goo blog サービス終了のお知らせ 

janpal

人生これ,雑記.

Home Page: https://janpal.web.fc2.com

STAPに関するメモ(3)

2014-12-26 11:15:02 | 本と雑誌

ESを混入したのは、

(1) ドイツからの研究留学生

(2) 第三者の再現協力者

(3) 若山教授

(4) 小保方博士

(5) その他のスタッフなど

で、(1), (2)が一番疑われるのじゃないかと思うが,(3)や(5)の可能性も残る。(4)の可能性は低い感じである。(3)とすれば、小保方さんの渡したものを使ったかどうかも怪しくなるのじゃなかろうか。あるいは、STAPそのものの存在の有無とは関係しない可能性など、元の疑惑に戻っただけの感じがする。もう一度巻き戻して、検証実験や再現実験やる方が、科学的には正当なきがするが,政治化したような状況では難しいのだろう。混入したのはドイツだというシャレいうと,外交問題になるかもしれない。

しかし、だいたいSTAPがあることがなぜそう目障りなのか、また都合が悪いという気分になるのか、意味がわからない。STAPあったからといって、胃酸で胃に肝臓ができるようなことはないのだから、心配ないのは少し考えればわかることではないのか。そういうことあれば、あるもないもあることになるし、騒ぎになることもなかったではないか。特異な疾患の仕組み解明とかに貢献する可能性はあるだろうけれど。小保方さんのような比較的若手の女性研究者が発見したからといって、実質、競合する相手はバカンティさんぐらいではないのか。医学系が、ピーナッツ姫気分だから、騒ぎがそうなるというようなことは影響ないはずだとは思うが,事情通に言わせるとどうなのだろう。バイオ(生物概念)コンピュータとか.

【 LIF(leukemia inhibitory factor)】は,ES細胞の分化を抑制する因子とあるが,STAP細胞塊が一個のES様細胞に例えられるのなら,STAPは,その抑制によって,多能性を付与された細胞内細胞という感じになるのだろうか。多細胞組織とも細胞内変化ともつかない状態をへて,STAPは生じるという感じになるだろうか。そういう発生過程で,数十億年の細胞進化を若返ってしまうプロセスも同時に走るとか,面白そうではないだろうか。その途中で,ESやiPSと異なる性質を持った細胞に傾くということはないだろうか。STAP原理とはこういう感じのことなのではなかろうかと,想像してみたのである。生殖能力を持つ前のマウスとか,塊のままインジェクションとか,成りかけSTAP塊の抑制具合とか,手掛かりにならないのだろうか。

【DNAメチル化(methylation of DNA)】は,メチル化遺伝子がクロマチン構造の変化を介して強く不活性化されることを通じて,細胞の記憶を形成する機構の一つとある。細胞の分化記憶とか,細胞年代の記憶とか,細胞にデータベース化されるてのは,考えられないのだろうか。細胞自体が,情報を保存したり,組み替えたり,修復したり,参照したりする手続きをシーケンサー化しているということは,考えられないのだろうか。多細胞間情報地図(ICMS, 仮名)システムとか作ればよくはないだろうか。

DNAの遺伝子が,マトリックス(クロマチンのような)の影響で,発現の運命を決定されるような感じにも読める気がするが,そういう点は,いまだ未解明な部分を含むらしい.電子の雲がひろく広がることは,結合が安定して活性が低いということになるから,矛盾しない感じだとおもう.このような問題に対する,概念的な理論を,エピジェネティクスというのだろう.概念コンピュータのようなものかと思ってしまった.生物概念(バイオ)コンピュータとか.私は,アップル(腐ったリンゴの国のものでも)コンピュータを使うことにしている.

STAPの論文でも,論文のランドスケープと理研外部調査委員会の遺伝子解析のあいだの関係の平易な説明があれば,もっとわかりやすいのにと思う.混入とcross contaminationとは,同じことなのか,異なることなのかとか.再現,検証実験の擬STAP様細胞塊は,ES細胞なのかとか.では,その実験は,混入実験なのかとか.監視カメラは業者サービスなのかとか.もちろん、そんなことは、わかってやっていることだろうが,話が紛れそうだから.ES細胞と言われても,詳しいことは,素人だから,わからないし,ESだと悪いのだろうか.whyが足りない感じ.あるいは、5W1Hがマトリックスしてない感じ.

コンタミ説に対して、立証データの確立の難しい実験条件が満たされていない[コンタミ疑惑]が、その条件を満たすように、細胞性質や培養条件をより詳細化することが要求されたということなのだろう.リニアーか対数的かという箇所は、さらに未知な因子が影響している可能は少ないということだろうか.出来るだけ平易に説明できるところがあればいいと思う.

