私はテレビを見ません。
ので、このところ話題になっている問題もよく知らないのですが
さすがにfacebookをやっていれば
「フランス」「テロ」「犠牲者」
なんてことで大きな出来ごとが起きているんだろうなぁ・・・
というのは、感じます。
で、いろんな人がいろんな意見を言ったり批判されたりしているしているみたいですが・・・
問題意識を持っている人というのは
結局、その「問題」を使って
自分の中の問題をごまかしているっていうことなんじゃないかと思うのです。
自分の中にある、”いやだと思っていること”を
自分で解決するよりも
他の問題に転化させて自分の中でいやだと思っていることを正当化するほうが
楽、ですものね。
人は見たいものしか見えません。
興味あることしか、目につきません。
世界がどうであろうと、見たい世界しか見ません。
自分が幸せならば世界は幸せです。
世界が幸せなら自分が幸せになるんじゃなくて
自分が幸せでなければ、どんなに頑張っても世界は幸せに見えません。
同じように発信される情報も、見たいものしか見ません。
こちらの都合よいほうにしか受け取れません。
要するに、世界を作っているのは自分自身だってこと。
世界の大きなことだけでなくて
日常のささいなことも
”ざわっ”として”うわー嫌だ―”と思ったら
そこを掘り下げて自分の問題を発見して解決していけたらいいと思います。
これは死生観にもつながりますが
大量虐殺や無差別に被害に合うということも
大きな大きな宇宙レベルでいえば
「問題」ではなく、ただの「出来事」なのだと思います。
生まれてきた以上、みんな死んでしまいます。
いつ死ぬかは自分の意志では決められません。
ミッションが終了して、この世と縁が切れた時に
終わります。
身近な人がなくなるのは悲しいことですが
その人はこの世と縁が切れただけのこと。
(異国の見ず知らずの人のことなのに)
亡くなって、その子供がかわいそう
とか
親がかわいそう
というのならば
そこまで飛んで行って残された人と共に過ごして癒してあげればいいんです。
日本の、今、ここであーだこーだ言っているよりも。
以前も書きましたが
東日本大震災の時に亡くなったたくさんの命、
その魂はそうなることを選んでこの時代に降りてきたものだと
屋久島で出会ったヒーラーさんの師匠さんたちが口々に言っていたという話。
そう、そういうことなんですよ。
きっと、世の中は。
それでもいても立ってもいられなくて私は岩手に戻ってきて
毎週末沿岸にボランティアに通っていましたけどね。
全然、嫌ではなかった。
むしろ、たくさんのエネルギーが注がれているのを感じて
希望がみなぎっていました。
”みんなもボランティアすればいいのに”と思って
でも興味ない人を見て悲しくなることはあったけれど
その人はその人、私は私。
まだまだかもしれないけれど、少しでもその再生の現場に立ち会えたことは
自分にとっても貴重で、ものすごいエネルギーをもらった気がします。
話が逸れましたが・・・
だから、むやみに心配しなくていいし
心配してしまうのは自分の中にそれを正当化したい何かが潜んでいるという
それだけのこと。
「あなたの(誰かの)ために、心配しているのよ」
というのはエゴかも。
(「心配」に対しての考え方も昔のつれづれノートに書いてあったっけな~)
「(そういうあなたが)自分のことを心配なさったらいいわ」
と、ちょっとブラックな発言ではありますが
思います。
世界を通して自分の世界を見る。
壮大でかつ繊細な「問題」ですね・・・。
あ、言っておきますがこれ
小さなパン屋の店主のブログです。
ので、このところ話題になっている問題もよく知らないのですが
さすがにfacebookをやっていれば
「フランス」「テロ」「犠牲者」
なんてことで大きな出来ごとが起きているんだろうなぁ・・・
というのは、感じます。
で、いろんな人がいろんな意見を言ったり批判されたりしているしているみたいですが・・・
問題意識を持っている人というのは
結局、その「問題」を使って
自分の中の問題をごまかしているっていうことなんじゃないかと思うのです。
自分の中にある、”いやだと思っていること”を
自分で解決するよりも
他の問題に転化させて自分の中でいやだと思っていることを正当化するほうが
楽、ですものね。
人は見たいものしか見えません。
興味あることしか、目につきません。
世界がどうであろうと、見たい世界しか見ません。
自分が幸せならば世界は幸せです。
世界が幸せなら自分が幸せになるんじゃなくて
自分が幸せでなければ、どんなに頑張っても世界は幸せに見えません。
同じように発信される情報も、見たいものしか見ません。
こちらの都合よいほうにしか受け取れません。
要するに、世界を作っているのは自分自身だってこと。
世界の大きなことだけでなくて
日常のささいなことも
”ざわっ”として”うわー嫌だ―”と思ったら
そこを掘り下げて自分の問題を発見して解決していけたらいいと思います。
これは死生観にもつながりますが
大量虐殺や無差別に被害に合うということも
大きな大きな宇宙レベルでいえば
「問題」ではなく、ただの「出来事」なのだと思います。
生まれてきた以上、みんな死んでしまいます。
いつ死ぬかは自分の意志では決められません。
ミッションが終了して、この世と縁が切れた時に
終わります。
身近な人がなくなるのは悲しいことですが
その人はこの世と縁が切れただけのこと。
(異国の見ず知らずの人のことなのに)
亡くなって、その子供がかわいそう
とか
親がかわいそう
というのならば
そこまで飛んで行って残された人と共に過ごして癒してあげればいいんです。
日本の、今、ここであーだこーだ言っているよりも。
以前も書きましたが
東日本大震災の時に亡くなったたくさんの命、
その魂はそうなることを選んでこの時代に降りてきたものだと
屋久島で出会ったヒーラーさんの師匠さんたちが口々に言っていたという話。
そう、そういうことなんですよ。
きっと、世の中は。
それでもいても立ってもいられなくて私は岩手に戻ってきて
毎週末沿岸にボランティアに通っていましたけどね。
全然、嫌ではなかった。
むしろ、たくさんのエネルギーが注がれているのを感じて
希望がみなぎっていました。
”みんなもボランティアすればいいのに”と思って
でも興味ない人を見て悲しくなることはあったけれど
その人はその人、私は私。
まだまだかもしれないけれど、少しでもその再生の現場に立ち会えたことは
自分にとっても貴重で、ものすごいエネルギーをもらった気がします。
話が逸れましたが・・・
だから、むやみに心配しなくていいし
心配してしまうのは自分の中にそれを正当化したい何かが潜んでいるという
それだけのこと。
「あなたの(誰かの)ために、心配しているのよ」
というのはエゴかも。
(「心配」に対しての考え方も昔のつれづれノートに書いてあったっけな~)
「(そういうあなたが)自分のことを心配なさったらいいわ」
と、ちょっとブラックな発言ではありますが
思います。
世界を通して自分の世界を見る。
壮大でかつ繊細な「問題」ですね・・・。
あ、言っておきますがこれ
小さなパン屋の店主のブログです。
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