:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ クリスマスの思い出

2022-12-20 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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クリスマスの思い出

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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 毎年クリスマスの頃になりますと、人が私にクリスマスの思い出の話をたのみます。毎度、大体次のようなことをのべます。 

 私の覚えている始めてのクリスマスは四歳のときでした。私たちの家には、広間から二階に通じる階段があって、そこは兄と私の一番好きな遊び場だったのです。この階段の上の方、煙突の後に物置きのような小さい暗い部屋があって、その戸はいつもしまっていました。

 ある日、母は階段を登ってこの部屋の戸をあけたのです。すると中から、とてもいい香りがして来ました。私も母のあとから、この部屋にはいってみました。母が大きな長持のふたを開けると、おいしそうな香りがたくさん出て来ました。でも暗い部屋だったので、何もみえません。私は長持のふちにつかまって、中を見ようと思いましたが、まだ体も手も小さくてできません。母は私をだき上げて、中の物を自由につかませてくれたのです。 

 そして小さい声で「ダウエル・エップフェルですよ」と母は言いました。(長い間もつリンゴで、ちょうどクリスマスの頃においしく食べられるのです)私は、「ダウエル・エップフェル」という言葉をくりかえして言いながら、大きくて丸いすべすべしたリンゴを両手でたくさんかかえました。すると母はまた「これはヴァイナハツ・エップフェルですよ。(クリスマスのリンゴ)」と言って教えてくれました。私はこのむずかしい言葉を一生けんめい言って見ようと思いました。 

 「もうすぐクリスマスが来ますよ。クリスマスが来たら、このリンゴも出してあげましょうね」と言いながら、母は私を床におろして、長持のふたをしめました。 

 私はとても大きな希望をもって、クリスマスの来るのを待っていました。クリスマスの意味は、ちっともわからなかったけれども、嬉しいよいことばかりを、もたらしてくれるものだということがわかったのです。なぜって、郵便屋さんがいろいろの包みを持って来ると、母はできるだけ早く、私たちに気づかれないようにかたづけてしまったからです。 

 それから幾日かたって、ある朝、父はもみの木を家の中に運びいれました。すると翌年の春から小学校にゆく私の兄は物知り顔に「これはヴァイナハツ・バウムだ。(クリスマス・ツリー)」と言ったのです。私はその木を見ましたが、リンゴは一つもついていないので、兄に聞いたのです。「でも、ヴァイナハツ・エップフェルはどこにあるの? ヴァイナハツ・エップフェルはついていないじゃないの」兄は笑って「それはクリスト・キント(幼きキリスト様)が木におつけになるのだよ」と言いました。 

 その日の夕方、母は私たちをいつもより早く寝かして「あしたはヴァイナハテンですよ、クリスト・キントもいらっしゃるから早く起きなければいけない。そうしていっしょに教会に行きましょうね」と言いました。けれども私たちは「どんなふうにしてクリスト・キントが贈り物を持っていらっしゃるのだろうか、いつリンゴを木におつけになるのだろうか」ということを知りたかったので、階段の所でわざとゆっくりゆっくりしていました。そして母と女中たちがローソクを木につけるのを見てしまったのです。母はいろんな色のピカピカ光る玉も、木の枝のあちらこちらにつけていました。 

 母が「早くおやすみなさい」と注意したので、私たちは仕方なく「グーテ・ナハト(おやすみなさい、またあした)」とあいさつをして、階段をのぼり、南向きの私たちの寝室にいきました。私はねないで、一生けんめい、下で皆が何か言うのを聞こうとしましたが、下では、ただ小さい声でささやくだけで、ときどき笑い声が聞えるばかりでした。そのうちにいつか私はねむりこんで、夢の中でクリスト・キントの木を見たのです。 

 あくる日の朝、兄と私は早く起きて、はれ着を着ると、できるだけ気をつけて下におりて行きました。まだその頃は電気のない時代でしたから広間は暗くてまだ何も見えなかったのです。私たちは胸をドキドキさせてテーブルの回りやヴァイナハツ・バウム(クリスマス・ツリー)のまわりを手さぐりで歩いて見ました。部屋はいい香りでいっぱいでした。兄は前の年のクリスマスを覚えていたので、クリスマスはどんなふうにお祝いしなければいけないのか、ということをよく知っていました。それで父母の部屋をたたいて、ドアを開けると、「フロェーリヒェ・ヴァーイナハテン(クリスマスおめでとう)」というあいさつをしました。父も母も同じあいさつをしたのです。でも私はどうしてもこんな荘重な言葉を言うことはできませんでした。母は兄に「ランプをつけて、クリスト・キントはどんな贈り物を下さったかごらんなさい」と言いましたので、私たちは大いそぎでランプをつけてみました。 

