老人の戯言

老人の経験、知識、見識も現在に貢献するものが多いのではないか。

最後の旧制大学

2012-05-21 18:02:55 | Weblog
最後の旧制大学に入学することができた。私大は勿論地方の国立大学にも行く資金力がなかったので背水の陣であった。不合格ならそのまま職探しできわめて異なった人生を歩んでいたに違いない。
>この年から東大の第2工学部は廃止され受験の合格率は7倍を超えていた。80%は地方から来た学生で、同時に卒業した新制度は東京出身者が逆に80%であるから、ここに大きな学生制度の変革が始まった。
>旧制度は国家に枢要な学問をおさめ、心理の探求に励むように紀要に記載され手をり、新制度は米国の職業大学の理念であり、まったく異なった方針だ。
>年間の授業料は3,600円、一年上のクラスは1,800円であるから如何にインフレが急速に進行したか判るであろう。
>旧制度は物の考え方を中心に教育されて細かいことはほとんど教わらなかった。これが社会に出て有効なことは明らかであり、他の大学出身者との大きな差異である。
>生活面は依然として厳しく冬でも暖房は無し、教授もドイツの第一次大戦後はエネルギの消費を防ぐため寝ながら講義したとの話も覚えている。東京在住者は食券の配給がないので、遂に卒業するまで、米の飯を学食で食べられることはなかったが、3年生の時にラーメンが出てこれほど美味しい食べ物があるのかとビックリしたくらいである。
>東大は教授、助教授、講師や助手の数全体では一学年の学生数と同等の熱い教育陣であっが、極く少数の一握りの学生であったが、素晴らしく阿多物良いのがをり、これで一遍に人生観が変わり、その後の就職や仕事の選択にはこうけんした。井戸の中の蛙にならずに済んだのである。
>東大そのものの社会的地位も高く曲学阿世の徒と政治家を詰った卒業式の南原総長の送別の辞は有名で各新聞に掲載されたが、最近のような幼稚園の卒業式のような訓示はまったくみっともない。
。東大の良いところは講義よりも優秀な学生と多く交われることではないか。
>多くの同期生がおりしも訪れた朝鮮戦争後の復興景気を通して社会に貢献できたのも、教育方針のおかげで、まだ無秩序でマニュアルもない会社でマニュアルを作りながら業際分野にも活躍が許されたからであると思っている。

今は受験勉強や就職活動に時間を取られ真の勉強ができず、遊びの誘惑モナク、ッテレビでさえ卒業後数年して出てきた時代に感謝すべきであろう。juntaro

戦後の旧制高校

2012-05-19 19:45:22 | Weblog
昭和21年4月、戦後の旧制高校に入学した。理系であったが、英語と第2外国語のドイツ語
を週に8及び5時間3年間勉学した。
>入学の直後から猛烈なインフレが進み、食糧難は苛烈を極めた。寮の食糧がなくなると2月に食糧休暇があったり、昼休みはあっても食べるものはまったく無いかあってもカボチャ程度であった。
>中学3年の時50kgあった体重は卒業時には41kgとなり、多くの人からこれでは大学生活はできないと言われた。
>また法の番人なる裁判官の一部は闇米に手を出さず餓死した人もでた。
>しかし若さの故か戦争中にイモ畑となったコートをローラーを自分たちで引いてコートを作りバレーボール部を復活、早速全国インターハイに出て弘前高校に勝ち、都立高校に負けた思い出は懐かしい。
>しかし貧乏のためクラスの箱根の寮に行く旅行は残念せざるをえなかった悔しい思い出もある。
>しかし両親の3人の男兄弟を育てる苦労を目のあたりにして、教えられるまでもなく親孝行を誓ったものである。今の子供たちは親の苦労する背中を見ていないし、自分ひとりで育ったような顔をしているのは嘆かわしい。
>教科書も出版されてをらず、多くは先生がガリ版で刷ったものが大部分で、英語もリダースダイジェストを読んだり、図書館を活用した。
>旧制高校は男女共学はなく恋愛などに現を抜かす者も皆無であり、全員が戦争の悲惨から解放され本当の額もオンができることに餓えていたのを満たしたものである。
>戦前の高校のように青春を謳歌する経験はほとんどなかったが、貴重な経験をして、戦後の復興に国研したのは我らの自負は今でももっている。
>当時は大学受験の塾などもまったく存在せず、真の学問をするのみであった。
>その後もう一年の入学生があったが、占領軍の指令でドイツ流の学校制度が新制度になり、旧制高校は多くの新制大学の教養学部となったが、2年制では真の友人やゆとりある幅披露教養がえられなかったと思う。
 その点ドイツは占領軍の指示に従わず、教育制度を変更しなかった。
米国の圧力にすぐに屈する日本はそのころからの歴史である。juntaro

