。

まず「中立」を選んだ人たちのことだが、周りの情勢があまりに厳しすぎるから、「そっと放っておいてもらいたい」という気持ちが強いのだろう。そして実際には日本の大きさと力では、完全な中立とか自立が無理なこともわかっているのではないか。

今の自衛隊の兵力のまま「自立」したとすると、おそらく米国、中国、ロシアとこぞって日本の港を自国海軍のために使わせろと言ってきて、日本国内は大騒ぎの末、横須賀は米国、長崎は中国、のような割り振りをすることになりかねない。

経済面でもTPPなどやめて半分鎖国でもしたいのだろうが、それは自分たちの生活水準の多くは、輸出があるからこそ維持されていることを忘れてしまっているのである。輸出が減れば円の価値が下がり、それは日本国内でインフレを起こす。

では、通常兵力を充実させれば自立できるかというと、それにも限界がある。核兵器で威嚇されたらお終いだからだ。だから、「核を持ったうえで中立」を選んだ人は、その点を考えているのだろう。

日本が核を持っていないことは、例えば村田良平・故元外務事務次官も問題視していて、その「村田良平回想録」の中で種々のやり方を論じている。「回想録」下巻の318頁以下には次の大胆な言葉が続く(一部はしょってある)。

「私は、かねてから何らかの『引き金の共通化』の方式はありえないかと考えてきた(注:これは村田元次官が大使も務めたドイツが採用しているやり方。短距離発射の核爆弾に対して、ドイツ政府はNATOのアメリカ人司令官と発射決定権をシェアしているのである)。
核ミサイル装備の潜水艦で、米海軍と海上自衛隊の要員が共に乗員となっていて、基国から日本に対して核攻撃が行われた際には、日本の要員が米国製の核ミサイルを報復として発射するというシステム」
(注:要するに米国の「核の傘」の下にいるだけでは、本当に有事に傘を開いてくれるかわからないので、日本人が同乗して傘を本当に開いてもらう、ということ)

320頁には次の言葉がある。
「独自の核抑止力を持つとの日本の要請を米国も拒否できない日が、それ程遠くない将来到来する。米国がこれをあくまで拒否するなら、在日米軍基地の全廃を求め、併せて全く日本の独力で、通常兵器による抑止力に加え、フランスの如く限定した核戦力を潜水艦を用いて保持するというのが理論的な帰結。」
(注:勇ましいが、日本は米国と過度に対立すると、米国の仮想敵国となりかねない。身を守るのが目的なのに、かえって強敵を増やすことはない。それにここで村田元次官が言う態勢が整うまでに、20年はかかるだろう。これでは実用にならない)

村田元次官はわりとあっさり、核兵器保有論を唱えているが、核兵器を日本が持つかどうかを議論するに当たっては、次のことも考える必要があると、僕は思っている。

1.報復攻撃用の核兵器を日本が保有する場合、それは日本本土に置いてはならない。核兵器による先制攻撃の対象となりやすいものを本土に置くことは、危険である。

2.結局、潜水艦発射の核ミサイル(または核兵器搭載の巡航ミサイル)が日本にはもっとも適当だろう。これは、自力開発はほぼ無理だ。結局、村田元次官の言うように、米軍の核をシェアさせてもらうしかない。これを米国とどのように費用分担し、発射決定をどのように共同で行うか、の問題になる。

3.一連のシステムを独自開発、独自所有しようとするのは、時間がかかる上に、米国までも仮想敵国に回してしまうことになりかねない。

4.それに日本人は原子力発電であれ、国家統治であれ、大きな「装置」を強い指導力をもって動かす能力に乏しいのではないか。感情論に瞬時に傾きやすい世論を持った日本の政府に、核兵器を持たせていいのか?

-- 今回の日本核武装論の背景は、中国が強大化するなかで米国の力に陰りが見えていることだろう。だが米国経済は盛り返すだろうし、今の状況でも世界における米国の力は中国をはるかに上回る。中国は、米国に圧迫された国々にとっての駆け込み寺の存在を出ていない。

感情に動かされて、中立や核武装などの考えに飛びつくと、結局戦前の日独伊枢軸のような誤りを再度冒すことにならないだろうか。

(河東哲夫 日時: 2012年01月06日 01:35)






== KABU感想 ==

現実場面では、河東さんと私の認識はほとんど同じだと思います。要は、

①現実の現下の国際政治において「中立」なるものが不可能である以上、また、②それがどんなに不愉快なことであれ、支那や韓国・北朝鮮という特定アジアが残念ながら日本の<隣国>であるという地政学的状況は変えられない以上、および、③現下、<鎖国>などは到底不可能である以上(実は、江戸期の所謂「鎖国」も一種の「管理貿易システム」にすぎなかったのですから)、