 クリスマス・ツリーの下には私たちへの贈り物がたくさんつみ重ねてあって、兄のためには、いろいろの学用品もあったのです。お皿にはそれぞれクルミの実やお菓子がよそってあって、それにあのヴァイナハツ・エップフェルもありました。私のいただいた贈り物のなかには、いろんな色のぬってあるきれいな車があったので、私はそれを両手でかかえて床の上にそっとおろしました。車には曳きづながついていて、私はそのつなを持ってひいて歩きました。とても嬉しくてたまりませんでした。驚いたことに、この車は音楽をやり始めたのです。大きないろいろの違った音(ノート)が(本当は三つの音だったのです)面白く聞えました。そしてその音楽が嬉しかったので、長い間楽しもうと思って、一生けんめい車をひいて歩き廻りました。クリスマス・ツリーやテーブルのまわりを……。兄はびっくりして、私の車をみつめていました。この頃もう兄は何でも機械が好きでしたから、きっとこの車も調べてみたいと思ったのでしょう。でも私はすぐ気がついたので、もっと早く、できるだけ早く車をひいて歩きました。音楽はますますはげしくなるので、私も夢中になってテーブルの回りをかけ廻りながら、車の音に合わせて歌を歌ったのです。それはそれは嬉しくていい気持でした。 

 母は広間にはいって来て、私を見ると嬉しそうにほおえみました。それで私は母に「お母様、僕はとても嬉しかった。クリスト・キントは僕にこの『トゥンカ、トゥンカ』を下さったの」と言うと、母は「まあトゥンカ、トゥンカを」と言って笑っていました。 

 それから母は兄と私にヴァイナハツ・エップフェルを下さって「これを、おあがりなさい。その間に、私たちは教会にいく支度をしてきますからね」と言いました。私たちはリンゴをいただくと階段のいちばん下の段に腰かけて食べながら、クリスマス・ツリーを眺めました。青い枝の間には、ルビーのようなつやつやしたリンゴがついていました。リンゴがどんなにおいしかったか、言葉で言いあらわすことはできません。食べてみなければとてもわからないからです。 

 支度ができると、みんないっしょに教会に行きました。私がおぼえているのでは、これが初めてです。兄は父といっしょにコーラスの方のパイプオルガンのそばにのぼっていきました。どんな機械でも好きな兄でしたから……。母は私の手をとって自分の席につれて行きました。席についてから、私は思わず上を見ると、とてもびっくりしたのです。クリスト・キントのお家の天井はなんと高いのでしょう。(それはゴチック式の丸天井だったのです)左官屋さんはどうして、あんなに高い丸い天井を作ったのでしょうか、どうしても私にはわかりませんでした。それにまた、急に私たちの頭の上に落ちてくるかも知れないという心配で、私の頭はいっぱいだったのです。とても心配だったので、まわりの人たちの顔を見廻しましたけど、誰も心配そうな顔をしていないので、私もやっと安心しました。まだ満三歳半ばかりで小さかった私は、何も見ることができなくて、ただ天井だけが見えるばかりでした。その頃は、女の人たちはとても大きな、つばの広い帽子をかぶっていました。それで、私は椅子の上に立ち上がって、帽子の間を通して遠くの方に、数えきれないほどたくさんのローソクがともって光り輝いている祭壇を見ることができたのです。まもなく白と赤の着物を着た男の子が香部屋から出て来ると、その後から神父様はめずらしい祭服をまとって出ていらっしゃって、ゆっくりと落ちついた足どりで祭壇にのぼりました。

 その瞬間、静かにしずまりかえっていた教会の中で、パイプオルガンが全力をあげて嵐のような音楽で教会を包んでしまいました。オルガンの低い強い音のために、教会全体がふるえたのです。クリスト・キントのお家の音楽は、私のいただいたトゥンカ、トゥンカの音とはずいぶん違っていました。教会は音楽のためにしばらくふるえていましたが、また急に静かになり、パイプオルガンのメロディーに合わせて皆が歌い始めたのです。私の母も歌いました。それは、「ハイリヒステ・ナハト」(聖き夜)というクリスマスの聖歌でした。 

    とうとき夜

    くらやみはさけ 

    愛らしき強き光りは 

    空から輝きぬ 

 ここまで、私はやっと言葉が少しわかっただけで、あとはただ光りとパイプオルガンの音と人びとの声でいっぱいにみたされている教会だけしか感じませんでした。どれもこれも高い丸天井の教会の中で、たいへんに美しくひびいていたのでした。

