自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

心のかたちについて-中間世➂

2020年07月31日 16時11分59秒 | 心のかたち
 ホイットン博士は自身の誘導ミスからポーラの語った中間世の言葉を切っ掛けとして調べはじめ、チベット仏教の「チベット死者の書」の中から、これにふさわしい記録を見つけました。この「チベット死者の書」とは、チベット人により人の生と死に関して洞察されたもので、欧米ではターミナルケア(終末期医療)でも採用されている文献ですが、そこには次の言葉が述べられていました。

 「汝は血と肉の身体をもたない。それゆえ生じくるいかなる音、色、光線も汝を痛めつける事はできず、汝は死ぬことができない。・・これがバルドの状態であると知れ」

 またそれ以外にもインドのカタ・ウパニシャッドにも同様の記述を見つけました。

 「肉体は滅びても、自己は滅びる事はない。霊であり自己であるところのアートマンは生きとし生けるもの全ての胸の奥深くに隠れており、極微の原子よりもちいさく、極大の宇宙よりも大きい」

 これらの記述は中間世を証明する言葉ではありませんが、生と生の間の概念について表現をしているもので、実はこういった事について人類では昔から語られていた事を立証しているものだと考え始めたのです。



 翌1975年にレイモンド・ムーディー博士の研究からなる「かいまみた死後の世界」が出版された時、その内容をみてホイットン博士は、この死後の世界に対して更に関心を深め、そこから自身の研究内容について見直しを行い、ポーラの語った内容についても再検討が必要だと考え始めたのです。

 「ひとつの転生と次の転生の間には一体なにが起こるのだろうか」

◆生と生のはざまで
 ホイットン博士はその後、三十人の被験者に付き添い、自身の催眠誘導によって数年間に渡り、この生と生のはざまの世界に連れて行きました。中間世にひとたび足を踏み入れると、被験者の前には様々なビジョンが現れるようで、被験者たちはそれらをまとめながら自分の体験している事を言語化し、伝えなければならないのですが、そこには大変な労力を必要したと云います。
 人が言葉で伝達する場合には、ビジョンを「シンボル化」して伝えなければならないのですが、このシンボル化が容易くできる人と、そうでない人では、伝達する内容にも差が生じてしまう事もあったようです。

 中間世への旅は、多くの場合に被験者の過去世の死の場面から始まります。ホイットン博士はまず被験者を前世の状態に催眠誘導し、そしてその人生の最期の場面へと誘導します。その段階で被験者に対して質問をすると、そこにはレイモンド・ムーディー博士等が集めた臨死体験そのままの情景を語りだしたと言います。この時の被験者は死の経験から苦悶の表情を浮かべたり、恐怖や恐れの表情を浮かべ、その後に無表情になると言います。そして安らいだ表情になったのち、その後、驚きの表情に変わったと言います。
 恐らくこの段階で被験者の眼前には、それまで経験した事のない情景が広がっている様で、その光景にすっかり夢中になっていたと言います。ホイットン博士はこの状態に被験者を慣らすために、少し時間を置いて語り掛ける事にしていました。またこの状態の被験者には、それぞれの人生の人格を生み出している「永遠の自己」に対して語り掛ける事になると言います。

 被験者の中で、エレクトロニクスの技術者であった人は、この時の状況について次の様に語りました。

 「過去世を体験しているとき、自分があきらかに感情的な反応を生じる一つの人格だというのは解るのですが、中間世では目に見える体というのはありせません。私はイメージに取り巻かれた観察者なのです。」

 中間世の体験というのは、この肉体が無い存在だという事から始まるようです。そしてその時、被験者は戸惑いを感じると言います。中間世の体験というのは、時間の経過や三次元的な感覚がすっかり欠落してしまう様で、簡単に言えば理論も秩序も時の経過も関係なく、全てが同時に起きるというのです。この様な混沌の中から、どの様に証言を引き出したら良いのか。ホイットン博士は幾つかの経験から、このコラージュの様な中間世に現れる沢山の断片を持った出来事から、一つ一つの出来事を被験者に語ってもらう様にしたと云います。