並びに、④日本は米国との枢軸関係を維持強化する他、安全保障においても経済部面においても繁栄どころかその生存も難しい、加之、⑤アメリカ国内の現実政治の力学を鑑みれば、日本がアメリカの「51番目の州」に格上げしてもらうことは極めて困難と考えるがゆえに、   


河東さんと同様に私も、

>「日米同盟を基礎として中国とも友好関係」


が、唯一可能な日本の現在の選択肢と考えているということ。

ただ、もちろん、私の考える支那との「友好関係」とは、「政凍経冷」を理想とする必要最小限の<お付き合い>はする、しかも、その<お付き合い>も確立した国際法と国際慣習に沿ったものに限るという意味ですけれどもね。




而して、日本の核武装。この点、私と河東さんは些かニュアンスを異にしているの、鴨。蓋し、私は、「唯一の被爆国たる日本は、核武装する道義的な権利を持っている」と考えていますから。

また、ご案内の通り、現在の、「日本は個別的自衛権を国際法上も憲法上も保持しており、憲法はその個別的自衛のための必要最小限の武力の保持と正当な個別的自衛権の行使としての武力の行使を禁止しているものではない」という日本政府の解釈によってさえも、「核兵器の保有と行使」には何ら問題もありません。実際、この認識は岸内閣以来の日本政府の公式の立場でもありますから。

б(≧◇≦)ノ ・・・唯一の被爆国たる日本は、核武装する道義的な権利を持っている!
б(≧◇≦)ノ ・・・核兵器の保有と行使は現行の日本国憲法に抵触しない!


蓋し、例えば、廣島の平和記念公園にある原爆慰霊碑の文字列「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は、「核開発が間に合わなかった過ちは繰り返しません 今度戦争するときは必ず勝ちますから 安らかに眠って下さい」という意味に取るべきであろう。と、そう私は考るのです。

畢竟、原爆投下も戦略爆撃も端的には国際法違反ではなく、大東亜戦争も日中戦争も、まして況んや、朝鮮併合など「こんな正当なことはない!」というほど正当なもの。国際法上は、現在でもそう言える。而して、「過ち」があったとすれば負けたこと。負け戦をしたこと。それだけとのことだろうということです。尚、この点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・戦争責任論の妄想:高木健一『今なぜ戦後補償か』を批判の軸にして(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60939316.html





敷衍検算します。この国の左翼・リベラル派のプロ市民の中には「唯一の被爆国たる日本は世界に核廃絶を求める道義的な権利を持っている」とのたまう人々がまだおられるようです。私は、実は、この主張は論理的に間違いとは思いません。なるほど、確かに、唯一の被爆国たる日本は、世界に対して核廃絶を求める道義的な権利を持っているの、鴨と。

けれども、重要なことは、

()この左翼・リベラル派の主張が正しいのと、少なくとも同程度には、「唯一の被爆国たる日本は核武装する道義的な権利を持っている」とも言えるということ。要は、(a)「唯一の被爆国たる日本は世界に核廃絶を求める道義的な権利を持っている」と「唯一の被爆国たる日本は核武装する道義的な権利を持っている」という命題は少なくとも同程度の論理的な根拠に基づいて主張可能であり、一方が正しいがゆえに他方が否定されるというものではない。

よって、(b)それらの命題の現実政治における規範としての効力は一重にその規範命題を受け取る人々がどちらの命題により説得力を覚えるのかという<法意識の競技場>でしか判定されないものだということです。

加之、()「唯一の被爆国たる日本は世界に核廃絶を求める道義的な権利を持っている」という命題や主張は、端的には(「世界」はその要求に従う義理は全くなく、)「世界の人々」を拘束できるものではなく、その現実の規範としての効力すなわち実効性は皆無と言ってよい。それに対して、「唯一の被爆国たる日本は核武装する道義的な権利を持っている」という命題の実効性は独り日本国民の法意識にのみ依存しており、その規範としての効力の具現は比較的容易であろうこと。


これら、()()を鑑みるに、法的側面から言えば、日本の核武装という事柄を阻止するものは、実は、皆無なのです。ならば、日本が核武装するべきか否かは、現実の国際政治を睨んでなされる「核武装のメリットとデメリットの比較衡量」に収斂するしかないの、鴨。

而して、そう考えた場合、現下の政治状況下では、日本は核武装の準備を怠らず、他方、「核の引き金」のアメリカとのシェアをも考慮すべきであろう。これくらいが、2012年の現下の現在の<正解>なの、鴨。と、そう私は考えます。

尚、この問題を巡る私の基本的な認識については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・「核なき世界」なるものを巡る日本と世界の同床異夢
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59797305.html

・集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59856822.html







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