北信濃寺社彫刻と宮彫師

―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

●坂井衡平について (続編)

2019年04月24日 | ▲善光寺平の歴史

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13. 坂井衡平の業績

(1)著書・論文

表1に衡平が著述したものを示した。『善光寺史』以外は、衡平の生前に刊行されたもので、郷土史関連が四冊、それ以外が九冊(一部重複あり)となっている。校正は衡平と甥の喜夫が行った。本の主題は、それぞれ郷土史(善光寺や更級郡関連)、国文学、日本人の国民性であり、一見関連がなさそうに思えるが、これらの共通点は「庶民(大衆)」である。古典の花形は、『源氏物語』、『枕草子』であり、これらは宮廷文化を題材にし、華やかな分野であるため研究対象としている者が多い。一方、『今昔物語集』は、貴族、武士を取り上げた説話もあるが、庶民の生活、行動を取り上げたものが多い。芥川龍之介の『羅生門』も『今昔物語集』を元にしている。衡平は、多くの古典文学に目を通し、その中で『今昔物語集』に特に力を入れて、その説話の中から当時の庶民の生活様式・意識に迫った。さらに、同集の前後に書かれた文学史料からも知見を得ながら、庶民(大衆)の行動、意識の部分を「国民性」ととらえ、時代の移り変わりで「国民性」がどのように変遷していくかを探っている。善光寺は無宗派の寺院で、多くの民衆の信仰の対象であったことも無関係ではない。また、郷土史研究は、当時注目され始めた民俗学とともに研究が盛んになって来た分野で、対象は国全体の出来事よりは、地域の庶民の出来事が主である。衡平は、歴史上はささいな出来事ともいえる庶民の生活が国全体の歴史を理解するには重要であると述べている。衡平の著書について長野市に関係の深いものから紹介する。

 (一)『善光寺史』 昭和四十四年、上下二冊、一一八三頁

これまで『善光寺史』が刊行に至った経緯は紹介した。本の内容であるが、時代別では、奈良時代以前が一八一頁、平安時代が二四四頁、鎌倉時代が一四二頁、南北朝・室町時代が一〇〇頁、江戸時代が八〇頁、明治以降が一七頁となっている。特に江戸時代後期の項の多くは、「今省略す」となっており、さらに書き加える意思があったと思われるが、突然の調査打ち切りのため「省略」となった。衡平の善光寺研究は、自身の専門であった平安時代末期の『今昔物語集』などの国文学研究と並行して進めたため、中世以前は緻密に記述がされているが、近世(江戸時代)以降の善光寺資料が、東京よりは、地元の長野にあった事もあって、近世以降の事項に関しては、主に東京にいた衡平は調査が進まなかったと思われる。衡平が、もう少し長命で、長野市教育会の委託が継続されていたならば、近世以降の事項も充実したものになったであろう。

 (二)『善光寺小誌 附名所案内、御詠歌』昭和五年、一〇八頁

衡平の善光寺研究についての唯一生前に刊行されたもので、学術本ではなく一般向けのガイド的な刊行物であった(写真14)。本誌内容は、『善光寺史』の巻末に全て収載されている。この本の挿絵を描いた河野通勢は群馬県伊勢崎生まれであるが、父河野次郎が長野県師範学校で画の教鞭をとっていたため長野市に育った。河野通勢と衡平の接点は不明である。

写真 『善光寺小誌』の表紙

 (三)『更級郡郷土文化史』昭和六年七月、一二九頁

更級郡教育会が、善光寺を調査していた衡平に対して、同会主催の更級郡に関する講習会を依頼し、その講演内容を本にしたものである。衡平が得意とした室町時代以前を中心に記述されている。 

(四)『聖山研究』昭和九年七月、一九六頁

 更級郡教育会が、同郡の象徴である聖山について調査を計画し、地質、植物、考古・歴史分野を三人の専門家に依頼し、まとめたものを刊行した。考古・歴史分野を衡平が分担執筆した。衡平の執筆分は、昭和三年に雑誌『信濃教育』に「善光寺史と聖山」と題して三回にわたって衡平が投稿したものと同じ内容になっている。

