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猿島肝炎は人体実験

2015年01月27日 10時43分11秒 | 猿島肝炎
井戸水の汚染が原因と言われた「猿島の奇病」と呼ばれ住民から恐れられた猿島肝炎は、町の統計では1963(昭和38)年から1967(昭和42)年までの5年間にわたって776名の肝炎患者と61名の死者を出して終焉しました(表1)。
日本最大の肝炎の大流行でした。
ところが日本医大衛生学公衆衛生学の乗木秀夫、柚木斉は当初からこの猿島肝炎に関わっているが、彼らの統計ではグラフでしか総数を出していないため正確な患者数が解らない。
グラフで計算すると742名くらいの発症者数になる。
その後同教室の若山葉子による論文では、発症数は678名であると発表しているが、同じ教室内でも違うデータを出している。
流行時には伝染病に準じた届け出制を行っているの(猿島の奇病による新聞報道、p1078、境町の生活史、2004)で、町の統計が正しいといわざるを得ない。
猿島肝炎について乗木秀夫は1964(昭和38)年6月の「新しい医院」(猿島の奇病とその対策、6:92-96、新しい医院1964)の中で「1963(昭和38)年暮、農村保健のフィールドを求めに猿島地区に出向した。(中略)ところがこの時、現地の農協幹部の人たちから要望されたことはそのような手ぬるいものでなかった。この地に過去2年来多発している肝疾患で、しかも町の世帯で重要な人物がバタバタ倒れていき、一部には遺伝病とまで噂されているとの疾患である。」このため乗木秀夫は旧猿島庁舎に肝疾患対策本部を設置し、調査に乗り出した(写真1)。
「私どもはその発生が町内でも、逆井、山、生子地区にあることから特殊な食品あるいは飲料水を疑ったが精査しなかった。」彼が猿島で行ったことは「ウイルス学者のために、千件を超える血清がそれは患者そして健康者を含んで、私どもの冷凍庫に保存されている。貴重な肝も、同様に保管されている。」としている。
乗木は「流行性肝炎(糞口性感染)の常識は、感染による発症率は20%で死亡者は0.1~0.3%といわれている。岡山県の一地区に電撃性肝炎は10%で、外国においても30%を超した報告も見られないこともない。」「今後の対策として私どもは、肝障害者をみつけだす必要にせまられた。健康者を含めてごとに全員採血を行い、血清中のトランスアミナーゼを中心とする精力的な検査に入った。その成績はただちに報告され異常者については、訪医をすすめた。一方、異常者の成績は現地開業医の要請によって、一覧表を、そのつど作成報告し、治療および診断の補助にしていただいた。とくに自宅治療者、通院患者は少なくとも2週に一度は採血をおこなった。」と記載している。
猿島町史によると“乗木秀夫の言うこととは違い”町当局は昭和38年末、古河保健所に調査を依頼した。原因がつかめず、「流行性肝炎の疑い」として、県に報告、県は厚生省にこの通り報告したところから「奇病」言う名で全国に報道された。  
最初に当町に入ったのは昭和38年12月日本医大の乗木秀夫で、1964(昭和39)年1月からは柚木斉(ゆのき ひとし)が1989(平成元)年3月大学定年退職するまで25年にわたり、毎年研究室を動員して当町にはいり、新しい患者の発見とその管理、既往者の健康管理と防疫に努めた(大騒ぎした流行性肝炎、p1028‐1028、猿島町史(通史編)、1998)。
ところが乗木秀夫による1963年の「猿島の奇病」の劇症肝炎による死亡者(27/161)は18.8%なのである。
しかし町の統計では何と死亡者は27/102、26.5%である。
日本医大の統計が如何に町の統計と違うかを年度別(図2)に見たものと月別(図3)に同じ教室の乗木秀夫・柚木斉と若山葉子を提示する。
また乗木秀夫は(伝染性肝炎―基礎的立場から53;8-15、日本医師会雑誌、1965)「さて私どもの教室は、1963(昭和38)年1月より茨城県猿島地域に多発した伝染性肝炎に関係し、現在もなお活動を続けている。この間臨床、病理を中心にして、各方面の協力を得ることができた。多くの協力者の取捨選択することなく、幸いによき教室員に恵まれてこの事件に取り組んできている。」
 更に1982(昭和37年)10月には北海道根室保健所から教室員の稲垣光男を猿島協同病院(現茨城西南医療センター)に移動させている。
乗木秀夫は「乗木秀夫教授開講10周年記念研究業績、1970」の中で「本教室にポリオウイルスの分野を導入した。同じ糞口伝染病に域にあるが本教室には土着せず、(中略)突然訪れたのが、猿島肝炎である。この問題対して、正面から取りくんだのは若い教室員であった。そして現在、より深く、より詳しくその内容を掘り下げつつある。ポリオについて成功しなかった糞口ウイルス性伝染病が、ようやく土着した。」
猿島肝炎は乗木秀夫がおこした人体実験であると考えても過言ではない。
「朝日新聞」1964(昭和39)年1月29日の記事によると、厚生省は「流行性肝炎に関する特別部会」を1月30日に設置することに決めた。
流行性肝炎に関する特別部会の委員は柳沢謙(国立予防研究所副所長、昭和6年東大卒)、北岡正見(同ウイルスリッケチア部長)、甲野礼作(同中央検査部長)、多ヶ谷勇(同腸内ウイルス部長)、松田心一(同疫学部長、金沢医大、昭和5年卆)、北本治(伝染病研究所付属病院長、昭和10年東大卒)、佐野一郎(国立東京第一病院内科部長、東大13年卒)乗木秀夫、(日本医大教授、昭和20日本医大卒)であった。朝日新聞によると国立予防研究所会議室で2月3日に第1回会議が午後2時から予定されているとう記事が掲載された。
佐野一郎、北本治は猿島まで患者を診に出かており、乗木秀夫とは懇意にいているのが、
「猿島の奇病と対策、6:92-96、新しい医院、1964」で解る。彼らは、肝炎患者を診るために猿島までで出向いており、北本治は顔写真まで出ている(写真2)。
乗木らの目的は、北本治が雑誌、肝臓で発表した「供血者間の採血器具を通しての感染も皆無ではない。」(輸血後肝炎に関する研究、4:23‐28、肝臓、1963」つまり採血という行為で肝炎ウイルスは感染するという仮説を「流行性肝炎に関する特別部会」が企画し、乗木秀夫が実践したとすれば矛盾はない。
注目しなければならないのは、委員長の柳澤謙で、彼は人体実験ではなく、生体実験でBCGの開発を行った中心人物である。
ある図書館によると「流行性肝炎に関する特別部会」の報告書は現在医科学研究所(旧伝染病研究所)にある可能性があるという。







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