 その後また突然、あたりはまったく静まりかえって、この静けさの中では、もうだれも、せき一つする人もなかったのです。そのとき、祭壇の方に鈴の音が聞えました。母は私を少し抱き上げて、耳もとで「さあ、これからクリスト・キントがいらっしゃるのよ」とささやきました。もう一度小さい鈴の音がひびくと、人びとはみんな頭をさげました。母は小さな声で「さあ、あそこにおいでになりますよ」と言いましたので、よく見ると、神父様は何か白いものを両手で高くさし上げていらっしゃいました。しばらくして、またパイプオルガンが音楽をかなで、人びとが歌い始めたとき、母は「あれがクリスト・キントだったのですよ」と言いました。

 教会からの帰り道で、私は母に「あのクリスト・キントはどんなだったの?」と聞いてみますと、母は「まあ、それはもう少し大きくなったらよくわかるでしょう」と言いました。 

 その日どんなことをしたかおぼえていませんが、晩のことは、いまでもよく覚えています。夕食がすんでから、お隣の子供も、クリスマスのお祝いにやって来ました。母はローソクに火をつけランプの光りを消したので、クリスマス・ツリーは初めて本当にみごとなヴァイナハツ・バウムになって、リンゴもガラスの玉もとてもきれいに青い枝の間に輝いていました。私たちはみんな手をつないでクリスマス・ツリーのまわりに大きな輪を作りました。父は、「ハイリヒステ・ナハト」(聖き夜)という今朝教会で歌ったあの聖歌を歌い出し、みんないっしょに声をそろえて歌ったのです。私は、言葉がまだよくわからなかったので、みんなの声にいいあんばいにあわせて、一生けんめい歌いました。そのあとで、母はクルミの実とお菓子とリンゴをみんなにくばりました。私はいただいたリンゴを食べ、「トゥンカ、トゥンカ」をひきながら、クリスマス・ツリーのまわりを歩きました。右の手で車をひき、左手にはリンゴを持って……でも食べることも忘れて、やっと覚えたばかりの「ハイリヒステ・ナハト」をきれぎれに歌っていました。 

 そのうちに私は疲れて、階段のいちばん下の段に腰かけると、じっとしたままピカピカ光る玉を見ていましたが、見ているうちに明るい木はだんだん私の目から遠のいて行き、とうとうずっと遠くの方に行ってしまいました。私はいつの間にかそのまま寝こんでしまったのです。翌朝目がさめたとき、私はベットの中に寝ていました。

 

* * * * *

 

私のクリスマスの思い出も母の思い出と重なる。やはり4歳のころのことではなかったかと思います

 

 この写真は私の6歳のころの家族写真から切り取った母の面影だが、22歳で私を産んで、31歳で他界した彼女はこの時まだ27か28歳になったばかりでしょう。神戸の下山手に洋館2階建ての医院を経営していた裕福な医者の末娘で、神戸女学院でプロテスタントの信仰を得た敬虔なクリスチャンでした。

 私の最初のクリスマスの思い出は、時あたかも第二次世界大戦の真っ最中で、灯火管制の中、黒いフードを傘につけた電灯の下で、父が母に言われてどこから切ってきた1メートル余りの若い松の木を官舎の応接間に立て、母は大きな桐の箱を物置きから取り出して、中から赤や青や金色のガラスの玉や、小さな家、蝋燭や、赤い靴下やきらきら光る長いモール、雪に見立てた白い綿で緑の木を飾り立て、木の頂には大きな金色の星を飾り付けました。幼い私はただ目を見張って見ていたのでした。

 少し成長すると、日曜日には教会学校に通い、家でも讃美歌を歌い、冬にはクリスマスツリーを飾るなどは、東北の地方都市では珍しいことではなかったかと思います。

 戦時下だったから華美や贅沢は国賊もので、ホイヴェルス神父様の幼年期のようにクリスマスプレゼントはなかった。私のトゥンカ、トゥンカに代わるものは、母のピアノと讃美歌でした。母はしっかりと信仰の種を私に 蒔いてくれました。そして、後日それはカトリックの信仰に形を変えて実を結んだのでした。

 母は純粋な信仰を守り通し、隣人愛の実戦の代償として栄養失調と結核で若死にしました。無神論者の父は母のそのような生き方に同意しかねるところがあったようでした。しかし、父の家族愛は強く、当時すでに30代の半ばを過ぎていたが、兵役の赤紙を免れるために、指の1本や2本を切ってでも身体検査で落とされることを真剣に考えた、と後日ポロリと漏らしたことがありました。