◆語られた中間世
 この中間世について、ホイットン博士の研究によれば、幾つかの段階があるようてす。

 ①この世を去る
 臨死体験でよく「トンネル体験」として語られていますが、ホイットン博士の被験者たちは、下の方に横たわった自分の体を「見て」から、円筒形の長い通路を引っ張り上げられたと言います。この時に「案内人(ガイド)」に会って連れて行かれる人もいたそうですが、大抵は一人で進むようです。ケースに依っては、ここで先に亡くなった身内や親族にめぐり逢う人も居るそうです。

 ②光との出会い
 その後、目も眩まんばかりの光や、圧倒的な明るさと出会うのも中間世に入った時の特徴だと言います。そしてこの宇宙意識ともいうべき、広大な体験をすると言います。ホイットン博士によれば、その始まりはいつも完全な驚きとして感知され、視野を遮っていた目隠しが突然取り外され、宇宙が展開される有様と、その宇宙のどの位置に自分が位置するのか、また人間が転生するのは何故か、永遠の生命とは何かなど、様々な謎もこの段階では簡単に解けていくというのです。

 ③裁判官たち
 日本の仏教では「閻魔大王」とか「十王」とも言われ、古代エジプトでは「精霊の裁判官」といい、ギリシャ神話では「無慈悲な裁判官」と言われていますが、先の光との出会いのあと、ホイットン博士の被験者達も同様な事を語りました。人によりその「裁判官」の姿は様々な表現をしていたと言います。ある人は三人の老賢人であったといい、またある人は四人の老賢人であったといい、ある人は宗教上の「大師(マスター)」であったとも言います。これらは各人のもつシンポルにも影響された表現かもしれませんが、ある被験者は次の様に語りました。

 「案内者は私の腕をとって、長方形のテーブルを前に裁判官が着席している部屋へと連れて行きました。裁判官たちはゆったりとした白い衣装を着ており、みな歳をとっていて賢そうでした。この人達と一緒にいると、我が身の未熟さを痛感しました。」

 そしてこの場で、その人が今しがた終えてきたばかりの人生を評価するというのです。それは言語ではなく直感的なやりとりの中で行われますが、けして「裁判官」が裁くのではなく、自ら顧みる事で行われたと言います。

 ホイットン博士は言います。生と生のはざまに各人にとっての地獄があるとすれば、それは自分自身を顧みるこの瞬間であると。前世での失敗に対する後悔や罪悪感、自責の念が心から吐露され、そのために見るも無残なほど苦悶し、悲痛の涙にくれると言います。この世に生きていれば、こういった感情はごまかす事は出来ますが、どうやら中間世ではこういった感情は生々しく再現され、妥協は許されないそうです。他者に与えた痛みは自分への痛みの様に感じ、それを悔い改めようとも既に人生が閉じられてしまった事が一番の悔恨にもつながるというのです。

 この時、ある被験者はこの苦しみから、自身の身体に障害がある様に感じ、またある被験者は、その罪深さを昔ながらの十字架を背負ったキリストのイメージで語ったと言うのです。

(続く)

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心のかたちについてー中間世②

2020年07月31日 11時39分23秒 | 心のかたち
 さて、J.L.ホイットン博士が見てきた世界について紹介して行きます。
 前の記事で紹介しました「輪廻転生ー驚くべき現代の神話」によると、精神科医でもあったホイットン博士は、退行催眠による前世療法に取り組む中、多くの患者が治療による効果が表れる事を目の当たりにすると共に、患者が語る物語の中の登場人物を体系化する研究を進めていたと言います。



 するとそこには、被験者が生死を繰り返す中、それぞれのカルマにより関係性は異なっていますが、いつも同じ魂と関係性を維持しながら関わり合っている事を発見したと言います。そしてそれぞれの生の時代で関わり合った事で遭遇する様々な事件などは、一見、脈絡が無い様に見えて、実は意味や目的があって、現在の生に繋がっている事が解ったというのです。

 今回参考にしている「輪廻転生」では、そのホイットン博士の研究内容について具体的な内容が幾つか明かされていますが、このホイットン博士が研究の先に行きついた事が、極めて東洋思想に近い事は、興味深いと思います。

◆中間世との出会い
 ホイットン博士は1973年秋に、自身の退行催眠の研究に確信を次第に深めつつある中で、トロント心霊研究協会の医学委員会に長期にわたる一つの実験を引き受けようと申し出ていました。博士はこの実験で、退行催眠が輪廻転生の研究に有用なのか確かめようとしていました。

