:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ デオ・グラチアス

2022-11-28 00:20:30 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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デオ・グラチアス

神に感謝したてまつる!

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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デオ・グラチアス

 武蔵野の秋の夕方、私は新しく耕されたばかりの麦畑の間を、向うにそびえる黒い森のほうへと歩いていました。満月が森の上にかかって、それは北ドイツの詩人マチアス・クラウディウスの歌ったような景色です。

           Der Mond ist aufgegangen,

           die goldnen Sternlein prangen

           am Himmel hell und klar.

     Der Wald steht schwarz und schweiget,

          und aus den Wiesen steiget

          der weisse Nebel wunderbar.

        「月のぼりたり、金の星きらびやかに輝く、空にさやかに清らかに。

          森くろぐろと黙して立ち、まきばより立ちのぼる白き霧は妙なるかな」

 私は黒い森に向かって、デオ・グラチアスというラテン語の言葉をいってみます。なぜなら、カルメル修道院からの帰り道ですし、このデオ・グラチアスはこの修道院で学んだのですから。それを今、私はけいこしているのです。カルメルで誦えるように。

 申すまでもなく、幼い頃からたびたびデオ・グラチアスを聞き、私もまたそれをときどき誦えることもありますが、カルメルでは、全く別のもののように響きます。そこでは、デオ・グラチアスを誦える人の姿を見ることはできません。格子と幕を通して、何かあの世から聞こえるように、このデオ・グラチアスは会話の終わりに誦えるのです。さようならというかわりに、デオ・グラチアスと……。それもまた一切の問題の解決として誦えます。嬉しいことも、悲しいことも、デオ・グラチアスを誦えて快く受けとるのです。

 カルメルでは世の中の騒ぎや心配から離れて静かに暮していますが、全く心配がないのでもありません。それも普通の人びとの心配とは違います。カルメルにはただ一つの心配しかありません。それは「必要なことはただ一つのみ」ということについて。すなわち神のみ心に適うということだけなのです。カルメルでは皆様は本当の神のために十分につくしたかどうかと不安をお感じになります。この不安は、人間の心に一番必要な最も美しい不安ですから、皆様はもう無理に心配なさらなくてもいい、と申し上げたとき、皆様の心からみごとなデオ・グラチアス、神に感謝したてまつるという言葉が、武蔵野の麦畑の上に立ちのぼる雲雀の歌のように快く聞こえました。

 世の中には、このような清らかなデオ・グラチアスが人間の心から天に昇るのですから、神は人類のあらゆるわがままも罪悪も、少しは忍び給うのでしょう。

 このような清らかな心を作るのに、カルメルの面会室のあの嫌な格子と、その二百以上もある鉄の刺が必要であるなら――よし、私はもう反対はしません。カルメルの塀が、灰色の監獄のそれのように高いとしても、私はもう気にせず黙っていましょう。

 そしてまた、壁と格子と幕で、祭壇にさえ隔てを作っていても、皆様のデオ・グラチアスを聞きましたから私は我慢しましょう。神はこのデオ・グラチアスでみ心を和らげられ、ゆるして下さるに違いないのですから。

 カルメルのデオ・グラチアスを聞かない人は、この報告を聞いても、それを感じ味わうことはできますまい。このデオ・グラチアスがどんなに美しく神秘に響くか、カルメルの皆様がお気づきにならないようにと望みます。もし、おわかりになったら、遠慮深く、反省的になってしまい、あの純粋な響きは失われてしまいましょう。それはいけません。デオ・グラチアスは、いつでも今のように清く響かなければならないのです。

 臨終の最後の瞬間まで……。一切の務めを果して、いよいよ神のみ前に出て、神へ最初のご挨拶としてデオ・グラチアスとおっしゃって下さい。デオ・グラチアス! 神が在すことは感謝すべきことです。皆様もこの世に生れ、この世界宇宙の果てしもなく大きな神のご計画の中に組み入れられたことは感謝すべきことであります。また、ようやく無事に神のみ心にまで達したことは誠に感謝すべきことです。そのときにこそ、皆様は最も優れてよいデオ・グラチアスをお誦えになるでしょう。

