:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 愛着

2022-10-24 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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愛 着

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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愛 着

 ある日曜の晩でした。ひとりの婦人の信者が私を尋ねてきて次のように申しました。「わたくし山に戻りますまえに、ぜひ一度おたずねしたかったのです。今までずっと長いこと山奥に暮しておりました。一週間前にようやく雪がとけました。そこで私は東京に出て参ったのですが、何と申しますかこの二、三日で私のこころはすっかり浅くなったような気がするのです。どうして私がこんなに人里が恋しくなったのか、人々に愛着を感じるのか、そのわけを説明していただきたいのです」

「愛着ですって! それでどんな困ったことがあるのですか」

「山奥ではいわば神とだけの暮しでございます。ときどきは孤独な生活が堪えられないようにも感じますが、でも神ととてもなれてきて、それが楽しみでした。この春には死ぬかと思うほどの大病をして、そのときは神とたった二人きりだということをしみじみ感じました。ところが幸い生命は助かりましてまたすっかり元気になりました。で、私はまあ一度東京へ出て行ってこの孤独を少しふるい落してこようと考えたのです。しかしそのために私の心はすっかりかき乱されてしまいました。お友達にあってから私はどうしてもそのお友達のことばかり考えるようになりました。そして私の心は落ちつかず空虚になってしまいました。一体私たちは人間に愛着を感じてはいけないのでしょうか」

「本当に立派な友情であればこそ、その友達同士が、結局は完全に心の中の中心まで達しえないことを感ずるものです。互いの心の奥には何かまだ神聖な場所が隠されているのでなければなりません」

「最近ある小説を読みましたが、その中で著者は私たち信者を非難してこんなことを言うのです。信者は人間を正しく愛してはいない、とどのつまりは神だけを愛し、人間を真直にではなく廻り道をして愛し、中途半ぱな愛し方をしている、というのです。この小説の主人公である、ある良人は、妻の死後、神への愛について妻がひそかに書いた本をみつけ、自分は妻から本当には愛されていなかったのだと考えるようなことが書かれてあるのです」

「それについて区別していわなければなりますまい。一つは、信者・未信者の結婚の場合には、双方が無信仰である場合、または両方とも信者である場合よりもいっそう心の一致がむずかしいと思います。信仰をもっている片方はある種のさびしさを感じるでしょうし、信仰のない方はそれに気がついて自分は十分に愛されていないと思うでしょう。中には神に対して嫉妬心を起すものすらいるのです。もし両方が神への信仰も愛ももっていないなら、うまくいっている夫婦の場合には、良人は妻を百%自分の所有物にし、旧式な教育をうけた妻は良人をそれこそ肉体と精神とこころを具えた神としてまでみとめるものもあります。

 両方が神の愛子であるなら、未信者同士の夫婦の場合よりずっと幸福であることは疑いありません。しかしその場合互いに深く尊敬しあって、二人の間の愛を崇高な神への愛に用うるように高めるのです。マックス・シェーラが聖アウグスチヌスの言葉を借りて『神において、神も自分も愛すること』と申したようにです」

「では心の傾きとか愛情とかいうものは、なかなかむずかしいことがらですね」

「どんな秩序もそうであるようにむずかしことです。少しばかり多すぎても少なすぎても秩序がさまたけられますから、神のために人間をあまりにも少なく愛する者は、愛の秩序に反したことをします。人間のために神をあまりにも少なく愛する者もやはり正しく行なったとはいえません」

「それなら私たちは正しく人を愛するにはどういう態度をとったらよいのでしょう」

「アシジの聖フランシスコや、チューリンゲンの聖エリザベトがその模範を示しています。フランシスコは神をいきいきとこの上なく愛したのですから、それでまた神のものである人びとをも廻り道せずに真直に愛しました。その結果人びとはフランシスコの愛を自然のままの愛と感じ、それが崇高な源をもっていることを少しも気がつきませんでした。聖エリザベトは心からキリストを愛しキリストの苦難を愛したので、苦しんでいる人々を自分の兄弟のように愛したのです。エリザベトの場合にも人々は愛の迂路を感じませんでした。

