英語と書評 de 海馬之玄関

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「プロ市民」&「ネットウヨ」考

2021年07月10日 16時46分01秒 | 徒然日記

 

 

 

2009年04月27日 15時00分14秒



■はじめに
本稿は、所謂「プロ市民」や「ネットウヨ」なるものの生態や発想を俎上に載せるものではありません。本稿は「プロ市民」という言葉を、もう一つの「ネット右翼」という言葉の対比において考えてみようという、謂わば「メタ言語行為」(言語の意味や用法にコメントする試み)です。連休の頭、ほとんどの方は外出しておられるでしょう。ならば、今、この記事を読んでいただけるのはもともと海外におられる読者か、「もう何もしたくなぁーい!」とカウチポテト(couch-potato)を決め込んでおられる方が大部分のはず。よって、いつもとは趣向を変えて、すこし浮世離れしたエッセーを書いてみることにした次第。

さて、このブログでも時々書いてきたことですが、「言葉を定義する」ということについて確認しておきます。これまたメタ言語領域の「定義の定義」です。畢竟、どのような言葉にも唯一絶対の意味はない。「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考えがプラトン以来の西洋哲学の伝統的考え方なのですが、それはなりたちません。このことを「プラトンの髭をオッカムの剃刀が剃り落した」と言う分析哲学の研究者もいます。

定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0fb85611be79e7a89d274a907c2c51ac

濫用される「国際社会」という用語についての断想

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f225b6e70b921cae1057e9d87c4bda0b

<再論>素人の素人による素人のための<技術>としての哲学入門・・・みたいな記事

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2599c7621e96f3c97eb27cbe3886798a



意味とは言葉が指し示す事柄のこと。ソシュールは、言葉が指し示す事柄のことを「指示対象」や「記号内容:所記」(sinifie)と呼び、指示対象を指し示す言葉を「記号表現:能記」(signifiant)と言っています。而して、プラトン以来の「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考え方を「概念実在論:実念論」(realism)、それに対して実在するのは個々の物事や事物だけであり、そんな物事や事物の名前、すなわち、言葉とは単なる社会的な約束事や慣習にすぎない。

つまり、「個々の言葉には各々唯一絶対の指示対象はない」という考え方を「唯名論」(nominalism)と呼びます。プラトンの髭を剃り落したオッカム(1285年?-1349年)とは、中世後期に実在したこの唯名論の論客の名前なのです。そして、中世以来、概念実在論と唯名論の間で戦わされた論争(「中世普遍論争」)は、20世紀に唯名論の後身たる分析哲学によって最終的に唯名論の勝利、概念実在論の後身としてのヘーゲル哲学・マルクス主義の敗北で終った。

哲学の話はここまでです。もう、PCの前で居眠りし始めた方が若干1名台湾あたりにいそうですが、大丈夫ですか(笑)。上の眠たくなる2パラグラフによって、例えば、「江戸いろはカルタ」に書かれた「理屈と膏薬(現在では、民主党の「公約」?)はどこにでも付く」が含意している類の世間知、つまり、「言葉は便利でいい加減で怖いものだ」(朝日新聞の記事を見ていたらよく分かる!)等々ではない、哲学(≒科学方法論)の厳密な意味で、「どのような言葉にも唯一絶対の意味はない」経緯を紹介できたと思います。

どのような言葉にも唯一絶対の意味はない。けれども、実際は、多くの言葉はかなりの程度決まった特定の意味を持つものとして使われている。だからこそ、その大体決まっている意味と言葉との間隙を穿つ話芸としての落語は面白いのではないでしょうか。

哲学的には言葉には唯一絶対の意味はない。この経緯を「言語と意味の恣意性」と言いますが、而して、哲学的には動かない「言語と意味の恣意性」と言語が大凡決まった意味を持って使われている事実をどう両立させるか。これが、定義の定義たる「定義論」の難所。マルクスの顰に倣えば、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」(『資本論』第1巻2篇4章2節末尾, 岩波文庫(一)p.289)と言うべきところです。