 カルメルのデオ・グラチアスを、人びとがあまり聞く機会のないのを大変残念に思います。でも、それはやむを得ないことでしょう。このデオ・グラチアスは使いにくい言葉です。私たち一般の人は神にすべてを感謝していても、なおまだ神に対して、自分の希望を通してみたいと思うのです。そして私たちは、神が私たちの希望をみたし給うたとき、初めて心からデオ・グラチアスと言います。しかしカルメルでは、神がご意志を通し給うときにでも、デオ・グラチアスを誦えます。苦しいことも、与えられるままに、冬の寒さも、夏の暑さも、こうして皆様には、もうたいした辛いことは残っていないようになってしまいました。すべては喜びに満たされていますから、落着いた喜び溢れる心の底から湧き上るこの「デオ・グラチアス!」はこの世の誰もまねることはできません。 

 カルメルの皆様、いつもこのデオ・グラチアスをお誦えなさい。これは、たまに人びとの前で会話の終わりにだけお誦えになるのではなく、毎日幾度もひそかに心の中でお誦えになることでしょう。天に在す御父のためのデオ・グラチアスですから。隠れた所を見給う御父、すべてのデオ・グラチアスに報い給う御父、皆様はお考えにもならないでしょうが、天に在す御父は皆様のデオ・グラチアスへの報いを考えられ、もう、どのような報いをもって驚かそうかと、お喜びになっていらっしゃいます。それは決して私たち人間の考えるような報いではありません。それは、花が根と茎と葉のあらゆる骨折りに対する報いであるように。そしてまた、雨や風の数々の努力と陽の光りの恵みに対する報いであるように。皆様の心は、神の喜びにおいて花となって咲きでるのです。お喜びなさい。天国での報いは、大変大きなものです――神に愛されること、神を愛し奉ること!

 そうです。そうなるに違いありません。この地球とその上に無数の人びとがいることはよいことです。そしてそこで知らずしらずのうちに、このデオ・グラチアスを学ばれたことは私たちのあらゆる希望にまさることです。 

 私も、デオ・グラチアスを口ずさみ、皆様をまねて試みながら、元気に、黒々と沈黙している森へ向かって歩いて行くのです。満月は静かに森の上から明るい光りを放っています。

 

付記

デオ・グラチアス 神に感謝し奉る なんと美しい言葉でしょう。ホイヴェルス師は、もちろんこのラテン語の神への感謝の言葉を、子供のころから何度も聞いて知っておられました。

しかし、師はそれがカルメル会のシスターたちの口を通して語られるのを聞いて、あらためてその言葉の深みを感じ取られたのでしょう。

キリスト教をよく知らない皆様のために、またカトリック信者の皆さんにも、カルメル会の修道院がどういうところかご説明いたしましょう。カトリック教会には古くから修道院というものがあります。神様への愛と人々への愛のために生涯独身で、祈りと労働の厳しい共同生活をします。貧しい人のために働いたり、医療や社会福祉活動や教育活動のために働く活動修道会もありますが、世間から身を隠し、生涯にわたって世間とのかかわりを断って、祈りと犠牲とささやかな自給自足の労働に生きる修道者たちもいます。後者のような生き方をする会を観想修道会と言います。女子のカルメル会もその一つです。

私が司祭職への召命に燃えて多感だった20歳代のころは、カルメル会の若い聖女「小さき花の聖テレジア」(「リジューの聖テレジア」とも呼ばれる)が有名で、その自叙伝などが盛んに読まれ、会は多くの若い志願者に恵まれれていたが、カトリック教会の信仰が世界的にある高揚感に浸った懐かしい時代を思い出させてくれます。

小さき花の聖テレジア

その修道院では、ホイヴェルス師のような老司祭がミサをささげるために訪れても、普段は鉄の格子と垂れ幕で隔てられ、声しか聞こえてきません。それほど外界と厳しく隔てられています。

私は日本で知り合ったスペイン人の若い娘が、故郷の観想修道会に入会して、修練期間を終えて初誓願を立てるとき、その誓願式に与るために彼女の修道院を訪れました。晴れの祝いの日だったので、垂れ幕はなかったものの、聖堂の一般信徒の席とシスターたちの席との間にやはり鉄の格子がありました。

式が進むにつれて、美しい声で歌い祈るシスターたちと世俗の世界にいる私たちとの関係が全く逆転してしまったかのように思えてきました。高い塀をめぐらし、鉄格子のなかに閉じ込められている彼女たちが、まるで天国の自由な広がりの中に生きていて、私たちがこの世のしがらみと生活の煩いの鉄格子で囲まれた窮屈な檻の中に閉じ込められているかのような錯覚に陥りました。