 ですから、私たちにとって心がけることはただ一つです。つまり神を心から愛するということです。そうすれば私たちはまた神の子である人々をも心から愛するようになるでしょう」

「では、その場合に私たちはすべての人を同様に十分に愛することができて、人々はそれが心の底からでた愛であり、はりつけた神のための愛でないとわかってくれるようになりますね」

「それはまことに、一切の力で求めるべきではないでしょうか、どこまで成功するかは神のお恵みによります。実生活から次の例がそれを十分にわからせてくれるでしょう。ある娘が子供の一人あるやもめと結婚しました。結婚式の当日に彼女はこの子供を自分の子のように愛しようと決心しました。それからずっとその通りにふるまって、自分でもうまく行くと考えていました。翌年彼女に自分の子が生れましたが、しかしこの子を先妻の子以上には決して愛さないと新たに誓ったのです。

 そうするうちにやがて自分の子が病気になりました。彼女はその子の病床に付きっきりで日夜看護にあたっていました。子供は全快しました。すると今度は先妻の子が病気になりました。自分の本当の子のときと同じように母親は病める子のそばを少しも離れません。ところがある夜、看護づかれのためか、うとうとしてそのまま眠りつづけてしまいました。眠りからさめたとき、彼女はびっくり仰天しました。この子に対しては自分の本当の子に対するほどの愛情がなかったのかといいしれぬ悲しみに沈みました。――神は社会の中に人間に対する愛がふつうに足りるように世の中をととのえられました。何となれば特別なきずな、血縁の強いきずなによって人間は人間に結ばれ、そうやって栄えるのだからです」

「ではフランシスコとエリザベトはどういうことを意味しているのですか」

「それは神がご自分の大きな、いきいきとした愛をその通りにまねするように、ある人々を召しだされるのです。その人たちはこの愛を静けさの中に、長い間のうちに、神のもとに学んだのです」

「でも、この数日の間に東京で私の心があんなにはげしく人々の心に愛着を感じて、そのために神や私の心をなくしてしまうのは、いったいどういうことなのでしょう」

「それについては、この東京での体験をもってあなたがまた山奥へ帰って神と一しょに考えたらよいのではないでしょうか。しかし、神の世界を避けて、静かな山だけを望むのはまちがっているのです。二つのことが必要なのです。神によって静けさの中へ神との心の交りを学ぶように召された者は、またさわがしい世の中へときどき入ってこなければなりません、けれども世の波に呑まれてはならないのです。世のざわめきの中にあっても神の静けさを失ってはなりません」

「ありがとうございました。あした私は山へ戻ります。そしてまた新たに神にすがりましょう。私がイエズス・キリストの兄弟でもある神の子供たちをもっといっそう確実に愛するようになるまで……」

 数日してから一枚の絵はがきが私のところにとどきました。「あの仕合せだった十分間のお話を私は一生忘れません」とお礼のことばが書いてありました。実はあのときの談話のよい後味は私にもまだのこっていたのです。

 敗戦から3年後、私の母は肺結核の療養の末、帰天した。その時私は9歳だった。その2年後父は再婚した。二人目の母は戦前の奈良女子高等師範学校(今の奈良女子大)出身の才媛だった。東大法学部出身、元内務省勅任官の妻としては釣り合いの取れた申し分のない再婚相手だった。彼女も上のホイヴェルス師の短編の中の女性と同じように私たち3兄妹を自分の子のように愛そう」と決心したに違いない。

 私も父から、この人がお前たちの新しいお母さんだよ、と紹介された時、「わたしは生涯このご婦人と事を構えない」と心に誓った。小学生としてはずいぶんませたことを考えたものだと今は思うが、2009年の大晦日に彼女が帰天するまで、私はその誓いを守り、一度も逆らったり声を荒げたことはなかった。父とは心を病んだ妹の処遇を巡って怒鳴り合って何度も激しく戦った仲だから、私に父譲りの短気な性格がなかったわけではない。母は賢明な女性で、家庭でも完璧な妻であり母でもあって全く付け入る隙が無かった。だから、わたしにはそもそも母と事を構える理由もなかった。私の唯一の叶わぬ願いと不満といえば、もしこのお母さんが家事を適当にして、テレビの前で足をおっぴろげて駄菓子をつまみながら笑ってくつろいでくれていたら、どんなに近くに感じたことだろうと言うことだった。

