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瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)

2013年02月27日 23時41分26秒 | 日々感じたこととか

⤴️ブログ冒頭の画像:記事内容と関係なさそうな「美人さん系」が少なくないことの理由はなんだろう?

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c566c210ad11db94fc1d87a5fddcf58e

 


自民党の憲法改正草案は、憲法学者の視点から言いたいことがたくさんある。
草案は「天賦人権説に基づく規定を改める必要がある」という立場だが、
国際的な憲法学のスタンダードからは驚くべき話だ。

--(鈴木秀美・大阪大学大学院教授)


驚いたのはこっちです。「天賦人権論」などは世界の憲法学のスタンダードな考え方ではないから。と言うか、土台、――現在のドイツの判例法理論たる所謂「三段階論」、なにより、アメリカの憲法訴訟理論の蓄積を見れば明らかなように――それは現在の社会科学方法論の水準では成立しえない議論、あらゆる「実体概念」の存在が否定されている現在、「天賦人権」なるもの自体が蜃気楼や空中楼閣の類にすぎないのだから。

こう書くと日本ではまだ「鬼面人を威す」というか「鬼面人を驚かせる」ような物言いに聞こえる、鴨。しかし、「天賦人権の消滅と天賦人権論の瓦解」というこの認識は、おそらく、世界の憲法学においては(就中、憲法基礎論、すなわち、憲法の正当性や効力の根拠を巡るゼロベースからの法哲学的考察においては)現在ではほぼ共通の認識であろうと思います。要は、現在では「天賦人権論」は戦後日本に特殊なイデオロギーにすぎない。

本稿は、このような認識を、「立憲主義」と呼ばれるあるタイプの憲法理解の枠組みを補助線に使いながら敷衍するものです。而して、換言すれば、それは「立憲主義」を<脱構築>する作業の中で、あるいは、ウィトゲンシュタインの言う意味での<言語ゲーム>として「立憲主義」を捉え直す試みの中で「天賦人権論とはなんであったのか」を考えたもの、鴨。





ところで「天賦人権論」とはどんな主張だったのでしょうか。実は、この言葉の意味はそれほど明確ではないようにも感じます。けれども、現在の日本では、「天賦人権論」とは次の如き「三幅対:a triad」の形態を取る社会思想と言えるのではないかと思います。

(A)「基本的人権」なるものを自然権として捉え、また、(B)国家権力をその「基本的人権」を守るために「社会契約」によって成立した組織(あたかも、「基本的人権」の保障が、株式会社の設立登記時にその定款に記された唯一または最優先の事業目的でもあるかの如き人為的組織)と理解する、

而して、(C)「憲法」を、(C1)国家権力の事業目的を中核に据え、加之、その事業目的を達成するために適切かつ妥当と「社会契約」の時点で考えられ考案された国家権力の機構、および、機構を構成する部署間の関係や個々の部署の権限と責務を定めた<定款>として理解する、よって、(C2)「憲法」を、専ら国家権力に向けられた、かつ、国家権力の権力行使の制約と捉える(「制限規範性」を属性とする、ある国家社会の「最高法規」と捉える)、そんな「三神一組:the triad」の人権・国家・憲法に関するイデオロギー

けれども、この「三幅対構造:the triadic structure」の構造(要素間で取り結ばれる関係性の総体)を捨象して、かつ、それが「人権論」であるからには(A)を不可欠の要素と仮定すれば、可能なそのべき集合は次の4個になる。そして、日本の現下の実際の言説空間でも「the triad」のその3種の「変異型:variants」もまた緩やかな意味で「天賦人権論」と呼ばれているようにも思われます。

▼狭義の「天賦人権論」とその3種の変異型
・ABC型:戦後民主主義型(「弱い」つまり、戦後日本に特殊な、狭義の天賦人権論)
・ABφ型:教条リベラル型(「強い」つまり、18世紀には欧米でも散見された天賦人権論)
・AφC型:穏健リベラル型(「最も強い」つまり、時空の制約を受けにくい天賦人権論)
・Aφφ型:近世自然法論型(権利の内容を差し替えつつ時空を超えて存在する単なる自然権論)

今後、しかし、本稿では、「天賦人権論」としては、三幅対構造をとる「ABC型の天賦人権論:the triad」を専ら念頭に置いて考察を進めることとし、「変異型:variants」に触れる場合には都度明記することにします。

尚、例えば、手許にある『法律学小辞典-第4版』(有斐閣・2004年)を見ても、この「the triad」については「天賦人権論」と「天賦人権説」の二つの用語が日本では混在しているらしい。本稿では、けれども、引用箇所以外は前者「天賦人権論」に統一させていただきます。





