自燈明・法燈明の考察

日本の残念感②

 さて、今回も昨日の記事の続きを書いていきます。ここで書いている内容は、私自身が日本の近代史を調べた中で感じたことを、つらつらと書いていくので、興味がある方だけお付き合い頂ければ良いかなと思います。

坂本龍馬フリーメイソン説
 さて日本の幕末の要と言えば、言わずと知れた薩長同盟です。苫小米英人氏の「騙された明治維新」によれば、この幕末の維新に費やされた資金は、長州(萩)藩の資金であり、それを担保に外国の資本が投入されたという話がありました。そして当時の長州藩の資金(裏会計的なもの)が今の日本の特別会計にまで繋がっていると言うのです。
 まあいつの時代でも戦争にはお金がかかり、そこで利益を挙げようとする動きはあるもので、かの戦国時代ではそこを担っていたのが堺商人でしたが、幕末にはヨーロッパの資本が入ってきた訳で、ある意味で初めての日本が受けたグローバル化の波であったのかもしれません。

 そんな中、薩長同盟の立役者として有名なのが、坂本龍馬でした。彼は土佐脱藩浪士の身分でありながら、亀山社中を設立、今で言う処のベンチャービジネスで成り上がり、歴史の表舞台に出てきました。一説には当時、坂本龍馬か保有していた資産は今の価値では数百億円とも言われていて、通常であれば各藩の重役とサシで話しができる身分では無いところ、この莫大な資産を背景として入り込む事が出来たと言います。

 では何故、一介の脱藩浪士がこれだけの資産を保有する事が出来る様になったかと言えば、近年になり「やりすぎ都市伝説」の関暁夫氏の発言もあり、背後にフリーメイソンの存在が語られています。

 坂本龍馬のビジネス相手に、長崎のグラバー商会のトーマス・グラバー氏がフリーメイソンでもあった事から、この説は出てきたのですが、私が思うにそれも十分あり得る事かもしれませんが、明確な証拠がないのでこの事は何とも言えません。ただ歴史の事実として莫大な資産を坂本龍馬は持っていたのは判明していて、それにより人脈を作り、幕末に重要な役割を担った事には変わりありません。

明治維新と日本帝国
 薩長同盟により日本は明治維新を成し遂げ、近代国家としての道を歩みました。しかしそれは東アジアの中では冒険的な事であったと思います。これは武田鉄矢氏も司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の物語評として述べていましたが、維新を成し遂げた人達には、手本となる近代国家が東アジアにはありませんでした。そこはどうしても欧米列強の猿真似と揶揄されましたが、模倣しか手段が無かったのです。
 思うにこれは想定なのですが、戊辰戦争で日本国内に外国の資本が入り、また幕末の不平等条約で縛られる中、維新を成し遂げた人達は、それなりに大変な思いで、近代日本を作り上げたのは想像に固くありません。しかし自分達で作り上げたの国家であれば、それを守る事の意義、またいくつもの激動の時代に揉まれた感性をもって、日清・日露戦争に「勝利」という形を作り上げる事が出来たと思うのです。

 特に日露戦争に至っては、ロシア帝国との国力の差が大きく、日露戦争当時の国際情勢を理解してみると「勝利」という形を辛くも作り上げる事が出来たというだけでも大したもので、もしロシア帝国が戦いを継続していたのであれば、その後の東京にロシア総督府が出来ていてもおかしくは無かったでしょう。
 当時はこの日露戦争の勝利に対して、多くの国民が不満を募らせ、日比谷焼き討ち事件という暴動騒ぎに発展しました。まあ重税や徴兵制度に疲弊する中、当時の人々にはかの事は理解しようにも出来ない事で、まさに奇跡的な事だったのです。

 そしてこの日露戦争の勝利により、日本は江戸幕府以来続いていた不平等条約を改正し、そして後に五大国として帝国列強の一角を占める事が出来る様になったのです。

 一方で中国(清朝)は、一時は「東洋の眠れる虎」と言われていたのですが、日清戦争の敗退を機に、欧米列強の刈り取り場となり、苦難の歴史が続いたのでした。

 その後、ロシア帝国とは友好関係を深めていったのですが、そのロシア帝国もロシア革命により滅びてしまい、ソビエト連邦となってしまいました。また二十世紀初頭の世界では、民主主義政体と共産主義が世界中で立ち上がり始めたのですが、当時の日本はこの世界潮流を読み取れずに居たようなのです。

(続く)

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