ティンパーリー『外国人の見た日本軍の暴行』─実録・南京大虐殺─ 第九章 結論

2017年12月07日 22時15分51秒 | 1937年 南京攻略...

『外国人の見た日本軍の暴行』─実録・南京大虐殺─
ティンバーリ著 訳者不祥(日本語)
昭和57年11月25日 発行
評伝社刊 緒方隆司発行者

P.154 第九章 結論
全数章で作者は目撃者が提供した直接の叙述が本書の主体を構成している。作者はこの材料と過去二十年間極東における個人的経験とに基づいて、この最後に南京占領の種々の暴行については世界の新聞紙はいずれも明白な立場から記載している。ただ姦淫、掠奪、惨虐、野蛮な種々の暴行報告が最も信ずべき筋のものであるかどうかは目撃者の直接の叙述を得、それに「ソース」の確実な写真と正式の文書とを加えて証拠とするのであって、これは一般の人々にとり提出してもらいたい問題なのである。
本書と本文とその附録は種々暴行の材料と証拠を網羅しているから、本書出版後にはあらゆる懐疑は皆一掃されるであろう。
しかし、本書に掲げた幾多の材料と証拠は、単に日本軍侵華暴行を代表する横断面にすぎないのである。紙篇の関係上、幾多貴重な材料を作者は割愛せざるをえなかった。従って読者は、本書内に収集された材料の範囲は僅かに若干の割合大きな都市と中立の外国人がその他を遊歴したものとに限られていることを記憶されたい。占領された全農村区城内でも同様の状態が勃発し、直接影響を受けつつあるものは全人口の百分の八十以上を含む農民であるが、その有様は「筆紙にのべ尽し難い」のである。その他日本軍がいかにして組織的計画的な行動をもって中国の工業を破壊し、文化機関や医院を破嶊し、一般産業(貧陋の裏長屋から華麗な「ビル」に至るまで)を焼却したか、その種々の暴行については本書はほんの少ししか触れていない。しかもこうした大部分のものは、占領された後に発生した状況なのである。
日本当局はただそうした報告が実際以上に言い過ぎているとうつろな表示しかしてないし、日本軍の南京および各地においてなされた暴行についてもまだ厳格には否認していない。良心的な日本人は極秘な機会で、それらの報告の真実性を認め深く慚愧を覚えたのである。日本官憲は以下に述べる二つの理由で自己弁護をしているようもののようである。第一に、こうしたことは単独な偶然の事件である。第二に、他の戦争中でも同様の事態が発生したというのである。日本側の上海で発刊している宣伝冊子「中日戦争の実体」でこう述べている。『たとえ日本軍に若干の暴行が確かにあったと認めるとし、また日本軍と外国居留民との間に確かに某種偶然的事件が発生したことを認めるとしても、この種暴行と偶発的な事件に関係あった士兵と中国で作戦している全日本軍とを比較するならば僅かに百分の〇・一、あるいは百分の〇・五、多くとも百分の一を占むるに過ぎない。もし百分の一の最高比率を認めるとしても日本軍の多数なののから見れば、これを大規模な不良行為とは真底言えないのではないか?どんな公正な人もこれを否定回答をあたえるであろう。』
この一種の強弁は嘘をつく人に酷似している。「これは一回だけの嘘に過ぎない」との理由で自己を粉飾するものである。根拠ある確かな報告の多いところから見て、暴行を働いた日本兵と日本の在華軍隊総数との比率は遙かに百分の一以上を占めており、少なくとも四千人から五千人の間と断定することが出来る。かりに英国あるいは米国の軍事当局がその部下から前章で述べたような四、五千名の乱行、放火、姦淫、掠奪が発覚するならば必ずや大いに不安に襲われたであろうし、またかりに彼等が幾多暴行の発生が軍官の指揮監督を受けていることが解ったならば、この不安の心理は必ずや更に増大するであろう。
