:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 第45回ヘルマン・ホイヴェルス神父追悼ミサに参加して (山下征子)

2022-12-03 00:30:13 | ★ ホイヴェルス師

カトリック東松山教会報「マラナタ」2022年11月号に、以下のような記事があることを知りました。

ホイヴェルス師の追悼ミサの主催者として興味があったので、筆者の山下征子さんの承諾を得て、このブログに転載いたします。

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第45回ヘルマン・ホイヴェルス神父追悼ミサに参加して

山下征子

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 去る6月、参加者50名を超える方々が四谷の主婦会館に集い、師の追悼ミサが捧げられた。

 帰天後45年間一度も途切れることなく「偲ぶ会」が続いていることに感動し初めて参加した。

 ミサ後の懇親会では、生前の師を記憶する世代、師を知らない若い世代の方々が師への思い出を語られた。共通する思い出は、師はこよなく日本を愛されたこと。

『日本文化が持っている深い精神性はキリストの伝える愛と深く結びついている。日本人の心を表わす「いただく」「捧げる」「落ち着く」の3つの言葉が人の人生の歩みを表している。人はまずいただく仕事をしなければならない。赤ちゃんはまず親からいただきます。そして、学生たちは学校で知識をいただいて心を養います。その後家庭や社会で自分を捧げなければならない。そうして人間の心は満足し落ち着いて神のみこころに至る』

と師は語られていたとか。

 師は決して過去の人ではない。今の時代にもその魂は引き継がれるべき人だと思った。そして、しおりの最後の頁に「最上のわざ」が記されているのを見つけて、あっ!と。13年まえに帰天した夫は余命を告知されてからの数カ月、この「最上のわざ」のカードを枕元に置き、常に合掌していた。このカードは今、家庭祭壇の夫の写真の傍らに置かれ、私の信仰の在り方のヒントとなっている。「最上のわざ」を唱えると‟加齢も死も怖くない”。と、思えてくる。

 

【最上のわざ】

この世の最上のわざは何か?

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であることを。老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらいしごと。

こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人のうえに。神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

  H・ホイヴェルス神父の言葉より

 * * * * *

プロフィール:ホイヴェルス神父はドイツで生を受け。イエズス会宣教師として1923年33歳で対日。上智大学で教鞭を執り、聖イグナチオ教会の初代主任司祭として司牧に献身、32年にわたり戦況と司牧に従事し、1977年87歳で天国に旅立たれた。師から洗礼を授けられた人は3千名を超え、日本を愛した宣教師の心は、今も上智大学や聖イグナチオ教会をはじめ、各地で息づいている。

 

 

 

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1 コメント

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いただく(頂く・戴く) (新米信徒)
2023-08-15 13:57:24
谷口神父様 

ホイヴェルス神父様が日本での宣教に先立って、来日早々、関東大震災に遭って、被災した日本人の姿をみて、日本人を好きになった(ドイツ語の liben が近いのかもしれません)ことは大変大切なことだと思います。その上、好きになった日本人に宣教することに対して、当初随分悩まれたこと、赴任先の岡山の玉島の教会の裏山の山頂で石の仏像に出会われ、「この像の仏様は、遠いインドシナからシナ、朝鮮を渡って日本へ、そしてこの片田舎の山頂までも占領してしまった。どんな大きな力があってか、かくも世の人の心をとらえ、人の心を安んぜしめているのか、その力に、私の心は今さらながら感嘆するのでした。」(ホイヴェルス随想集 人生の秋に ヘルマン・ホイヴェルス(神父様)春秋社 (1996) の、I の、「日本の暮らしの見習い」からの引用)

上の神父様の記事にある、ホイヴェルス神父様が大切にされた日本人の「いただく」という精神は、「信仰の遺産 岩下壮一(神父様)著 岩波書店 岩波文庫版 (2015)」所収の「キリストを信じうるか(昭和十三年五月『カトリック』第十八巻第五号)」にもあるようで、その「三」に、「宗教体験は、常に神と人との合作である。神と人とはたと行逢う処にのみ、真の宗教的真理の捕捉が行われる。それは人が捕うると謂うも必ずしも誤謬ではないが、神によって人が捕捉されると称した方がより真に近い。聖書の語を以て云えば『信仰は神の賜物』である。人が信じるのではあるけれども、同時に信じてさして頂くのである。キリストを信じるとは、誰も曾(か)って見たることなき神の測り知るべからざる生命と光栄とが、その無限の愛によってイエズスの人間性を通じて時空の間に顕(あらわ)れたことを認むるに他ならぬ。」この後に、ヨハネ一ノ一二から一四が引用されています。cf. p. 40, 41.

このことに関わっているのではないかと思いますが、日本 FEBC で 2019 年 4 月2 日から 9 月 24 日に放送された「光、イイススというお方 ゲオルギイ松島雄一(日本正教会大阪ハリストス正教会管轄司祭)」の第 11 回の朗読箇所は「使徒 2:1-11」(聖霊降臨)でした。松島司祭が説教で仰ったことは、行動してつかみとることは、現代の人間の生き方。そしてアダムとエバの行ったこと。(おそらく)使徒言行録 1: 4-5 (イエス様のこの地での最後のことば)を引用されて、行動してつかみとることをやめ、まず、待つ(祈る)癖をつけてください、ということではないかと思います(単純な要約です。勘違いしていれば申し訳ございません)。残念なことには、この番組を収録した CD-R に、不思議な楽器の音、松島司祭の祈りが省略されていることです(一部の祈りは収録されています)。不思議な音、聖書の朗読、説教そして祈りは不可分であることを思い知らされています。朗読の前の音はこころを整えて準備することに必要であるように感じます。説教の後に祈りがなければ、説教がつかみとることになりかねないように感じます。新米である信徒の今の感想です。






 

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