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<再論>応報刑思想の逆襲(5-資料編)

2012年11月28日 20時29分46秒 | 日々感じたこととか



◆裁判員制度:Jury System vs. Lay Judge System

裁判員制度は2009年5月21日に施行された「裁判所たる裁判官に「素人」を組み込む新たな「裁判官」の編成ルール」です。それは、①殺人罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、危険運転致死罪等々の重大な犯罪を対象に2009年5月21日以降に起訴された、②地方裁判所で審理される刑事事件について、③裁判員(lay judges)とプロフェショナルな裁判官とが「裁判所たる裁判官グループ」を構成し、④裁判員は裁判官の指導助言を受けながらも、⑤有罪・無罪のみならず(有罪と判断された場合には)量刑をも合議で決する制度。

裁判員制度に我々は何を期待し何を期待すべきではないのか。結論から先に記せば、本編記事でも述べたように、私は裁判員制度や被害者の訴訟参加等々の最近の一連の刑事司法改革の眼目は、(少年・外国人・精神障害者による犯罪を含め単なる「厳罰化」の推進ではなく)、<市民の常識=社会の報復感情>の刑事司法への流し込みであり、刑事司法における「応報刑思想」の具現(to incarnate)、換言すれば<応報刑思想の逆襲>ではないかと考えています。



裁判員制度の整理と評価。ご存知の方も多いと思いますが、素人が裁判に参画する所謂「陪審制:Jury System」や「参審制:Schöffengericht」は、その非効率性と下される判断の合理性に対する不信から現在ではその本家の英国では著しく、また、アメリカ・ドイツ・フランスでも漸次衰退しつつあります。けれども、裁判員裁判(lay judge trial)を通して<市民の常識>を司法に導入するという試みは、(「犯罪が生起するのは社会の歪みが原因」とばかりに被疑者・被告人の権利の擁護に熱心な戦後民主主義を信奉する勢力が牛耳ってきたこの国の刑事司法に対して、例えば、「厳罰化」、あるいは、少年事件裁判への被害者参加と知る権利の一層の保障を求めてきた)世論に沿った制度改革ではあろうと思います。

畢竟、「どの社会にもどの時代にも妥当する最適な制度」などは刑事司法のみならず選挙制度・国籍付与制度・税制等々どのような法域においても存在しないでしょう。而して、(明治初期のボワソナードの建議を端緒とする)戦前に施行されていた陪審制度が「多額の訴訟費用負担」「陪審裁判を経た判決の控訴禁止」「同輩の者達からの審理を嫌う情緒風潮」等の理由から陪審裁判を辞退する被告人が続出した反省を踏まえ、更には、現在、英米の陪審制に投げかけられている批判点、例えば、

(ⅰ)陪審による決定には(コモンロー上)、全員一致、少なくとも12人中の10人程度の多数での評決が必要とされてきたことにより、真の犯罪者にも無罪の評決が下されかねない

(ⅱ)法律の素人である陪審員だけでなされる陪審では、(法律上、陪審員もその教示に従わなければならない)専門裁判官が行なう法律に関する説明(instruction; charge)が理解できない陪審員によって、法的には無意味で非効率な討議がなされる傾向がある

(ⅲ)仕事で忙しい相対的に知識水準の高い市民ほど陪審員を辞退する傾向があり、陪審員の知的水準は漸次低下する傾向がありはしないか

(ⅳ)社会の工業化と情報化の昂進にともない、事実認定においても素人の陪審員が適切に判断しえない事例が増えてきた(特に、19世紀以降、民事陪審裁判の対象を漸次縮小してきた英国とは違い、連邦憲法と各州の憲法で、原則、ほとんどの民事事件に対して陪審裁判を受ける権利が保障されているアメリカではこの弊害は特に大きく、実際、アメリカでも「わけの分かっていない陪審員」による審判を嫌い、民事事件の双方当事者がともに陪審裁判を受ける権利を放棄する傾向が顕著!)




