瀬島龍三先生が死去された。95歳という長命であっても時代を担い、昭和史のすべての政治・経済・社会・文化・芸術も包含し、沈黙するところは沈黙し、声を大にするところは毅然として改革。伊藤忠商事を大商社にし、というように大きな枠組みの中に自分を日本をそして何よりも日本人のこころを基点としての情報時代の先駆的方々も育成され続けておられた。
瀬島龍三先生ってどうして?と聞かれる方が多いし、私も先生と称してよいかどうかは分からないが、伊藤忠商事や伊藤忠ファッションシステムの方々とは今も色々な関係をもたせていただいている。
最初のことは、東田剛三様との出会いであった。中国の天安門にある革命博物館の借用が決まり、中国から絹織物を一番多く輸入している商社が伊藤忠商事と知り、福井支店長をされていた東田さんの面会を求めた。紳士であり、冷静であった。そして私は自分のSYOに対するこれまでの思いから未来への思いをそして中国の天安門に「鏡」をおいたら世界に私のSYOが発進されるという構想を1時間半に亘って1人で話したらしい。
後になって、福井支店長時代、各支店の横綱格で年商1000億という時だったが、吉川壽一は1時間半しゃべり続けたが、お金の話を全くしない、こんなめづらしい人種が世の中にいるのかと驚嘆され、中国展では、福井新聞一面を伊藤忠の関係者に呼びかけて全面広告「吉川壽一百福萬福展」を打っていただいた。
その後、伊藤忠商事から伊藤忠ファッションシステムに移り、常務をされ、海外のブランド事業などを立ち上げられたが、私に対しての魂心なるバックアップをしていただいた"神様"であった。
その伊藤忠ファッションシステムには瀬島氏のお孫さんがおられ、北青山の伊藤忠本社ビルでの「吉川壽一RUNRUN」展では、パットみるなり私の作品を購入していただいた。才知あふれる才女とめぐりあった、明日へ!!