彼女たちは、清貧と従順と貞潔の誓いのもとに、厳しい修行をしているのに、その顔は自由と幸福感に明るく輝いているではありませんか。

キリストの花嫁として幸せに生き、世俗の汚れと悩みの中に動めいている私たちのために、日夜祈りと犠牲の生活に身をささげているのです。

ホイヴェルス師も彼女たちの デオ・グラチアス 神に感謝したてまつる の、歌うような声を後にして、四谷に帰る道々、武蔵野野ひばりの声に耳を傾けておられたのでしょう。

 

 

 

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38 コメント

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"Deo Gratias" (新米信徒)
2022-12-06 21:25:24
谷口神父様 

上の記事を読み、考えさせられて、土居健朗・森田 明・編「ホイヴェルス神父ー信仰と思想」聖母文庫 (2003) の後半を少し読み返しました。第三部 「ホイヴェルス神父と日本人」にある、ホイヴェルス神父の使命 土居健朗、の、 (2) 宣教の困難、に目がとまりました。そこには、ホイヴェルス神父様が、現代日本語の習得に苦労されたことと、来日後十年以上もたった頃に細川ガラシャ夫人と出会ったことから日本人への宣教の使命の遂行に決定的なことを受け取られたことが書いてありました。この二つのことを、わたしはみていませんでした。神父様の記事と併せて、よく読もうと思います。

"Deo Gratias" ですが、一年程前に日本語におきかえたことがあります。順に、与格、対格ではないかと思いますが、私的な意向で「ロザリオの祈り」を唱えて、"In Nomine Patris ... " を唱えながら十字を切って、続けて、最後に、Deo Gratias. Thanks be to God. 感謝を神に。、と唱えてきました。神に感謝を、と唱えると、祈りが途切れてしまうように感じてきました。わたしの感覚がおかしいのかもしれません。改めて日本語におきえてみました。

隠れ身様こそありがたけれ。

隠れ身様に思ひを。

ありがたし、が根源的なことばであることを知りました。後のおきかえは、イエス様からの第一のおきてにつながるようにおもいます。感謝は、欧米のことばの感覚に近いように感じます。素人の感想ですが。
新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2022-12-08 21:37:18
示唆に富んだコメントありがとうございました。
「謝」 (新米信徒)
2022-12-09 22:16:57
谷口神父様

返信をありがとうございます。

素人がなすべきことではないのですが、もう少し調べました。「時課の典礼(教会の祈り)」の詩編は、J・アブリ神父様の訳で唱えています。詩編 95 の 2 節と詩編 100 の 4 節に、「賛美もて」と訳されていることばがあります。Nova Vulgata では、"in confessinoe" です。告白が浮かんだので調べると、
"fateor"(告白する)とつながっていました。「話す」ということが根底にあるようです。上の詩編のことばは、「感謝」と訳されることが多いようです。今度は、「謝」を、漢和辞典で調べると、根底に、「ことばを残して去る」ということがあるようです。上のカルメル修道院の修道女の方の話とつながっているかどうかはわかりませんが、わたしが、祈りがとぎれる、と感じたこととつながっているかもしれないと感じました。"Deo Gratias" を、

隠れ身様に畏(かしこ)まりを。

とおきかえてみました。わたしには、これがよいかもしれません。ホイヴェルス神父様のことばからは離れているかもしれませんが。
訂正 (新米信徒)
2022-12-10 09:16:30
谷口神父様

先に、わたし(新米信徒)が書いたコメントのラテン語を "in confessione" に訂正します。o と n の順序が間違っていたと思います。すみません。
挨拶 (新米信徒)
2022-12-12 23:04:54
谷口神父様 

今日、道を歩いていると、少し離れたところから小学生の三、四年生ぐらいの少女から、大きな声で、「こんにちは」と挨拶を受けました。こちらも、挨拶をしましたが、わたしの反応が悪かったのか、その少女がわたしとすれ違うときに、大きな声で(挨拶をして)、すみません、と言いました。わたしは、元気な方がよいですよ、と二度言いました。その後、わたしの気持ちは明るくなり、元気をもらったような気がしました。