(五)『今昔物語集の新研究』大正十二年三月、六七二頁、誠之堂書店

初版は、大正十二年で、その直後の関東大震災で多くを焼失し(15)、大正十四年四月に増補再刊された。衡平が、東京大学在学中に取り組んだテーマで、卒業論文となった。『善光寺史』とともに衡平の主要著書にあげられる(12)。さらに昭和四十年に覆刻再刊している。本邦初の『今昔物語集』の研究書で、現在も多くの研究者から引用されている。収載されている説話を詳細に検討し当時の貴族、庶民の生活習慣について述べている。特に庶民の生活は、平安時代の他の歌物語文学には記載がなく、同集から得られる庶民像は重要であるとして、実例を挙げている。

(六)『国民伝説・今昔百話新訳』昭和四年十一月、五〇五頁、雄山閣

表紙は、「文学士 阪井衡平著」とあり「坂」の誤字となっている。先の『今昔物語集の新研究』が研究書であるのに対し、本書は『今昔物語集』の説話をわかりやすく解釈・紹介した内容である。その序で衡平は、『今昔物語集』は国民の「生命の水」で潤された新鮮な文学で我が国最大の国民的伝説集であると述べている。現在までに失われた説話はあるが、収載された説話は一〇三六話を数える。衡平はその中から、人々の支持を得たと判断した一〇〇話を選んで、訳注、原文も併記した。有名な「羅生門のしかばね」の他、長野県に関係するものでは、「盲僧の開眼」、「藤原陳忠の平茸取り」、「姥捨山の歌話」の三話が取り上げられている。

(七)『新撰国文学通史』大正十五年、上中下巻、上巻五一〇頁、中巻五三九頁、下巻五六六頁、三星社

『今昔物語集の新研究』『善光寺史』と並んで衡平の主要三作品にあげられることが多い。衡平は『今昔物語集』の研究からさらに発展して、日本の国文学の時代的変遷を研究対象にした。国文学通史の研究上、重要な三要素(土地、人、文学作品)について、時代を三つに分けて検討している。上巻は、平安時代以前の文学を取り上げ、その時代を「発生・発達・美化の時代」とした。中巻は鎌倉・室町時代の文学で、「転回・分化の時代」とし、下巻は江戸時代と明治期の文学を対象とし、「開発・革新・新様の時代」としている。衡平は、記紀に記された神話、風土記、万葉集から時代が下った、江戸時代の滑稽本、明治期の文学まで目を通して記述している。上伊那教育会の中島和計が、衡平を「碩学」と称していることがうなずける(7)。

(八)『日本歌謡史講話』大正十三年九月、二七四頁、誠之堂書店

『万葉集』や『古今和歌集』から、松尾芭蕉の俳句、江戸の浄瑠璃、明治期の和歌に至るまで時代別に述べている。日本の国民的文学としての「歌謡」の変遷を概観し、国文学史の一側面を解析した。後に刊行された『新撰国文学通史』(前述)につながっていく。衡平は「歌は物のあわれを知るより出てくるもの也。此故に生きとし生けるもの皆歌ある也」と冒頭で述べている。衡平は、長野県師範学校在学中、万葉集を愛読し、国文学研究への思いを持っていた(5)。万葉集の「歌謡」は衡平の研究の原点になる。

(九)『古文学の詩味』昭和六年七月、三六六頁、文書堂

 文書堂から刊行された坂井衡平の国文学研究シリーズ「国文学研究論叢」の第一編になる。このシリーズについて、序のはじめに「我国文学史研究の手さびに成れる小品集なり」と述べている。衡平が他の雑誌に投稿したものと新たに書かれたものが収載されている。衡平の研究は、目的の一つに「日本文学の光り」(祖国の文学に包まれている不滅の光輝)を探る事と述べていて、晩年の衡平の研究の礎となっていた。内容は、文学と宗教の関係、万葉集、記紀の歌の検討の他、戸隠神社の神楽の舞の歌を取り上げている。