 いま、ロシアでは徴兵を免れるために数十万の男たちが国外に逃れていますが、島国の日本では、逃げていくところがなかったのでした。終戦後、父は陸奥湾に進出したロシア艦隊との交渉を命じられ、ランチで横付けしたロシアの旗艦に縄梯子で登るとき、緊張と恐怖でガタガタ震えたといいました。そのあとすぐ新しい任務を帯びて、広島に進駐してきたオーストラリア軍を迎えました。また、全国各地を回られた天皇が広島を訪れられたときは、父は天皇の身辺警護を受け持ち、学者の天皇がお忍びで安芸の宮島で生物観察を希望されたときは、天皇のランチが岸を離れようとした瞬間に飛び乗ってき一人の新聞記者を無慈悲にも海に突き落としました。後で、商売道具のカメラがだめになって可哀そうなことをした、と私にこぼしました。そして、天皇のお召列車が岡山との県境を超えたとき、父は車中で公職追放の辞令を受け取ったのでした。そして、一家の転落の厳しい生活の中で母は死にました。

 戦争は人間の愚かさが生み出す悪です。ウクライナ戦争は仕掛けたロシアが生んだ最悪の見本みたいなものではないでしょうか。

 日本の平和憲法のおかげで、自分は一生戦争を見ないで済むだろうと思ったが、いま日本は憲法を空洞化して軍拡に舵を切りました。戦場で日本の若者の血が流れる日が近いような悪い予感がします。

 日本の誇る平和憲法は、明日の諸外国が模範とすべき、最も先進的な憲法であるのに・・・。

 

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お母様のお写真 (コスモス)
2023-07-25 23:37:54
 和服姿の27、8歳の頃のお母様のお写真がブログの下の方に出てきて、どなたかしらとクリックすると、この記事が出てきました。
 お母様でしたか。若きシスターのお姿のお姉様に似ておられると思いました。神戸女学院をご卒業だったのですね。お姉様が中学受験で女学院に合格されたことを、お母様は病床でお知りになられたのでしょうか。或いは、既に他界されていたのでしょうか。女学院は阪神間では私の時代でも別格でした。阪神間の模試で二桁の順位をとらないと、入学してからが大変だと私の時代は言われていました。
 私の父が、昭和9年、3歳の時に実母を妹のお産で失い、継母が5歳の時に来ました。そしてその人に男の子が生まれました。こういう話は、1つの家の中で経験した人しかわかりませんが、家の中に他人がいるような感じ、いい意味では、とても家中がきちんとしていて、親子でも敬語で話すのが当たり前で・・・、私の父は、下着姿で家の中を歩くことはなく、自分の洗濯物は、自分でしていました・・・。私の実家は、いつも整えられたお茶室のようでした。
 私の本当の祖母(父の実母)も31歳で他界しています。
 それも摂理だったのでしょうが、若い31歳のお母様が子供達を残して亡くなられるというのは、本当に胸がいたみます。
コスモスさんへ (谷口 幸紀)
2023-07-27 22:03:11
コメント有難うございました。お返事が遅くなってごめんなさい。
姉が神戸女学院に入学したのは、多分1950年の春だったと思います。
母、喜久代は1948年10月33日に肺結核で亡くなっていますから、姉の神戸女学院入学の晴れ姿を見ることがありませんでした。
妹の素子が中学に入るころには、父はすでに再婚し、その母から弟が生まれていたので、家族の関心はそちらに向いていたので、新しい配偶者に対する配慮からも、妹を先妻のゆかりの学校に入れることなど問題外で、地域の市立中学に入れられることになりました。
兄の私も私立カトリックミッションスクールの六甲学院だったので、自分も当然姉と同じ神戸女学院に行かせてもらえるものと思っていた妹は、言葉や態度にこそ出さなかったものの、内心は大いに傷つき失望したであろうこと想像に難くありませんでした。
そのような挫折感は、後日妹が統合失調症と判断されるような行動に走ったことの一因ではなかったかと思うと、とても不憫でなりませんでした。
その後私は、家族全員を向こうに回して闘いながら、妹の退院、社会復帰のために半生を賭けて、ようやく妹の寛解を見届けて、国際金融業から足を洗い、司祭職への道に進んだのは50歳の時でした。
妹の社会復帰のニュースを聞き知った姉は、すでにカトリックの修道女として宣教地、アフリカの最貧国ブルキナファソから妹の面倒を見るために帰国したが、入れ違いに私がローマに神学の勉強をしに行っている間に、再び妹を精神病院に入れてしまいました。
すでに仕事もお金も捨てていた私は、夏休みごとに帰国し、妹を病院に見舞い、「あと〇〇年したら一人前の司祭になって帰ってくるから、また退院して自由な生活が出来るようにしようね」、と慰め励ます以外にできることはありませんでした。
しかし、妹はその○○年が待てなかった。私の司祭叙階のわずか1カ月前に、病院で自死してしまったのです。
私は、抜け殻のような虚ろな心で自分の司祭叙階式を迎えました。心の中で、「神様、もしあなたがこのカードを前もって私に見せていたら、私は司祭になどならなかっただろう」と恨み言を言っていました。
今の私の司祭職のスタートには、このような出来事が秘められていたのです。

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