 この実験の被験者を公募したところ、当時、前世への関心も高まっていた事から、50人の応募があり、その中からポーラ・コンシディンという女性を選びました。彼女はトロント市内の会社で仕事をするごく一般的な主婦で、選定の理由は安定した気質を持ち、催眠に誘導しやすいという事からでした。
 1973年の10月頃から、毎週火曜日の夕方になると、仕事をおえたポーラはトロント心霊協会本部に通い始めました。そしてそこの「黄色の間」でホイットン博士の催眠誘導により、彼女自身の転生の歴史を物語っていきました。約1年間かけて彼女が語った転生の歴史は次の様なものでした。

 〇マーサ・ペイン(女性)
  1822年アメリカのメリーランド州の農場に生まれ、子供の時に農家の階段から転落死する。
 〇マーガレット・キャンベル(女性)
  カナダのケベック州近郊に住む主婦。1707年には17歳で、後に毛皮を扱う猟師と結婚。
 〇オーガスタ・セシリア(女性)
  1241年当時34歳の尼僧。一生のほとんどをスペイン国境近くのポルトガル孤児院で過ごす
 〇テルマ(女性)
  チンギスハン時代のモンゴル族長の娘。(彼女はチンギスハンを「テムジン」と呼んでいた)。16歳の時に戦で殺害された。

 ポーラを退行催眠により過去世へと戻す中、ある時にマーサ・ペインの事を聞いていました、この時、ホイットン博士はマーガレット・キャンベルの事について確認したい事があったので、催眠誘導を行いました。

 「あなたがマーサになる前に戻ってください」

 この誘導によりマーガレット・キャンベルの口調に変わる事を期待していたのですが、ポーラは博士の前で、瞼をピクピクさせながら、抑揚のない口調でポーラは語りだしたのです。

 「私は・・・空の上にいます。農場の家や納屋が見え・・朝早く、太陽が昇り始めたばかり・・・刈り取りが済んだ畑は真っ赤に・・・真っ赤に染まっています。長い影が出来ています」

 ホイットン博士は耳を疑いました。マーガレットが「空の上」に居る訳がない、自分の誘導が間違えたのだと。しかしどんな間違いをしたのか、この時には見当も付きません。途方に暮れながら博士は質問を続けました。

 「あなたは空の上で何をしているのですか?」
 「私は・・・生まれるのを・・・待っています。母のする事を・・・見ています」
 「お母さんはどこにいるのですか?」
 「母は・・ポンプのところにいます。バケツに水を入れています・・・とても大変そう」
 「私の体の重みで・・・お腹に気を付けてと母に言ってあげたい。母体の為にも・・私の為にも。」
 「あなたの名前は?」
 「名前は・・・ありません。」

 この段階でホイットン博士はポーラの催眠状態を覚ましてセッションを終了しました。その後、今回、ポーラが語った内容を検討した結果、これは「あなたがマーサになる前の人物に戻ってください」と言うべきところ、博士が「あなたがマーサになる前に戻ってください」と誘導した事で、マーサ・ペインが誕生する前の状態、つまりマーガレット・キャンベルの後の中間世の一端に誘導してしまった事に気づいたのです。

 しかしホイットン博士は、果たして中間世というものが存在しうるのか。人は肉体を持たないで意識だけの存在というのがありうるのか考え込んでしまいました。そして博士は、実験の方針転換をするのではなく、まずはこの中間世という事について手掛かりをもとめ、チベット仏教の「チベットの死者の書」に辿り着いたというのです。

(続く)

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ネット上の宗教論争

2020年07月30日 23時08分04秒 | 思う事
 今日も1200人超えの新型コロナウィルスの感染者が全国で出ました。
 4月末に安倍政権は、ウイルス感染で緊急事態宣言を出しましたが、現在の状況は4月末を超える感染拡大状況となっている様に見えます。しかし当の安倍政権は、何ら動きをする事もなく、安倍総理は何やら自身の夏季休暇の過ごし方を考えていたり、また仲間内を集め何やら来年に向けて「新たな社会像を議論」しているそうです。