(一〇)『和歌と伝説』昭和六年、三三八頁、文書堂

文書堂「国文学研究論叢」シリーズの第二編になる。和歌と伝説に関する小研究が収められ、巻頭に「戸隠山鬼女退治の絵巻」と題し、衡平が大正十三年に戸隠神社社家の久山家で発見した「戸隠山絵詞」を中心に、他の鬼女を題材にした文献と比較検討している。後半には、「今昔物語集と信濃」と題し、信濃に関する説話を検討している。地方の文学は、日本の中枢(主に権力を持つ集団の本拠地)の文学に比較し前衛的な多様性を持つ内容で、主文学に刺激を与え斬新なものに変化させる力を持つとしている。後に、『和歌と伝説』と『古文学の詩味』の内容が一緒になって『古文学研究』(昭和九年、不朽社)が刊行された。

(一一)『現代国文学講話』昭和十年、三月、文松堂

 衡平の亡くなる前年に刊行された本で、文書堂「国文学研究論叢」シリーズの第三編になる。刊行後半年も経たないうちに衡平は入院生活を送るようになった。本書は、衡平の生前の最後の刊行物になる。明治に改元されてから六〇年以上経過し、衡平が主として研究してきた古典だけでなく、現代文学に関しての研究も必要と考え著述したものである。対象の作家では、福沢諭吉、森鷗外、島崎藤村、夏目漱石、武者小路実篤など多数である。本の後半は、初学者が国文学へ興味を持つようにと、「歌謡史上より見たる日本女性」、「山陵めぐり」(昭和二年に雑誌『中央史壇』に投稿したもの)、「とぐら考」、「庚午の年と馬の語源」(昭和五年雑誌『民俗学』へ投稿)も掲載されている。「山稜めぐり」は、衡平が善光寺の調査で近畿地方を回った際に、合わせて皇室の御陵を見学し調査したものである。

(一二)『日本国民性論』大正十一年二月、三四六頁、大日本図書

 大正十年に長野県内の小学校で講話した内容を整えたものであり、大正時代には、日本の国民性が注目され、海外との比較などについて研究がされるようになった。衡平は、国文学資料を基に、上代から明治までの時代別の日本の国民性についての変遷を著述している。衡平は、国文学研究において我が国の国民性を常に意識すべきと述べ、この国民性を理解し、発展させることが重要としている。

(一三)『日本国民性の史的研究』昭和五年十月、四七五頁、文書堂

 『日本国民性論』が『今昔物語集の新研究』と同じように、先の関東大震災により原版と在庫を焼失したため、第一篇(『日本国民性論』と同じ内容)に加えて、第二篇(国家及び国民性)、三篇(世界及び国民性)を加筆して出版に至った。

(一四)『口語訳学期順少年書簡文』大正十年、二六五頁、誠文堂

 衡平の最初の刊行物になる。尋常小学校五年から中学二年くらいの少年を対象にした書簡の書き方と、後半は例文集になっている。例文集は、生徒の事を考慮し、学期別に並べ、国語以外の科の教材とも出来るだけ関係性を持たせようとした衡平の工夫がみられる。大正十二年に早稲田中学校の嘱託講師になっているが、授業で教材として使われたかもしれない。 

(一五)『口語訳学期順少女書簡文』大正十年、二六八頁、誠文堂

 先の少年書簡文の姉妹編になる。同じ構成で、総論と例文集になっている。衡平は、書簡を「文明社会を反映する鏡」と述べている。良い書簡を書くためには、心を正し幼時から練習する必要があると説いている。

 

表1 坂井衡平の著作一覧(発行年順)

書名   発行年   出版社  
           
口語訳学期順少年書簡文   大正10   誠文堂  
口語訳学期順少女書簡文   大正10   誠文堂  
日本国民性論   大正11   大日本図書  
今昔物語の新研究   大正12   誠之堂  
日本歌謡史講話   大正13   誠之堂  
増訂 今昔物語集の新研究   大正14   誠之堂  
伝囘・分化の時代   大正14   三星社  
新撰・国文学通史   大正15   三星社  
発生・発達・美化の時代   大正15   三星社  
開発・革新・新様の時代   大正15   三星社  
国民伝説・今昔百話新譯   昭和4   雄山閣  
日本国民性の史的研究   昭和5   文書堂  
善光寺小誌   昭和5   大正堂書店  
和歌と伝説   昭和6   文書堂  
古文学の詩味   昭和6   文書堂  
国文学研究論叢   昭和6   文書堂  
更級郡郷土文化史   昭和6   更級郡教育会  
古文学研究   昭和9   不朽社  
聖山研究(分担)   昭和9   更級郡教育会  
現代国文学講話   昭和10   文松堂  
善光寺史   昭和44   東京美術  
           