 父が再婚して2年目に12も年が離れて弟が生まれた。母は父の3人の連れ子と自分の実子とを完全に平等に扱った。戦後のまだ貧しかったころ、4人の子供たちのおやつは1グラムの差もないほど完全に平等だった。

 母が阪大病院で最後の日々を過ごしていた頃、私はたまたま四国の高松の教会で主任司祭をしていた。度々鳴門大橋を渡って、淡路島を北上し、世界一のつり橋の明石大橋も渡って車で見舞いに行った。亡くなった年の大晦日、弟一家が見舞いを終えて、「また来年ネ」と言って病院を後にしたのと入れ違いに私は着いた。いつになく打ち解けていろいろな出来事の追憶に話の花が咲いた。私の破天荒な生きざまに対しても心からの理解を示してくれた。その夜、母は帰らぬ人となったが、彼女と最後に言葉を交わしたのはたまたま私だった。

 私と真反対の性格の年の離れた弟も、つい先日、沖縄の海で突然帰天してしまった。姉も妹ももう居ない。兄弟の中で一番の悪だったわたしだけが、一人残った。まだ、この世に「愛着」している。

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7 コメント

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イエス様のおきて (新米信徒)
2022-11-03 18:36:21
谷口神父様 

以前に、神父様の別の記事に、わたしは以前は、「救霊」に逃げていました、と書きました。あるシスターのことばによって、そのことに気付かされました。Mt 22:39 に「自分のように」とありますが、自分を大切にしていなかったわたしが隣人を大切にできるはずがない、ということに、ようやく気がつきました。また、ホイヴェルス神父様のことばから次を思い出しました。「聖書と歎異抄 五木寛之 本田哲郎(神父様)、東京書籍 (平成二十九年)」のフランシスコと親鸞に、本田「たまたま一度、そこに出てくる教会(聖パウロの書簡にある)をずっと回ったことがあるのですが、やはりみんなかっての古い城壁の、ぎりぎりの外にありました。もとの古い城壁の中にある教会というのは、ほとんどないのですね。」五木「へえ。そうなんですか。」本田「いま五木さんがおっしゃったような発想ととてもよく似てるなと思いました。」五木「俗を忘れず、俗に迫らず、というか。」本田「そのとおりですね。」

そして、神父さまのことばから、次を思い出した。押田神父様が受洗して三年目に、師であるホイヴェルス神父様に報告に行ったときに、「あなたの召出しは確実です」「そんなことについてお話ししたわけではありません。あなたは私の人間への郷愁をよくご存じでしょう?」「よく知っています。・・・」

「そしてそれからは(修道院に入ることになって洗礼証明書をもらいに伺ってからは)、ほとんど彼と会わぬようになります。しかし私の生き身には、彼を通して働く何者かの御手の動きざまが鮮明に刻まれています。それを詳しく述べれば一冊の本になるでしょう。」(老いゆく道の美しさ、「あけぼの」1988 年 9 月号、女子パウロ会、pp. 25-27)

お母さまがおられた阪大病院は吹田に移転後の病院でしょうか。病院の前に万博公園があり、大学の構内も比較的ゆったりとしているように感じます。今も病院で病とたたかっている人が多くいるはずで、阪大病院にチャプレンのような方はおられるのだろうかと思います。

芥川龍之介氏の「杜子春」も思い出します。氏の作品では一番好きな作品です。
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信仰のありかた (新米信徒)
2022-11-15 22:16:17
谷口神父様 

たまたま、YouTube で、田村正和さんが演じる「眠狂四郎」を観ました。中学生のときに原作を随分読みました。そして、今、「転びバテレン」のことをおもいました。以前、神父様の遠藤周作氏の一連の記事を読みましたが、あのときは、遠藤氏の信仰のありかたしか考えませんでした。そして、押田神父様のことばを思い出しました。上にわたしが引用した文にあることばで、押田神父様がホイヴェルス神父様から洗礼を受けて入隊する前のことです。