 一体、今の政権は何を考えているのか、よく解りません。
 国の指導者がこの様な状況で、この先、日本はどの様になって行くのでしょうか。

 さて、今日の記事はそんな事を書くつもりではありません。本題に移ります。

 ネットの中では、創価学会に関する様々な議論が溢れかえっていますが、俯瞰してみれば、これは創価学会に限った事ではなく、様々な宗教団体でも同様な動きはある様です。


 私自身、過去に創価学会に関係している事から、その目線で書かせてもらうと、今現在でも創価学会を信じて活動に励む人もいれば、私の様に創価学会に疑念を持ち、離れ、批判に転ずる人もいます。そしてこの両者は事あるたびに「自分達の方が正しい」という事で議論をするのは解りますが、互いにマウントポジションを取る為に、教義以上に相手の人格攻撃を行ったりする場合が多くあります。

 この気持ちは解りますが、本来議論するのであれば、最低限のモラルというのは必要だと思うのです。議論をするのであれば、互いに「自分こそ正しい」という事を示したいという願望が出てくる事から、こういった行為に走ってしまうのでしょうが、互いに感情的になり人格攻撃をする行為は頂けません。

 ネット等で議論する場合には、「文字」でやり取りをするのですから、やはり最低限の礼儀としての文字表現や書き方だけは、心がけてほしいものだと思います。

 でも今日書いておきたいのは、そういった事ではなく、そもそも宗教とは何故必要なのでしょうか。本来であれば「よりよき人生を送るため」という事が目的だったのではないのでしょうか。

 けして自分が優位に立ちたいとか、自分の行いがその宗教に所属する事によって全肯定されるという裏付けとして、宗教というものがあるとは思いません。

 また宗教を離れた人が、以前にいた宗教を実践する人を全否定する事で、過去の自分の行いが正当化されるという事も無いのです。

 重要な事は、宗教により自分自身の「信仰」という事に気付く事だと私は思います。ここでいう信仰とは、何かを信じるとか、何かに帰依するという事ではなく、最終的には自分自身を信じて、この人生を生きていく心の基盤を得る事とでもいうものかと、私は思っています。

 そして「信仰」という事に気付いたのであれば、その信仰の元となる自身の考え方や、物事の捉え方、それらが日常の自分の生き方に、どの様に反映されているのか、それが自分の人生にとって有意義なものなのか、違うのか。その様な事に対して自分自身の批判の視点を持っていく事が大事であって、その批判の視点を自分以外の他者に向けてそれを行い、自分を高みにある様に見せる事ではないと思うのです。また無暗に自分を宗教組織に隷属するものでもありません。

 でもそういった人達を、結構見かけたりするんですよね。

 要は偉そうなことを他者にぶつける前に、その自分の考えている信仰に基づく信念や考え方が、自分自身の生活の上で良いモノとなっているのか、また他者に対しても良き影響を与えているのか、常に気を付けるべきはそこであると思うのです。

 こと宗教団体に対しては批判して良いと思いますし、その宗教で飯食らう人間に対しては、厳しき視点と論点をぶつけるのは構わないでしょう。何故なら、宗教とはそうして磨かれていくものであり、その宗教を信じる人は、そういった厳しき論点に対して向き合う事で、より自分達の信じることに理解が深まるとも思うからです。

 ただし、一般的に宗教に取り組む人、信仰をする人といった個人に対しては、基本的な礼節は弁えられるべきであり、その上で議論をするなら、進めるべきだと思うんですけど、どうでしょうか。

 ここに書いている事は、自分への自戒(いましめ)を含めて書いています。

 しかし最近ネット(特にツイッター上)では、こういった基本的な礼節に不備な人が多くいる様に思えてなりません。これはとても残念な事です。また文字や文書についても不躾な人も多くいます。

 ツイッターという場合には、やはり140文字という制限がある事から、文字を端折って書く癖がつきやすく、そういった傾向も強くなるように思えます。でも「文字」という、ある意味で機能を限定された媒体でやり取りする場なので、本来であれば特に気を付けるべき事だと思うのですが、特に宗教がらみになると、人間というのは難しい関係になってしまうんですよね。

 人類の歴史を見れば、人間とは宗教の美名のもとに多くの残虐な歴史を刻んできましたので、ネット上でもそういった傾向が強くでてしまうのかもしれませんが、ちょっとは心に留め置いてほしいものですね。

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心のかたちについてー中間世①

2020年07月30日 11時00分19秒 | 心のかたち
 さて、臨死体験で代表的なものを紹介させて頂きましたが、次に「中間世」という事について視点を移してみていきたいと思います。

