「日本の書法とアラビア書法」ということの方が正しいと感じているが、それは実作家としてのアブダビのムハンマド・マンディ氏と日本のJUICHI YOSHIKAWAの両雄展であり、出会いの二人展だからである。
どんなコンセプトでと数回のメールが入ったり、問い合わせが来ているが、コンセプトを整えて作品展をするというのは二人の個が近似値値する時であり、これだけのSYOINGも書法も変幻している2人であればそんなフラットなる近似値を求めるのではなく、大いに離れ離れのところから奏でる風韻や音響をもとにしての作品展がよりBETTREと感じている。
アブダビのムハンマド・マンディさんの実力はパットお会いした時からもうすでに実力が把握できているし、AUN(アウン)がしのび寄ってきていて自然体で2人の身体は天空や宇宙をさまよいはじめていたし、私が「愛」の文字をSYOINGすればかなり大きな平筆をパット手にとって右から左への書法で5mの空間を大なるアラビア書法を展開される。そして愛=HEARTということでハートの形をアラビア書法の線と線の中間へパット揮毫されたりする。
詳細さや厳格なる楷書体。様ではないにしてもこれだけの感性を有する人には私はドバイでもアブダビでもお会いしていない。それだけに日本の書家同志の感性だっていまいちの世の中にあってアブダビで幸運にも凄い感性の持ち主にお会いしてしまったことになる。
どんな変幻にも対応し、感応しての作品づくりに2人は自信しているとマンディさんも私も感じているが、2人にとっては品格・格調なのではないかと思う。どんなテーマ、どんなコンセプトでもよい。たとえばコーランを揮毫することならば写経である。ここでも日本の現在の写経は見るかげもない程に奈良朝に負けている。精神もそうだが、現代の写経体を有していないし、こなしてもいない。経を写すことはうつすことではない。そんな甘い甘い写経があること自体がおそろしいことである。
コーランを写す土壌は日本ほど汚れていないと思える。なによりも品格を格調を有している作品が頭上しなくてはいけない。二人展も同様に。