           

 

 表2 坂井衡平の投稿論文一覧

掲載雑誌名 発行年   論文名
         
信濃教育 334 大正3   右記に見えたる寺院教育
信濃教育 337 大正3   綴方教授随感録
信濃教育 338 大正3   伏見物語と伏見長者伝説
信濃教育 340 大正4   信貴山縁起に就いて
信濃教育 345 大正4   文学及び文学史の研究
信濃教育 349 大正4   六国史に現れたる信濃
信濃教育 352 大正5   六国史に現れたる信濃(続)
信濃教育 356 大正5   六国史に現れたる信濃(続)
信濃教育 368 大正6   故村松先生を憶う
信濃教育 416 大正10   日本アルプスの歌
信濃教育 421 大正10   国家社会と個人
信濃教育 423 大正11   文学と宗教
信濃教育 435 大正12   今昔物語集と信濃
信濃教育 444 大正12   大なゐそぞろ言
信濃教育 448 大正13   新時代と教育の動向
信濃教育 453 大正13   現代の日本文学(上)
信濃教育 454 大正13   現代の日本文学(下)
信濃教育 457 大正13   千首部類と宗良親王の歌
信濃教育 460 大正14   教育勅語の釈義について
信濃教育 465 大正14   現実の見方について
信濃教育 473 大正15   教育の社会的傾向と精神的傾向
信濃教育 484 昭和2   諒闇と国事雑感
信濃教育 489 昭和2   善光寺史研究上の諸問題
信濃教育 490 昭和2   善光寺史関西旅行談(一)
信濃教育 491 昭和2   善光寺史と関西地方の資料(二)
信濃教育 492 昭和2   善光寺史と関西地方の資料(三)
信濃教育 503 昭和3   善光寺史と聖山
信濃教育 504 昭和3   善光寺史と聖山(続)
信濃教育 506 昭和3   善光寺史と聖山(続)
信濃教育 509 昭和四   東北地方における善光寺史資料(一)
信濃教育 510 昭和四   東北地方における善光寺史資料(二)
信濃教育 511 昭和四   東北地方における善光寺史資料(三)
信濃教育 512 昭和四   東北地方における善光寺史資料(四)
信濃教育 513 昭和四   落成の祝歌
信濃教育 519 昭和五   国民的精神の新自覚
信濃教育 524 昭和五   故渡辺先生の事ども 
信濃教育 531 昭和六   国家と国民生活(上)
信濃教育 533 昭和六   国家と国民生活(中)
信濃教育 535 昭和六   国家と国民生活(下)
信濃教育 549 昭和七   佐藤先生の事績と菇化火
丁酉倫理会 講演集 242 大正11   ミステイシズムと現象学的考察
教育画報 17 大正14   文学に現れた仏法僧鳥
教育画報 18 大正14   文学上の鳥―古今三鳥
敬神教育資料 52 大正14   神代巻と我国民性
教育画報 19 大正15   戸隠神社所伝の倭舞吉備舞の詞
中央史壇 86 昭和2   山稜めぐり(上)
中央史壇 87 昭和2   山稜めぐり(下)
民俗学 2 昭和5   庚午の年と馬の語源
日本及日本人   昭和8   日本文学に現れたる国民精神(其三)
ケルン 4 昭和10   上高地論
東京高等師範学校校友会誌   明治44   本校創立40年記念 校友会発展史
         

 

(2) 坂井衡平 略年譜

1886(明治一九) 一月一日出生(父坂井喜平、母ゑい)

1889(明治二二) 父喜平没(享年四二)

1902(明治三五) 長野県師範学校入学

1904(明治三七) 日露戦争(翌年まで)

1906(明治三九) 三月長野師範学校卒業、春近尋常小学校訓導

1907(明治四〇) 兄の子坂井喜夫出生

1908(明治四一) 四月東京高等師範学校国語漢文部入学

1912(明治四五) 三月東京高等師範学校卒業、四月同校研究科入学(教育国語専攻)

           九月東京大学選科入学、十月高等学校卒業検定合格

           十月東京高等師範学校退学、東京大学文科大学入学

1914(大正三)  一月春近小学校休職満期により退職

           七月第一次世界大戦(大正七年まで) 