 仏教では「四有」というのを説いています。これは人々が輪廻する際に、その状態を顕した言葉だと言われています。

 ・生有:この世界に生まれ出てくる時
 ・本有:この世界で生きている時
 ・死有:この世界から死する時
 ・中有:死の後、次に生まれるまでの時

 先に取り上げた臨死体験とは、この四有から見ると死有の段階の事になりますが、これからあ取り上げる中間世とは仏教で言う中有の事に該当します。



 チベット仏教では、この中有の事を「バルド」と呼びます。バルドとは「中州と中州の間」という意味があるらしく、チベット仏教では中間世を中州を隔てる空間と模して考えており、生死流転の間にある世界という意味で捉えている様です。

 さて、世の中では臨死体験という事は多く扱われ、作家の立花隆氏も「臨死体験」という著作でこの内容を扱っていて、欧米においても「NDE(臨死体験学)」という事で研究対象にもなっています。しかしその先について扱っている文献というのは、私が知る限りそれほどありません。

 今回、この中間世の事については、J.Lホイットン博士、J.フィッシャー氏の書いた「輪廻転生-驚くべき現代の神話」を足掛かりに書いてみます。

 J.L.ホイットン博士は十四歳頃から催眠家としての腕を発揮してきたと言います。彼は希望者を相手にパーティーの席などでこの技を使うことがありましたが、その時には前世へ誘導しようと試みたことはありませんでした。しかし二十代はじめのころ、ホイットン博士は輪廻転生思想に次第に惹かれていき、催眠技法にさらに磨きをかけていきました。その後、トロント大学で医師の諸免許をかさねて取得した博士は、同大学の主任精神科医になりました。

 精神科医となり、臨床催眠術により、退行催眠等で無意識下の人間の心についてさらに理解を深めたホイットン博士は、トランス状態の被験者たちに精神的外傷の原因となった過去世の記憶を意識にのぼらせるよう誘導し、それを被験者が受け入れられるようにする事で、その被験者たちは、めきめきと病状に劇的な回復をとげる様になったのですが、なぜそうなるのか、博士自身にも満足のいく説明は出来なかったと言うのです。

 ある時、ある被験者を退行催眠で催眠誘導している際、博士は誘導の仕方を間違えてしまいました。
 「あなたが〇〇になる前の人物に戻ってください」(〇〇とは退行催眠でいう前世の人物名)
 本来ならば、この様に誘導するところを、以下の様に誘導してしまったのです。
 「あなたが〇〇になる前に戻ってください」
 すると被験者は、ホイットン博士も想像していない言葉を語りだしたと言うのです。後にホイットン博士は、そこで被験者が語りだした内容は、転生する間にある中間世の事では無いかと結論を出し、そこから多くの臨床例を集め、この中間世について研究を進めています。

 ホイットン博士の行なっている、死んでから生まれ変わるまでの間、すなわち中間世の状態の研究は、催眠を使った前世の調査研究から自然に発展していったものだが、博士の研究によって、この高次の自己についての私達の知識はさらに増加した。繰り返し被験者に催眠をかけて、一度転生してから次の転生をするまでの間の間隙へとみちびいていくうち、ホイットン博士は中間世の人間の意識が、今生での過去に退行したり前世に退行したりしているあいだに経験する意識より、はるか高い程度に達することを知った。この意識は、私達の現世にとらわれたリアリティーという概念を遥かに超えるもので人生を別の角度から眺めることを可能にしてくれる。中間世の状態では、俗に言う「善悪の判断力」が拡大して、心のイメージですべてを見通す力がさずけられるため、人間存在の意味と目的をはっきりと理解できるようになる。ホイットン博士はこの並外れた知覚状態を「超意識(メタコンシャスネス)」と名付けている。

 これは「輪廻転生」の共著者であるJ.フィッシャー氏の言葉ですが、具体的にホイットン博士が垣間見たのは、どの様な内容であったのか、これから紹介したいと思います。

(続く)


 
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法華経とは何だろうね

2020年07月29日 09時23分33秒 | 思う事
 新型コロナウィルスの猛威は収まる事を知らず、国内を相変わらず掻き回しています。それに対して安倍政権は、布マスクに数百億の税金投入して、八千万枚をまた配布するそうです。

 もう日本は終わってるな。

 このマスク関係の報道を見た時の私の感覚です。しかしそうは言っても家族を抱える身なので、何とかこの日本の中で生き抜かねばなりません。という事で、日々仕事に励んている昨今なのです。