もし前数章で述べた日本軍の普遍的な暴行をもって単に例外を代表するもので常規を代表するものでないとするならば、戦争の恐怖と軍隊が惨虐性となることについて熟視せず愚者や聾を装うもので、これは正義と道徳の根本存在を否認するに等しい。もし暴行を例外とするならば、また暴行が常規であるとするならば、事態の再演を阻止するよう我々は更に方法を講じなければならぬ。我々が目下必要なことは法律、道徳に対し、絶対に忠誠を表示することで、いかなる条件も付帯しない。そうでないと忠誠も忠誠とはならなくなるのである。
「陳腐な話」に籍口して日本側に代わり寃をすすがんとし、すべて戦争は恐るべき結果を生まないわけにはゆかないと発表しようと考えているものがある。しかし、彼らは日本の在華行動がまだ正式の戦争として認められていないことと、また受難者の主なるものは非戦闘員たる市民であることを忘れているものののようである。
日本軍の中国で犯した種々の暴行は、結局勝利の高潮中に士兵が状態を失ってなされたのであろうか? または日本軍当局の採った計画的な恐怖政策を代表するものであろうか?
若干の読者には、このような疑問が起こるかも知れない。事実によって推断すると、後者の方がより信ぜられるのである。
士兵の常態を失した暴行は、一都市を占領した際、あるいは困憊した戦争が終結に近づいた時に往々起こるもので、こうした暴行は寛恕し難いけれども、その状況は明瞭にし難いものである。しかし、日本軍の暴行は試みに南京を例とすれば三ヶ月間継続され、作者が四月中国を去る時まで完全には終止していなかったのである。
そこで我々の推断によれば、一部の日本軍が統制を失ったというのではなく、日本最高軍事当局は恐怖手段をもって中国民衆を恐懼屈服せしむる目的を達するよう希望していたと見られるのである。先の論が正しいかあるいは後者の結論が正しいかは論外で、この二つの結論は同じように人に苦痛を感ぜしむるもので、その他に第三の結論は見出しえない。日本軍はいかなる国家を侵略するにせよ、同様の手段を採ることは明らかで、この点についても疑いを抱く理由は見出せないようである。
この一時代は日本の覚醒時代であり、一方では西洋文明を受けて行動に発展し、一方面ではその固有の古い文化に自惚れていると一般に認められている。しかし禍根はこの種の仮定の中に含蓄されており、目下の極東は底知れぬ禍を受けつつあるのだ。
米国前国務長官スチムソン(Henry Stimson)は「極東の危機」(The far eastern crisis)の中で言っている。(注1:当方補)『米国政府の見るところでは、日本は一つの良き友であり、強大にして敏感な隣邦である。彼は短い数十年の間に軍閥専政の封建的島国から一訳して工業化された現代国家となった。若干の深謀遠慮な老成重厚な政治家の指導の下に、彼は驚くべき速度をもって西洋文明の要素を吸収融化し、勤勉で聡明な人民は、実際技術方面で工業方面で、また商業方面で偉大な進歩を獲得した。工業方面の発展は漸次政治社会思想上の自由主義的傾向を孕んで育成され、日本の憲法は議会政治の特点を採り入れ、人民は暫時参政権を獲得した。』
これは米国政府の日本に対する見方であるばかりでなく、西方各国政府と人民の日本に対する見方でもある。すなわち多くの中国人もこのような見方をしている。しかし、これは完全に事実の表面的観察に基づく誤った仮定であった、この一種の誤った仮定が極東政治の一般概念を形造っている。そこでスチムソンは、その書で更に語をついて述べている。『産業革命は日本の経済社会の条件を迅速せしめ、同時に西方民主主義の思想もこれに伴って入ってきた。しかし、こうした条件と思想は僅かに局部的に日本軍国主義元来の優点と弱点とを修正しただけである。日本の政府は現在以前として当方固有のものと西洋輸入のものと両勢力を反映しており、この両勢力はまだ完全に融合一致出来ず、相互に指導的地位を争奪している。』