戦争中の中学生

2012-05-18 20:30:55 | Weblog
小学校6年生の12月に大平洋戦争がはじまった。家のラジオは壊れていたので、学校に登校して初めて戦争の勃発を知った。
>と府立6中はマント着用で旧制高校のようないでたちで憧れて入ったが、残念ながらこの年から廃止となり、陸軍の制服に近いカーキー色となり、ゲートルを巻いての通学から始まる。
>中学1年のときはまだ先勝ムードで授業は略平常に行われていた。東大卒の俊英の英語、歴史の先生が居て勉学の楽しみを教えてくれた。夏休みには千葉の臨海学校に行き水泳の訓練、肝試しなども楽しかったが、寒中訓練は寒くてきびしかった。
>2年生になると担当教師が応召sれて軍隊に、4月18に日は米艦載機が2機飛来して一遍に戦時基調になり、消火訓練や兵舎での泊りがけ訓練が導入され、大宮公園に防空壕を掘りに毎日、登校せずに、代田橋の浄水場に老いてきた大八車を取り、大宮公園で穴掘りの日が続いた。
>3年生になると東京が空襲で焦土になるとの想定で甲州街道の西新宿の両側の民家を消防自動車とともに破壊する日が続き後半はついに大崎の工場に工員としてのお3交代勤務がはじまった。講義は月2回日曜日の午前中のみで、昔のデッチ奉公と同じ体制になった。学ぶのは理数系のみ、英語は敵性語のため教育されなかった。多くの教員が赤紙で戦地へ赴いた。
>4年生の8月29日まで、この状況が続いたが、3月10日の下町、5月27日B29による無差別爆撃で焼け野原となり、笹塚から新宿の伊勢丹のビルが望見され、焼死体が累々、小学校は消失して、在籍リストもなく小学校の同窓会は一度も開かれていない。
>終戦後米国の内騎兵隊が東京に進駐し、授業が再開されたが、停電が毎晩のように起き、液や山手線の中で勉強するものも現れた。
>このころから食糧難が始まり、都会の母親はタンスにある着物を農家に運びわずかな米と取り換えて上を忍ぶような毎日がはじまった。
>5年制であった中学は戦争中4年に短縮されていたが、この年は希望で4年で修了もみとめられた。
学問への餓えを痛切に感じた人も多いし、抑圧から解放されて軟派,硬派にわかれ、親が先師したり、家が焼かれてバラバラになった中学時代は貴重なたいけんであるし、のちの復興の原動力になった。juntaro


日本は社会主義国

2012-05-16 17:57:55 | Weblog
多くの人は日本は民主主義の資本主義国家と思っているであろう。民主主義の弊害として国策の決定が遅れることは周知の事である。特に捻じれ国会では。
 最近ロシアを旅行した友人からロシアでは国民の所得税は一律13%で日本のような累進課税ではないので、共産党の幹部は大邸宅に住み別荘を持って優雅な生活を楽しみ、国民一般の給与水準は日本の半分くらいで倹しい生活をしている。
 このことは中国でもいえる。政府は最終目標は共産主義だが行きつく過程で資本主義の手法を取り入れているなどと誤魔化している。
その結果10%の1億人以上の人が富裕層になり、日本の土地を買ったりしているのである。
 日本の内閣は最低保障7万円月や児童手当などばらまき、累進風邪率を上げるなど見かけの平準化を図っているが、これこそが不公平なのである。
 このようなことが続けば国民はハングリー精神を忘れ努力しなくても生き残れるノデ、ナマケモノ集団になるのでsる。
 英才教育もスポーツや音楽の世界のみでなく科学その他も実現すべきである。
王代の秋入学なども、前倒し半年してするのならわかるが,遅らしてするなど無意味なことである。
 何が病棟なのか良く考える時期になっている。juntaro

電力の需要と供給

2012-05-14 21:09:46 | Weblog
今夏の電力需要と供給能力について盛んに論争されているが、だれも需給ギャップが起きた時の現象をしらないで、数合わせのみに終始して、電力会社が隠し玉を出さないなどと煽り立てている。
 本来安定供給には通常10%、最低でも5%の余裕がなければ運営できないのである。
供給と受給に差が出るとどうなるか、昔なら電圧が下がり、周波数が下がり、つれて消費電力も下がってバランスをとれた。
 今は周波数がさがれば、神栄発電機は限界設計されているので、回転子が共振を起こして吹っ飛ぶし、周波数が下がった状態でせいさんされている製品は軒並み不良品の山になるのである。その損害数百億円では済まないだろう。
 それを防ぐには計画的に需要を切っていく、いわゆる計画停電を行わねばならない。
現在の送配電線は病院や重要施設と一般施設と分離されていないから病院も巻き込まれる。
ンユーヨークの大停電の復旧には1週間かかっている。将棋倒しに倒れた発電所は元に戻すのもジョジョ時に不可をつないでいかねばならないからである。
 おかげでこの1週間にニュウーヨークでは子供が沢山受胎したそうである。
いったん止めると水力は40秒もあればフル出力まであげられるが、火力は数時間、原子力は数週間を要するのである。
 さきにかいたようにmachine-yearから大事故の発生の確率は1000年に一度もないのである。この場合は政府が全責任を持つことを公表して、経済への影響と安心安全の実態を説明するには電力技術者の力を借りねばならない。
 代議士が政治的に解決するなど言うから前に進まないのである。juntaro