これら英米の陪審制が抱えてきた問題点を鑑み、今次の裁判員制度は、(1)裁判員裁判の対象を重大な刑事事件に限定して裁判員・裁判員候補となる市民の負担を極小化した。また、(2)(コモンロー上の権利は地域社会のメンバーが主体となって守るべきだという、我々保守派にとって好ましい原理に英米の陪審員制度は根ざしてはいるものの、土台、英米流のコモンローを継受したわけではないこの社会にあっては)専門の裁判官と素人の裁判員が合議するドイツ・フランス型の「参審制」を導入することが、おそらく、現実的かつ妥当だった。いずれにせよ、この制度雛形の選択によって素人の暴走は制御可能になった。更に、(3)合議の議決は単純多数決によるものとし裁判員裁判の効率と適正さを担保しつつ、(4)原則、裁判員候補はその職務を辞退できないとした。蓋し、これらはすべて賢い制度設計ではなかったかと思います。

繰り返しになりますが、蓋し、裁判員制度の目的は一般的な<市民>の法感情を公的に刑事司法に導入することと言えるでしょう。ならば、裁判員裁判の対象事件に少年審判事件が含まれなかった等些か不満は残るものの、<社会の報復感情>を刑事司法に導入可能な制度が始動したことは評価に値する。そう私は考えています。尚、裁判員制度の実際の運用に関しては下記のURLをご参照ください。


・裁判員の参加する刑事裁判に関する法律全文
 http://www.saibanin.courts.go.jp/shiryo/pdf/02.pdf

・裁判員の参加する刑事裁判に関する規則
 http://www.saibanin.courts.go.jp/shiryo/pdf/27.pdf








◆精神障害者の犯罪について-触法精神障害者とは何か?

精神障害者や心神喪失・心神耗弱の犯罪行為はなぜ刑を免除・減刑されるのか? 
これは法理的にはそう難しくはありません。

①刑罰を科すことを国家が正当化するためには、その犯罪行為が「道義的非難」に値するものでなければならない、②ところが、自分の行為やその行為の結果の意味(=実害の存在と大きさ、法が破られたことに対して社会が受けるショックの内容と度合)を認識できない者には、そもそも、「道義的非難」を加えることはできない。

③個々の事例について「道義的非難の可能性」の有無や度合いを検討することは(不謹慎な言い方ではなく真面目な話し)面倒、あるいは、不可能もしくは極めて困難。④加之、個々の事例について「道義的非難の可能性」の有無や度合いを検討することには裁判所たる裁判官の恣意が混入する危惧があり、よって、法律で「道義的非難の可能性」を事前に類型化することには人権保障の点でも意味がある。

⑤ここに言う「精神障害者」が自分の行為とその行為の結果の意味を認識できないタイプの人であると、間主観的に認定されるのであれば、⑥心神耗弱・心神喪失の者の犯罪行為とパラレルにそのような「精神障害者」の犯罪行為もまた「減免もしくは免除」されるべきである、と。

尚、本編記事で触れた「近代学派」の法制度や刑法理論では、(そこでは行為者の危険性こそが重要ですから、ある意味)「病気のように犯罪を繰り返す」タイプの精神障害者に対しては、①~⑥の理路とは逆に一般通常人よりも遥かに重い「刑罰=社会的隔離措置」が採られることになりかねません。


注意すべきは、(Ⅰ)全体的に精神障害者はそうでないとされる人々(理念型の「一般通常人」)よりも犯罪率はかなり低いこと(要は、犯罪を行う人間が異常者なら一般人が遥かに異常であること)、(Ⅱ)あるタイプの精神障害者はそれこそ「病気のように」犯罪を繰り返すこと、です。

蓋し、精神障害者の犯罪について刑の免除や減刑を考える場合、精神障害者による犯罪を巡るこれら(Ⅰ)(Ⅱ)を踏まえないでする粗雑な議論は不毛である。否、このイシューに関するそのような粗雑な議論は単なる精神障害者差別論にすぎない。そう私は考えています。而して、これまでの説明に加えて更に「補助線」を五つ措定します。