 さてこのブログでは「心のかたち」という事で、記事を書き連ねています。今は臨死体験について書き連ねていますが、主題は心なので、この臨死体験の内容や体験者の話なんかも、今後様々検討をする必要がありますし、当然、今後は別の角度からの思索を進めて行くつもりです。

 それは何の為?
 自分の為に決まっています。



 自分自身、心の形を知りたいですし、自分がどこから来て、これから私は何処へ行くのか、そういう事については、生きている間にきっちりと「落とし前」を付けておく必要があると、私は考えているのです。

 そんな事を考えていると、もう創価学会とか、創価学会が信じていた日蓮仏法なんて、私にとってはどうでも良い事なのです。

 弄る事は多々ありますけどね。

 実はこういった臨死体験とか、この後に紹介しますが中間世(仏教でいう中有)の事などを調べてみると、ふと「法華経」という経典の位置づけについて考えてしまう事があります。ここから書く事は私の個人的な私見であり、何も仏教学者の裏付けがある事ではありません。だから「んな訳ないじゃん!」と思う方はスルーして下さい。

 原始仏教とか初期仏教と言われるものを読んでみると、釈迦が説き残した教えという、四諦・八正道・十二因縁を読んでみると、苦悩の原因や涅槃に至るまでの細かい事が説かれています。以前に読んだある書物では、釈迦自身がこういった数字的に割り切った教えを残した訳ではなく、こういった数字として整理された理論というのは後世の弟子によって整理・構築され、経典に記述されたと言います。

 またミリンダ王とナーガ・セーナ長老の対話、これは「ミリンダ王の対話」と言われるものですが、そこで語られている内容についても少し読んでみましたが、輪廻転生という概念も無ければ、あくまでも自分自身の自我とは、体の構成要素が和合した縁の上に存在していると述べていたりします。

 そういった事から考えると、釈迦が直に語った事とは、我執を断ち、それこそ灰身滅智の様な事を、当時の言葉で人々の中で語り、そこで目指した境涯というのも阿羅漢果では無かったのか、その様な事すら感じています。

 諸行無常・是生滅法・消滅滅己・寂滅為楽
 そういう事だったのではないでしょうか。

 そもそも釈迦自身は、九識論の様な重層的な心の仕組みとか、久遠元初という事を直に語った様には思えません。これらの事は、釈迦滅後五百年前後に始まった大乗仏教運動の中で発生し、それが法華経という経典に集約したと思うのです。またこの法華経の内容というのも、先にあるような釈迦が直説したというよりも、その釈迦を恋慕した人々が、瞑想の中で釈迦と出会い、そこから教えを受けた内容により構築されたとするならば、原始仏教というよりも、近年でいえば、例えば臨死体験の中で経験者が感じた事とか、近年自身の心の奥深くを洞察した人達の言葉と親和性がある事も、私個人としては大いに納得するところなのです。

 また大きく言えば、法華経と他の大乗経典、またそれ以前の初期・原始仏教の内容というのも、実は「水と油」の様に、相反しているものであり、その理由とは、釈迦の直説からアプローチして構築された仏教経典と、先にある様に釈迦を恋慕した人達が瞑想の中から構築した法華経という事から起きているのではないでしょうか。

 以上が、私個人の「妄想」としての法華経に対する概念です。

 もともと私は創価学会で仏教に触れました。
 そして若き時代には、宗門・法華講だとか顕正会相手に「対論」なんてことを言っていて、それこそ「文証・理証・現証」という事で理論体系を習得し、「文証無き事は黒論(地獄の理論)」なんて言っていた時もありました。
 しかし創価学会を通して学んだ「教学」というのは、そもそも抜け穴ばかりであり、また人の心を表現するのに「文字・言葉」だけに拘ってしまっても、実は「心のかたち」は捉えられないのではないかと考える様になりました。

 文字や言葉なんて、所詮は「平面的」な媒体ですが、人間の思考とは「立体」であり「時間」も関係していますからね。それらを平面的な媒体だけで語る事は難しいのです。

 ここに書いた事を私は「正論」と主張するつもりもありませんし、ましてや「正義」の言葉だというつもりはありません。でも大事なのは、様々な事を学びながら思索して、時として人と語らう。そういう事なのではないでしょうか。

 そんな感じで、今後も淡々と進めて行くつもりです。

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