(ホイヴェルス神父様)「一つだけ覚えておいてください。これはドイツのことわざです。ばかな問いにはばかな答えを」。(押田神父様)「それは入隊試験のとき、すぐに役立ちました。『おまえの宗教は何だ?』『はい、家の宗教は仏教です』。」

今、わたしにとって、異端審問、キリスト教の信者が受ける苦難、救霊、この地での生を全うすること、神の恵み、がつながっているように感じます。また、どこかに流されているようにも感じます。このようなときには気をつけなければいけませんが。
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愛、・・・ (新米信徒)
2023-07-12 10:29:45
谷口神父様 

先週の月曜日の夕刻に家族の者が救急搬送されました。仕事の後に直ぐにタクシーに乗って病院に向かいました。幸い、回復したようですが、今日検査を受けます。そのときのことを思い出すと、祈りのようなことを唱えていましたが、相手をおもう、かなしい気持ちになる、心が動く、ことを感じていたように思います。最後は、苦しまないように、という願いになりました。03/11/2022 に、わたし(新米信徒)が上のコメントで引用した、五木寛之さんと本田哲郎神父様の対談をまとめた本の中に、「愛の名のもとに」があります。この「愛」は口語の愛だと思います。というのは、本田神父様は、五木さんからの「御大切(おたいせつ)」をうけて、「はい。ギリシャ語の『アガペー』という、それがまさに「おたいせつ」だったんです。私は、聖書から『愛』という訳語を全部消したいくらいです。」、と仰っているからです。また、15/11/2022 に、わたし(新米信徒)が上のコメントに書いた、押田神父様のことばは、「押田成人著作選集 1 深みとのめぐりあい 高森草案の誕生 日本キリスト教団出版局 (2020)」にある「老いゆく道のうつくしさ」から引用したものです。この選集では、その次にある「生きている神秘伝承」の中に、ホイヴェルス神父様のことばとして、「・・・。あるいは、『愛することは、おもうことだ」とか。いつもそんなことしか言わなくて、説明的なことはかれらからは一切聞いたことがありません。・・・」、とありません。タクシーの中で口語の「愛」のようなものはほとんど心になかったように思います。古語辞典で調べると、「かな・し(愛し、悲し、哀し)形シク」、「あもひあ・ふ(思ひ合ふ)他ハ四、自ハ四」、「おもふ(思ふ)」、「あはれ・む(憐れむ)」、「うつくし・む(慈しむ・愛しむ)」et cetera. 「角川全訳古語辞典 久保田 淳・室伏信助=編 (平成十四年)」によると、「うつくしむ」、には、「たいせつにする」という感覚があるそうです。「かなし」は、「事物に対する深く切実な気持ちを表すのが原義。」だそうです。ある漢和大辞典を調べると、「かなし」の原義は、「愛」の原義に近いように感じました。

キコ氏のこのようなことばに注意して、キコ氏の本を読んでみようと思います。いずれにしても、わたしは、こと(事・言)に出会わない限り、どうしようもないように思います。また、個人的なことをすみません。
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訂正いたします (新米信徒)
2023-07-13 22:51:10
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が上のコメントに書いたことで、書き間違いがありましたので、下記のように訂正いたします。すみませんでした。

押田神父様のホイヴェルス神父様から受けた教えのことに関することばの引用で、「『説明的なことはかれらからは一切聞いたことがありません。・・・』、とありません。」、の「かれら」は、「かれ」の間違いで、最後の「、とありません」は、「とあります」の書き間違いです。