(1)加害者がどんなタイプの人間であれ社会は不条理な犯罪を許せないと感じる

(2)ある凶悪犯罪に関してその加害者が、「日頃の行いから見てもいかにもそのような事件を起こしそうだ」と素人が感じるタイプの人物であれば彼や彼女の犯罪行為に対する社会の憤激の度合いはそうでない場合に比べて大きい

(3)刑事政策の施策も刑事法の運用も時代時代の科学技術の水準を前提にせざるを得ない。そして、現在の犯罪心理学的知見によれば、日本も含む現在の先進国の社会は、大まかに、(a)病気のように犯罪を繰り返す極少数の精神障害者と(b)一般通常人よりも犯罪率の低い大多数の精神障害者、そして、(c)一般通常人(より正確には、非[a+b]の人々)の三つの(理念型の)グループにより構成されていると看做される

(4)ただし、現実には、初犯に到るまでの(a)と(b)、同じく初犯に到るまでの(b)と(c)の区別を間主観的に行なうことは、(その識別手法の選択に際して人権への配慮は度外視したとしても、まして、人権と両立可能な手法によるものとしては)技術的・コスト的に困難である。

(5)刑期満了後の就労機会の乏しさ/犯罪者コミュニティー以外の<知人>の乏しさ等の社会経済的要因は無視できず、累犯の場合でさえ、(a)と(b)、そして、(b)と(c)の区別は容易ではない。要は、(a)(b)(c)などはあくまでも理念型の「表象形象-観念形象」に過ぎないのであって、現実には「(c)「一般通常人=普通の人間」などはこの世に存在しない!」ということ。



確認になりますが、凶悪犯罪を惹起させる危険性の度合は「(a)>(c)>(b)」と、あくまでも理念型としての類型間の比較ですが、一応はそう言えると思います。ならば、(1)~(5)をすべて踏まえつつも、(刑事司法と刑事政策は人権の確保と社会の安全の確保という二律背反的のバランスの上に構築されているのですけれども)犯罪者・虞犯者の処遇・予防は(2)の「予想された犯罪に対する社会と被害者の憤慨」をミニマムにするようなものにならざるを得ない。他方、(a)と(b)の同一視は精神障害者に対する偏見に基づく許されざる「差別」である。よって、問題は(a)と(b)の峻別の精度向上と、(a)と(b)との違いを社会に遍く周知する啓蒙と広報である。と、そう私は考えます。

けれども、たとえ(a)(b)(c)の識別が現実的にはそう簡単ではないとしても、少なくとも、「不条理な、しかし、充分に予想できた(a)「病気のように犯罪を繰り返す精神障害者」が起こす犯罪の犠牲者が実際に出ない限り、加害者の彼や彼女に対する予防強制措置を取れない」という、お役所的の弁明が、最早、<市民>の容認するものではないことも自明でしょう。

ならば、(甲)お役所的弁明に理論的根拠を提供してきた、(a)(b)(c)の類型化さえ拒否する戦後民主主義の「犯罪者性善説-国家権力性悪説」を粉砕し、(乙)累犯の場合に限るとしても、事前に(a)を監視・隔離することを可能とする制度こそが求められているのではないでしょうか。

逆に、(a)と(b)の違いが遍く社会に周知されていない現状では、(a)(b)を「十把一絡げ的に見る精神障害者観」も根強い。否、そのような十把一絡げ的の認識が寧ろ普通でしょう。けれども、そのような精神障害者理解は、触法精神障害者に対する「厳罰化」や保安処分の強化を推進する刑法思想、就中、応報刑思想とは無縁の「盲目の厳罰化論」に過ぎない。と、そう私は考えます。

尚、このイシューの核心たる「この世に<普通の人間>などは存在しない」ということに
関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ大変嬉しいです。


・「精神障害者も社会に入れて」ですと? 考え違いもはなはだしい!
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-300.html







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