読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧-あるいは、マルクスの可能性の残余

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/385e8454014b1afa814463b1f7ba0448

瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

結論は、コロンブスの玉子的。畢竟、言語とその意味の恣意性は、しかし、個々の言葉とその意味の関係が「無政府状態」あるいは「万人の万人に対する戦い状態」であることを意味しない。要は、中世の唯名論が既に指摘していたように、個々の言葉とその意味の間には規約・慣習により<自然法則>ではないけれど、法や道徳の如き<社会規範>が成立している。

よって、現実的にはある言葉はかなり限定された固有と言ってよい指示対象を持ちうる。逆に言えば、言語と意味を巡るルールは<自然法則>ではなく<社会規範>の一種であるから、そのルールの内容(個々の言語とその意味の関係)は時間とともに変化しうる。こう考えれば、「キリギリス」と「コオロギ」の語義が平安時代は現在と反対であったように、「やばい」の意味が「危ない→素晴らしい」に変化しているのも特に目くじらを立てるほどのことでもないのかもしれません。

個々の言葉とその指示対象との関係をこのように理解するとき、「語の定義:意味を巡る言語使用のルール」や言語行為のマナーについては次のように言えると私は考えています。すなわち、①どの言葉をどのような意味に使おうがそれは論者の勝手で。しかし、②その論者が自己の言説を他者に理解してもらいたいのであれば、一般的に使用されているその言語使用のルールを参照するか(その言葉が専門用語である場合には、専門家のコミュニティーの内部で確立している言語使用のルールを参照するか)、そうしないのであれば個々の言葉の定義を明示すべきである、と。


■「プロ市民」 Vs 「ネット右翼」
何冊か手許にある国語辞典を引いてみた限り「プロ市民」も「ネット右翼」も収録されておらず、双方ともこなれた日本語とはまだ<国語辞典制作者のコミュニティー>では認められてはいないようです。けれど、これらの言葉がインターネット空間に氾濫していることはご存知の通り(笑)。ちなみに、wikipediaには次のように書かれている。

・プロ市民(プロしみん)は以下のような造語である。
1)「自覚・責任感を持つ市民」(=プロ意識を持つ市民)を意味する造語。
2)一般市民を装い市民活動と称し、営利目的で政治的な活動を行う(とされる)者を指す。批判又は誹謗中傷する目的で使用されるレッテル(蔑称)。ほとんどの場合、こちらの意味で使用されている。

・ネット右翼(ネットうよく)
インターネット上で右翼的な発言をする人物をさす用語、蔑称。
ネットウヨク、ネットウヨ、ネトウヨとも呼ばれる。


蓋し、もちろんwikipediaであろうが『広辞苑』であろうが、ある言葉をどのように定義するかはそれぞれの勝手ではあるのですが、日頃から私が奇異に感じていることは、「プロ市民」に対応する「アマ市民」という言葉は寡聞にして聞いたことはないし、また、「ネット右翼」に対応する「ネット左翼」という言葉もそう一般的ではないだろうということ。実際、wikipediaには「アマ市民」は痕跡さえなく、「ネット左翼」は「ネット右翼」の項の説明文に一箇所出てくるだけで独立した項目としては掲げられていません。

何を私は言いたいのか。それは、「プロ市民」や「ネット右翼」という言葉を誰が主に使っているかを考えれば明らかでしょうが(逆に、どんな人が、「アマ市民」や「ネット左翼」という言葉があったならば使いたいと思うだろうかを考えれば明らかでしょうが)、「プロ市民」と「ネット右翼」という言葉には、政治の世界と言論の世界の各々のアンシャンレジュームが懐いているルサンチマンの表出ではないのかということです。