"Deo Gratias" と言うときは、顔をあげて、意識を使わずに、真っ直ぐに、大きな声で言えばよいように思いました。そのことを少女から教わったように感じます。
新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2022-12-13 09:09:14
いいエピソードですね!
ホイヴェルス神父様と日本との出会い (新米信徒)
2022-12-17 23:21:36
谷口神父様

返信をありがとうございます。最近は少女から教えられることが多いような気がします。

ホイヴェルス神父ー信仰と思想 土居健朗・森田 明・編 聖母文庫 (2003) 第三部 ホイヴェルス神父と日本人、の、 ホイヴェルス神父の使命 土居健朗、に玉島の教会の裏の山での石の仏像との出会いについてのホイヴェルス神父様の文が引用されています。

「・・・。このあまりにも静まりかえった天地を、そのままま黙って受け取るべきものなのでしょうか。それとも、この静かな世の中に、聖霊の光の嵐をまきおこすべきでしょうか。・・・」。

このことが、ホイヴェルス神父様に(おそらく)決定的なことであった、と感じました。そこで、ヘルマン・ホイヴェルス、人生の秋に (一九六九 ?)、の、「日本の暮らしの見習い」、を読み直しました。わたしの気持ちは、変わりました。一部分だけをみてはいけない、と感じます。
新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2022-12-18 10:13:51
上にいただいたコメントにお答えする前に、右手の本箱の中から師の「人生の秋に」を取り出して、31頁からの「日本の暮らしの見習い」をあらためて読み返しました。
師は確かほかの所で、日本人のモラルは高水準でドイツ人のそれをしのいでいる。私は一体何を日本人に教えに来たのだろう?と、自問されたくだりがありました。もちろん意味は大体同じでも、用いられた日本語は私の乱暴な、また直截な表現よりずっと磨かれたものだったと思いますが・・・。
そして、やはり「精霊の嵐」をあえてもたらす使命を確認されたのだったと思います。
ホイヴェルス神父様と日本人 (新米信徒)
2022-12-21 08:19:49
谷口神父様

返信と助言をありがとうございます。

ホイヴェルス神父様の著書「人生の秋に」を繰り返し読まなければいけないことを強く感じます。読むとおもいだすことも多いですが、以前は人ごととして読んでいました。この書の「序」には、「一九六九四月一九日 イエズス会入会六十年の記念に 著者」とあります。

I の「がっかりしたホフマン先生」には、関東大震災の年(一九二三年)の八月二十五日に、乗船した船が横浜港に入港したとあります。また、ハンブルク大学で、「万葉集」、「祝詞(のりと)」とか、能楽の「老松」とかを研究された、とあります。しかしながら、漢字を読むことは大変であったようです。上智大学の創立者で学長であられたホフマン先生は、ホイヴェルス神父様に漢文の素養を期待しておられ、大学での働きのことをおもい、失望されたようです。

「関東大震災」には、「・・・。三日目の月曜日あたりからは、火勢はしだいにおさまったので、人びとは助かった荷物をかつぎ、長い果てしない列をなして道を行きます。

声もなく、涙も見られない。みんな黙ってあきらめたように、その道を行くのです。感心すべき国民、そのときから日本の人がすっかり好きになりました。みんな相互に助け合い、そして心の中では互いに将来どうなるかもわからぬまま、しかも相互に迷惑をかけまいとする態度が見受けられました。・・・。」

わたしも大きな震災を経験したり、報道を通して大きな震災をみましたが、上の精神が今もあることはうれしい限りです。

ただし、次をみつけました。

第186回国会 (2014 年)
請願の要旨 新件番号 1707
件名 関東大震災時の朝鮮人虐殺の真相究明に関する請願

これは、とくに日本政府の関与の実態を明らかにするように、ということのようです。

聖ヨハネ・パウロ2世教皇様が多くことを謝罪をされたことは
大切なことだと思います。わたしは "Old Goa" での異端審問についてのいくつかの論文を読んだだけですが、ホイヴェルス神父様のような精神があれば、とおもったことが、石仏との出会いについて書いたことの動機です。長文をすみません。
新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2023-01-01 10:11:15
メッセージありがとうございました。ご趣旨に沿って敢えてここには公開しません。
デオ・グラチアスですね。
ともに祈りましょう!

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