スチムソンの言う工業化せる現代国家とは、実体を一口で言えば、日本封建軍閥政治の工具に過ぎないのである。日本の一般人民は農民たるとあるいは職工たるとを問わず、自分の幸福に対しては依然として権利ははなはだ少なく過去とほとんど同様である。日本は軍閥と財閥の連合統治を受けつつあり、議会には少しも力なく、人民には人民の権利も自由もなく、言論あるいは出版の自由もなく憲法は天皇に至上無限の大権を付与しており、もし憲法に修正を加えようと考えるものがあれば大逆不道とされるのである。一九三七年十二月と一九三八年二月中に自由主義の学者、教授、作家および新聞記者数百名、それに左翼代議士二名は「反戦言論を撒き散らした」ために前後して捕縛、入獄された。
日本の統治階級は社会内部の不安を解消する為に侵略戦争を進めた。ただ中国を征服すれば日本は繁栄するという荒唐無稽な言葉を信じさえすれば、日本の封建的地主・軍閥グループは農村の改革を引き延ばし、またその経済上、政治上の権力を保全しうるのである。侵略戦争が資本家の支持さえあれば、日本の統治階級も目的の上では一致点に達することが出来るのである。しかし、もし侵略戦争の前途が危険であり、利の図るべきものなく、またもし英米両国が経済上日本を圧迫したならば軍閥と財閥との協力は勢い必ず決裂するであろう。かくて日本国民に対し、自由を争取し、戦争を阻止する機会を与えることとなるであろう。この第一次侵略戦争中で、日本人民は実際損をして益するところはなかった。彼らはあるいは死に、あるいは傷つき、彼らの家族は物価高騰し、就業時間は延長され、生活は恐慌をきたしたために極度の苦痛を受けている。将兵は単独で親友と会うことを許されず、自由に談話を発表することも許されなかった。峻厳な統制検査によって日本人民は、中国の抵抗がすこぶる強靱な力を持っていることも知らず、この第一次戦争の終結が無期限であることも知らないのである。日本政府は真相が一旦漏洩し、人民の士気がこれに伴って低落するのを深く恐れているのである。
日本の金融資本家と産業資本家は、英米両国に対する信頼性を自身でよく了解している。もし英米両国が対日牽制を実行し資本家の利潤を削減し、また日本が軍需品や原材料を購入出来ないようにするならば、全体的経済政策を採らざるをえなくなり、彼らは侵略戦争の停止の叫びを起こすであろう。日本産業界の巨頭は決して力量がないわけではない。彼らは有利な害のない条件の下でのみ侵略戦争を擁護するのである。
中国に発生した、また発生しつつある事態は全世界の人々にとって、集団安全主義者たると孤立主義者たるとを問わず、すべて密接な関係を持っている。作者は中国目下の苦難な過程において、南京の中外紳士・淑女の高尚な行為と国際正義を擁護する人士に対し、有力な激励と加護を与えられんことを熱望する。人類が絶大な危険を冒し、中国が目下遭遇している名状すべからざる恐怖、苦難を将来再び演ぜしめない限り、全世界の人士は勇敢に抗戦する中国に対し拱手傍観、無関心であってはならないことである。
英国の統治グループは恐怖審理を抱き力もよく出ない声で「我々にいかなる方策ありや」と叫んでいる。方法はある。目下切実な具体的順序としては、我々は火器あるいは金銭をもって中国を援助するという諾言を実践することである。しかし、我々の行動はこの主の援助をもって満足すべきではない。我々は永久的な集団安全制度を樹立し、和平を愛好する国家を保護し、侵略を受けないようにすべきで、かくてこそ初めて休戚を共にする理義に精通してこそ初めて戦争の暗影を消滅せしむることが出来るのである。

(注1)『極東の危機』スチムソン 著[他] 中央公論社刊 1936年 P.11/10行目
国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1878492)


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