私は上で天賦人権論は戦後の日本に特殊なイデオロギーと記しました。しかし、もちろん、天賦人権論が日本の<固有種>であるはずはありません。天賦人権論のその源流は欧米、就中、箕作麟作『萬国新史』(1871年-1877年)、ルソー『社会契約論』(1762年)の中江兆民による部分訳(1882年)等を回路にして輸入されたフランス革命期の社会思想にある。

而して、自由民権運動(1874年-1890年)を潜る中で徐々にそれは日本化していき、更に、天賦人権論は(ミトコンドリアが真核細胞に取り込まれた/取り付いた経緯とパラレルに)、大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義と共存関係を確立し現在に至っている。と、そう私は考えるのです。

要は、天賦人権論は、欧米の現在の社会思想から見ればシーラカンスというより、移住先の環境に適応しつつ漸次その形態自体を変化させながらも、部分的にはより原初的な形態をも保存している、蓋し、「ガラパゴス的」という形容詞句がふさわしいものでしょうか。

畢竟、天賦人権論の日本化の事情や経緯は、仏教や野球、ランドセルやセーラー服がこの社会に舶来伝来して以降今日まで辿った経緯と家族的類似性がある、鴨。もしくは、現在では日本でのみ見られる英文法学のパラダイム、すなわち、所謂「5文型論」が辿った経緯と同型(identical)と言える、鴨です。実際、20年くらい前までは、米英の大学院に留学した英語学専攻や英語教授法の専攻の方々の中には、留学先の指導教官や日本からの留学生以外、学生仲間の誰も--彼や彼女の研究対象が偶然にも「日本の英語教育」という極めて希なケースを除けば--「5文型」という言葉さえ知らないことに愕然としたケースはそう珍しいことではありませんでしたから。閑話休題。

前書き、あるいは、下拵えの作業はこれくらいにして次節以下本論に移ります。而して、本稿の議論をより具体的にして、読者の実践的な関心にも目配りするべく、(もちろん、「天賦人権論」を軸に据えつつですが、)2012年にリリースされた自民党の「日本国憲法改正草案」(★)に対して戦後民主主義を信奉する論者から寄せられた批判の検討。もって、この反批判の作業を槓杆として天賦人権論の内容を更に掘り下げる。これが次節の内容になります。

尚、自民党の「日本国憲法改正草案」の原文テクストは下記PDF資料を、そして、本稿の主題とは取りあえず関係はありませんけれど、もし、「ガラパゴス化した日本の5文型論」ということにご興味があれば下記拙稿をご一読いただければと思います。


・自民党「日本国憲法改正草案」
 http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf
(改正草案条項は「第2章:日本国憲法改正草案対照表」に収録されています)

・再出発の英文法:文型
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/44acbe36196ec583d19e6294e26980af





★註:自由民主党「日本国憲法改正草案2012」

自民党は、2012年4月、「日本国憲法改正草案」を世に問いました。私自身は「満点にはほど遠いけれど、現行憲法に比べれば遥かにまし」と感じたもの。同草案の1条「日本の元首が天皇であること」、3条2項「国旗・国歌の国民の尊重義務」、9条2項「自衛権の発動が平和主義に優先すること」、11条および15条の3「憲法が保障する権利は、原則、国民に対して保障されているものであって、外国人の参政権は立法政策上も認められないこと」等々が確認され、加之、9条の2「国防軍規定」が新設されていることは、現行憲法の(左右からの毀誉褒貶、憎い坊主の袈裟や贔屓の引き倒しではなく、誰がどう見ても)曖昧で杜撰な規定に比べれば遥かにましな出来映えであると。

本稿の主題「天賦人権論」(そして、「憲法の正当性の根拠」ということ)と関係の深い条項、および、前文の全文を転記しておけば次の通りです。

第12条(国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

第13条(人としての尊重等)
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

前文
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。/我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。/

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。/我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。/日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。






その人権条項に盛り込まれた「改正草案」の狙いについて、上に紹介したPDF文書に収録されている「第1章:Q&A」にはこうあります(下線はKABUによるもの)。

Q13「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務について、
どのような方針で規定したのですか?
・・・権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。例えば、憲法11 条の「基本的人権は、・・・現在及び将来の国民に与へられる」という規定は、「基本的人権は侵すことのできない永久の権利である」と改めました。

Q14「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?
従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。

今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。なお、「公の秩序」と規定したのは、「反国家的な行動を取り締まる」ことを意図したものではありません。「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。



б(≧◇≦)ノ ・・・なるほどぉー!







<続く>




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