補足ですが、押田神父様は、上のコメントに引用した「生きている神秘伝承」において、「・・・。ところが、ホイヴェルス神父さんって人は、思想によって語るのではなく、存在によって何かを語った人なんですね。それで、かれとの出会いが決定的な出会いとなったんだとおもいます。・・・」と書いておられます。今、知りましたが、押田神父様の代父は、吉満義彦先生だそうです。比較的最近、岩下壮一神父様の本を少し読んできましたので、不思議な気がします。上のコメントに病者のことを書きましたが、検査の結果は正常値でした。「人間の分際 神父ー 岩下壮一 小坂井 登 聖母の騎士社 (1996)」を昨日読んで知りましたが、この著者によると、ヴァイオレット・ススマンというベッドに身を横たえたままの女性の病者(カトリック信徒)との出会いが岩下師の司祭への召命に決定的に作用したとあります。cf. pp. 296-298. 岩下神父様が書かれたことから神学以外のこともいつも感じて不思議に思っていましたが、病気の人との関りが、岩下神父様を神学や哲学の研究以外のことにも向かわせたように感じます。ホイヴェルス神父様の詩「司祭ー 岩下壮一師の思い出に」を以前、「ホイヴェルス随想集 人生の秋に ヘルマン・ホイヴェルス 春秋社 (1996) 」で読みましたが、少し伝わってきました。よくわかりませんが、深いところでつながっているように感じます。

「おたいせつ」に関わることですが、福音書のラテン語訳を見ると、例えば、Io 21:15-16 において、動詞の愛するは、"dīligō" と "amō" と異なることばで訳されています。上記のいくつかの英語訳を見ましたが、lovest, love の訳以外では

Knox Bible John 21:15

"And when they had eaten, Jesus said to Simon Peter, Simon, son of John, dost thou care for me more than these others? Yes, Lord, he told him, thou knowest well that I love thee. And he said to him, Feed my lambs."

"care for" は、自分を中心とした意識から愛する、ということではなく、自分の意識を越えたところで大切にする、というように感じます。無知など素人の感想です。
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山上の説教 (新米信徒)
2023-07-15 23:02:44
神父様 

Mt 5:13-16 に対するあるカトリック教会の司祭の方の話を一年程前に聴いたときは、そのまま聴いていました。比較的最近、このごく一部だけのある解釈(あそらくある神学に基づく)から何らかの判断をして大丈夫だろうか、と感じ始めました。そこで、Mt 5, 6, 7 全体を読みました。偶然ですが、その少し前に、「信仰の遺産 岩下壮一(神父様)岩波書店 (2015)」の「イエズスと律法」を読んでいました。また、「キコ・アルグエヨ 著 ケリグマ IL KERIGMA 福音の告知 バラックの貧しい人々の間で フリープレス刊」のキコ氏の証言「バラックでーキコ・アルグエヨの証言」を以前読んだときに心に残った、ある一族のボスの「キンキ」と別の一族のリーダーとの決闘(同害刑法:目には目を、による)の不思議な解決の仕方をもう一度読み直しました。そして、このことの前にあること:「そんなわけで、小教区教会で私たちが行う「カテケージス(信仰入門講話)の一つは次のような質問で始まる。『あなたは神を信じますか?どうして神を信じますか?あなたの歴史の中に神が介入してきた出来事がありましたか。それとも、誰かから聞いて信じているのですか?あなたの歴史の中の具体的な出来事について話してください』」が以前とは異なることばに変わりました。わたしの場合は、病気(死も含めて)と多くの信仰者を介して神様とかかわりができたように、今にして思います。これも偶然ですが、イエス様と律法のことが気になって、Nova Vulgata の Mt 5:37

"Sit autem sermo vester: “Est, est”, “Non, non”; quod autem
his abundantius est, a Malo est."

を、"sum" が繰り返しあることに驚きながら、古語におきかえていました。でたらめなおきかえですが、然(さ)れど汝(な)が言(こと)斯(か)くあるべきなり:「然(さ)有(あ)れば、然(さ)有(あ)れ」、「あらざれば、あらざれ」;却(かへ)りて、此等(これら)以上(いじゃう)にてあること悪しきものから及ぶ。

嘘をつくことそして悪魔の現存を強く感じます。これほど多くの sum があることから存在に関わるということも強く感じます。

キコ氏は、上の「キンキ」に武器を持たずに決闘に行かせて、(わたしにはそれがどれほどの信じられないことであることかわかりませんが)決闘は行われず、お金で解決がはかられたそうです。イエス様の山上の説教は、全体で読まなければいけないように感じました。「主の祈り」がここにあることも自然に感じます。素人の素朴な感想ですので、お許しください。
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「神の子」 (新米信徒)
2023-07-21 10:31:47
谷口神父様

