例えば、ある「言葉」を耳にした時。
自分の心と身体が、反射的にギュッとこわばることがある。
文字通り、かたくなる。
それは、動物的(本能的)な反応(防御)に近いように思える。
その瞬間は、感情らしきものも見当たらない。
その動物的な反応の後。
幻の答えをでっちあげる為に、思考がウロウロし始める。
…でも。
どんなに目を凝らして見ても。
澄みきった「そこ」には何もない。
「何もない」ということに慣れていない頭は、何かを導き出そうと更に右往左往する。
記憶の引き出しを開けてみれば、そこには過去の産物が山ほどある。
悲しい、寂しい、悔しい、怖い、腹立たしい。
その中から、パターンとして「馴染み」があるものを選ぼうとする。
でも、その選ぼうとする対象さえ本当は「ない」。
ないけど繰り返し選び、反芻することで自動的な反応として定着する。
(だからこそ…危険から心身が守られたことも実際にある)
「誰か」や。
あるいは「何か」が出来事に意味を持たせるのではなく。
自分の仕業。
それを、静かに観察する機会があった。
慣れ親しんだ、今までのパターンに何度もいきそうになるけど。
目の前にあるのは透明さだけ。
その澄みきった場所に佇んでいると、不思議と慈悲の心が湧いてきた。
何もないのに、わざわざ自分にとって心地よくないものを出現させなくてもいい。
それに…。
何より、私が生みだしたいのはそれじゃない。
「葛藤」は、「愛」を自ら遠ざけているサインであることを、
あらためて体験を通して知った。
自分の心と身体が、反射的にギュッとこわばることがある。
文字通り、かたくなる。
それは、動物的(本能的)な反応(防御)に近いように思える。
その瞬間は、感情らしきものも見当たらない。
その動物的な反応の後。
幻の答えをでっちあげる為に、思考がウロウロし始める。
…でも。
どんなに目を凝らして見ても。
澄みきった「そこ」には何もない。
「何もない」ということに慣れていない頭は、何かを導き出そうと更に右往左往する。
記憶の引き出しを開けてみれば、そこには過去の産物が山ほどある。
悲しい、寂しい、悔しい、怖い、腹立たしい。
その中から、パターンとして「馴染み」があるものを選ぼうとする。
でも、その選ぼうとする対象さえ本当は「ない」。
ないけど繰り返し選び、反芻することで自動的な反応として定着する。
(だからこそ…危険から心身が守られたことも実際にある)
「誰か」や。
あるいは「何か」が出来事に意味を持たせるのではなく。
自分の仕業。
それを、静かに観察する機会があった。
慣れ親しんだ、今までのパターンに何度もいきそうになるけど。
目の前にあるのは透明さだけ。
その澄みきった場所に佇んでいると、不思議と慈悲の心が湧いてきた。
何もないのに、わざわざ自分にとって心地よくないものを出現させなくてもいい。
それに…。
何より、私が生みだしたいのはそれじゃない。
「葛藤」は、「愛」を自ら遠ざけているサインであることを、
あらためて体験を通して知った。