すなわち、「プロ市民」という言葉には、制度的な政治権力の分配においては戦後一貫して保守が牛耳ってきたこの社会で、しかし、「権力とも財力ともとりあえずは無縁な、普通の日本国民とは言えない「左翼-リベラル派」の政治党派的な傾向性を持つ活動家が普通の国民を装って非制度的に政治権力の分配に参画しようとしている」ことを憤慨する気持ちが込められているのだろう。また、言論の世界は左翼の天下であるはずなのに、インターネットが登場普及してからは、その左翼の縄張りで右翼の活動が目立っていることを悲憤している「左翼-リベラル派」の鬱積した信条が「ネット右翼」という言葉には憑依している。こう考えれば、一応、マスメディアの論調を押さえている左翼に対して保守派が「ネット左翼」という言葉を使うことはないし、また、自身が「プロ市民」であることを否定する左翼が「アマ市民」という自己規定を持ち出すはずもないだろうことは了解できると思います。

興味深いことは、私の観察によればですが、保守派の多くは「ネット右翼」という言葉を投げつけられても痛痒を感じないのに対して、多くの「左翼-リベラル派」は自分が「プロ市民」と規定されると憤慨・激昂する例もままあるということ。この対比が偶さか私の観察した狭い範囲のことではなくかなり一般的な現象だとするならば、両者の反応の差異は那辺に起因するものか。これが本稿の中心的な問題関心です。

私の仮説は次の通り。蓋し、「ネット右翼」には特定の指示対象が存在せず、よって、それは子供の喧嘩や夫婦喧嘩における「お前の母ちゃん出ベソ」「馬鹿」「阿呆」「タワケ」「べらぼうめ」と同様に、その言葉を使用すること自体に意味がある罵倒語、侮蔑語にすぎない。よって、「馬鹿に馬鹿と言われてもね」を本音としてそんな輩は相手にしない大人の対応が保守派は選択可能になる。要は、指示対象のない「ネット右翼」という言葉を「左翼-リベラル派」が投げつけた段階で、その議論は実質的に我々保守派の勝利と了解しても満更間違いではないということです。

他方、「プロ市民」には「普通の国民を装って非制度的に政治権力の分配に参画しようとしている「左翼-リベラル派」の政治党派的な傾向性を持つ活動家」というかなり明確な指示対象があり、よって、この言葉を投げつけられた「左翼-リベラル派」の人士にとって「プロ市民」という言葉は、単なる「お前の母ちゃん出ベソ」という罵倒語・侮蔑語ではなく、事実問題を争そわなければ自身の(普通の国民を装うことで「弱者の脅迫」よろしく獲得している)折角の政治的影響力を保てなくなる危惧を感じるがゆえに、我々保守派に対する「ネット右翼」という言葉が惹起させる反応に比べて相対的に激しく憤慨するのではないか。こう私は考えているのです。

実は、「お前の母ちゃん出ベソ」も本来は実存的で凄まじい指示対象を持った言説でした。つまり、「貴殿の母上は、その出産に際して充分な医療ケアも受けられない素性の(貧困・不倫・被差別コミュニティーのメンバーがゆえに十全なる医療ケアが受けられなかった素性の)方ではないか!?」という意義が、生理的・物理的な「お前の母ちゃん出ベソ:Your mother has a protrunding navel, doesn't she?」というセンテンスには共示義(connotation)としての「お前の母ちゃんは卑しい生まれだろう!?:Your mother is out of a very low birth, isn't she?」が含まれている。而して、現在の子供の喧嘩においては、これらの重層的な語義はすべて捨象され、「お前の母ちゃん出ベソ」は指示対象を持たない空虚な罵倒語、侮蔑語になっているのだと思います。

ならば、畢竟、喧嘩で負けた子供と同様、「左翼-リベラル派」が(いかにも無内容な彼等に相応しい)空虚な「ネット右翼」という罵倒語・侮蔑語を捨て台詞として残すのは自然なことと言うべきかもしれません。と、書いてしまえば猫にわかることを理解できない、いまだに「ネット右翼」を連発する「プロ市民」は笑うしかない。そんなことをつらつら考えた連休の午後でした。




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