わたし(新米信徒)が上のコメントで言及した Mt 5:37 につながっていると思われること(事・言)として、ペトロの否認(以下のラテン語訳は、Nova Vulgata からの引用です)

Mt 26:72

"Et iterum negavit cum iuramento: “ Non novi hominem! ”. "

に、"cum iuramento (誓って)" があることにようやく気がつきました。遠藤周作氏の創作物にもまた帰ってきました。

そして、"sum" に関係して、

Lc 22:70

"Dixerunt autem omnes: “ Tu ergo es Filius Dei? ”. Qui ait ad illos: “ Vos dicitis quia ego sum ”. "

を思い出しました。Qui ait 以下をでたらめですが、古語におきかえてみました。然(さ)て其が人、彼らに宣(のたま)ひしか、「我なり、と汝ら述(の)ばへたり」。

Vulgate の訳は Nova Vulgata の訳と異なる箇所があります。

相手からすると、本当に憎らしい言(完璧な言)がいつもイエス様から返ってくるように感じます。

最後に、「信仰の遺産 岩下壮一(神父様)著 岩波書店 (2015)」の「キリストを見直す」の最後のことばを引用します。

「近代人は岐路に迷い長き彷徨をつづけた後に、今や再び最初の出発点に戻ってきた。キリストを見直して、その現実を把握すべきよき時が再び恵まれたのである。現代の不安と焦燥の裡から、『汝は活ける神の子キリストなり』とのペトロの宣言が、真理を求むる人々の口から叫ばれる日の到来を祈ること切である。新しき生命はそこから湧き出るであろう。」(昭和十三年三月「カトリック」第十八巻第三号)

この「今や」は、このときでもあるように感じます。
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Lc 22:70 の補足 (新米信徒)
2023-07-22 23:44:58
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が上のコメントに書いた Lc 22:70 について補足します。言葉が不足していて済みませんでした。

Nova Vulgata の訳 "Qui ait ad illos:" は、Vulgate の訳では "Qui ait: " です。

KJV 1611

Lk 22:70
"Then said they all, Art thou then the Sonne of God? And hee said vnto them, Ye say that I am."

ラゲ訳 (1910)

路加(ルカ)の耶蘇(イエズス)基督(キリスト)聖福音書

22:70
「イエズス、汝等の云(い)へるが如し、我は其なり、と曰(のたま)ひしかば、」

舊新約聖書 文語訳 日本聖書協会 (1887, 1917, 1982) の 1982 年版からの引用。

ルカ傳(でん)福音書

22:70
「皆(みな)いふ『されば汝は神の子なるか』答へ給ふ『なんぢらの言(い)ふごとく我はそれなり』

Die Bibel Luthertext
Deutsche Bibelgesellschaft (1984)

Lukas 22:70
"Da sprachen sie alle: Bist du denn Gottes Sohn? Er sprach zu ihnen: Ihr sagt es, ich bin es."

7 月 15 日に上のコメントに書いた、「信仰の遺産 岩下壮一著 岩波文庫 (2015)」の「イエズスと律法」に、大学での師であるケーベル先生の「"wisenschaftliche Ehrlichkeit" (注解の訳:学問的誠実)という凛呼たる一語」を重く受け止め、信仰と知識との背反に悩み、「実のところこの煩悶の結果、私は自らも他人も予期せぬ方向に走らざるを得なくなった。とにかく私としてはそれでも渾身の力を振って、自信のできる迄たたき上げた積りで日本へ帰った時には、先生は最早雑司ヶ谷の墓地に安らかに眠って居られた。」、とあります。「イエズスと律法」は「昭和五年七月、東京帝国大学カトリック研究会篇第一輯(しゅう)『カトリック研究』岩波書店刊」にあるそうです。岩下神父様のことばに触れると、他の人のことばと何か違うことを感じますが、上のことばに触れて、感じるものがありあります。ホイヴェルス神父様の「司祭ー岩下壮一師の思い出に」が、岩下神父様の帰天される姿とかさなって、思い返されます。ホイヴェルス神父様 (1890 年生まれ)は、岩下神父様 (1889 年生まれ)より年が一つ下であることを今知りました。
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