1915(大正四)  七月東大国文科卒業、大学院入学

1918(大正七)  指導教授の芳賀矢一が国学院大学(学長)に転出

1920(大正九)  二月東大文学部文学科(国文学教室)副手

1923(大正一二) 九月関東大震災

1924(大正一三) 四月長野市教育会からの善光寺史編纂委託

1925(大正一四) 六月兄喜扶没(享年五〇)、甥喜夫 長野県師範学校中退

1927(昭和二)  大学時代の指導教授・芳賀矢一没。金融恐慌。

           二月長野市教育会の講演会「善光寺史」

1929(昭和四)  世界恐慌。

1930(昭和五)  八月 春近小学校同窓会で講演「国家と国民生活」

1931(昭和六)  満州事変。

           九月 母ゑい没(享年八一)

           十一月 寺史研究のため朝鮮へ渡航

1933(昭和八)  二月 二・四事件。甥の喜夫収監される。

           長野市教育会の善光寺研究委託が打切りとなる。

1934(昭和九)  善光寺史脱稿。

           十月から小林政雄による『善光寺史』の清書作業が始まる。

1935(昭和十)  八月衡平入院となる。

1936(昭和十一) 三月二日急変。同月五日死亡。

 

*文中の敬称はすべて省略した。

 

(1)坂井衡平『善光寺史』昭和四四年

(2)金井清光「坂井衡平氏『善光寺史』について」、『信濃教育』九六九号、六九‐七九頁、信濃教育会、昭和四二年

(3)金井清光『時宗文芸研究』、三八六‐四一三頁、昭和四二年

(4)西尾光一「坂井衡平の人と学問」、『中世文学』一三号、一‐七頁、中世文学会、昭和四三年

(5)(1)一一三九‐一一四四頁

(6)坂本令太郎「坂井衡平―東大を追われた孤高の学究」、『日本の屋根』一二四号、二五‐三〇頁、信越放送株式会社、昭和四五年(『近代を築いたひとびと2』に収載)

(7)中島和計「硯学 坂井衡平」、『上伊那教育』四三号、六〇‐六五頁、上伊那教育会、昭和四五年

(8)土屋弼太郎「剣峯坂井衡平君を憶ふ」、『上伊那教育』四三号、六五‐六八頁

(9)坂井喜夫「坂井衡平のことども」、『上伊那教育』四三号、六九‐七二頁

(10)酒井源次「編集後記」、『上伊那教育』四三号、一六一‐一六二頁

(11)『長野師範人物誌』、三八四‐三八八頁、昭和六一年

(12)吉原浩人「坂井衡平―『今昔物語集』と善光寺史の輝かしい研究」、『国文学 解釈と鑑賞』五七巻八号、一一二‐一一七頁、平成四年

(13)小林計一郎「坂井衡平の研究成果、出版」、『善光寺史研究』平成一二年

(14)田中博文「坂井衡平の善光寺創建論」、ホームページ『あれこれ南宜堂』二〇〇七年一二月七日

(15)安良岡康作『西尾実の生涯と学問』、五五‐六四頁、平成一四年

(16)坂井衡平「大いなるそぞろ言」、『信濃教育』四四四号、信濃教育会、大正十二年

(17)坂井衡平「現実の見方について」、『信濃教育』四六五号、信濃教育会、大正十四年

(18)信濃教育会『雑誌「信濃教育」総目次(創刊一千号記念)』、二三四頁、昭和四六年

(19)坂井衡平「故村松先生を憶ふ」、『信濃教育』三六八号、信濃教育会、大正六年

(20)長野市教育会『長野市教育会史』、二〇一-二〇八頁、平成三年

(21)『信濃人物誌』、三四三‐三四四頁、昭和三七年

(22)長野市教育会「刊行報告記念式 善光寺史について」、昭和四四年

(23)胡桃沢勘内「郷土研究の概念」、『信濃教育』四二一号、大正十年

(24)長野市教育会『長野市教育会史』、九三六‐九四三頁、平成三年

(25)坂井衡平「故慈妣小祥忌追善歌帖」

(26)溝上正男『坂井喜夫 追悼記集』、平成十二年


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