話は、もどって、ドイツからの留学研究生が怪しいというのは、NHKの番組でも、調査委の話でも、小保方さんは、そういうESを使ったことないが,その研究生から,対照のためにとかとかいわれて受けとったとあるから,普通に考えれば,その研究生と,小保方さんがグルか,その研究生の画策グループにはめられたかだと思うが,若山さんが首謀していたのなら,真っ先に疑われるわけで,白であるというには強い留保がつくはずではなかろうか.調査委の調査は,そういうことには限界があるだろうけど,画策グループに(中国や朝鮮筋のとか)日本のメディアがかんでないとは言い切れないではないか.ちょこまか悪いことやっては,雑魚の悪ふざけだと逃げて散るてのは,よく見かけることではなかろうか.

それと、理研は、ドイツの(幹細胞とかの)偽札原盤技術の情報を得られるから、バーターしたということはないだろうか.述べうることは述べる、述べ得ないことについては黙らなければならないというのは、科学の姿勢なのだろうが,私は素人だから,発言する.だいたい、科学の研究がタブー視されるというのは、アホが社会にはびこっているからぐらいの意味しかないのだから、欲かいた難波とか吉村とかのような話の背景には、そういう社会を演出して、箔付けよう的な意図が感じられるではないか.そこらは、検証されないのだろうか.科学的には、大した意味はないと言われればそれまでだが.理研の有志によるという話も、理研内画策グループのと読めなくもないではないか.そういう中で、故意かどうかはわからないという結論なわけだから、白の感じが強いかなと、素人判断したわけである.そういうことに、十分配慮する状況とかを認識できなかったために、思惑にのせられたような可能性は残るのかもしれないが.

 

細胞塊内の、微妙なPH濃度の変化とか、水素量の変化とかは関係しないのだろうか.電子のペアリングもややこしそうだから、どんなものだろうと思うのである.


STAPに関するメモ(2)

2014-12-24 22:17:02 | 本と雑誌

『生物学辞典』買ったので,専門用語にもいくらか対応できそうになったが,まず,細胞(cell)とはどういうものかと調べてみる.核を持っていて,細胞膜で囲まれた生体の単位のことだが,簡単に言えば,生物学の参考書などにあるような,細胞核,細胞質,細胞内小器官などが細胞膜で囲まれたようなものなのだろう.細胞の分類にもいろいろあるようだが,多様な分野からの知識が関わる学問の単位なのだろう.体細胞(somatic cell)と生殖細胞(germ cell)という分類もあるそうである.生殖細胞には生殖質(RNAとタンパク質の凝集体)を含むものもある.体細胞は,生殖細胞からお嬢株(line)のように分化したものであるということらしい.

STAP騒動というのは、ESやiPSのような操作とは異なる、外的刺激によって生じる細胞状態から、誘導して、多能性細胞に導けるという報告に対して、それを証拠付けるデータ等が十分確立していない面があり、写真の取り違えなどのミスが加わって、論文捏造疑惑などに話題が拡大したというものだと思うが,私が不思議に思うのは,肝心の,データの確立が不十分であるとかそういう部分の話は殆ど追求されず,何が何でも捏造研究という話が垂れ流され,そういう決めつけに不都合な情報は,意図的に無視されるばかりか,嘘つきメディア的な無責任がまかり通っていることである.科学的に肝心な点については,いまだ十分な,あるはある程度踏み込んだ,論説はなされていないという印象が強い.専門家の説明も,信頼できそうなのは,殆ど伝えられない.NHKなどの解説も,悪意を持った意図的なごまかしがほとんであるように思う.NHKも時々そういうことをする.内部事情の問題が反映しているのじゃなかろうか.生命倫理だの,知財だのといっても,そういう報道のあり方は,別問題ではなかろうか.

そこらは、そういうことで、チンピラメディアで済むのかもしれないが,科学そのものに対する知る権利は,がめつく追求しなければならない.火星探査なんて,税の無駄遣い段階なのだし,「という可能性もあるデータが得られた」とあると,手放しでエールというのに,細胞とかそういうものになると,変なカルトもどき科学評論家や大学人がしゃしゃり出る.私のように利害のない者には,チョンピラのヤラセぐらいにしか見えない.

 さて、サイエンス誌の論文掲載拒否の理由は、

「この論文では、体組織からの細胞を、弱酸で数日処理することで、完全な多能性をもった状態にリプログラミングできると主張している.

このような驚嘆すべき主張では、そのことを支持するハイレベルの証拠が必要であり、(論文は)そのレベルに達していないと判断する.論文の結果は、次の経緯で導かれたものではないかと疑われる.

(1) GFPレポーターをもった細胞が緑色に光ることは、死にかけ細胞と同じもの.[自家蛍光疑惑]

(2) 同じ実験で維持された細胞株の交叉の混ぜ合わせが解けたもの.[コンタミ疑惑]

緑色蛍光は、レポーターが、ストレスにさらされた結果、過度に(受容体が)増加した影響によるものか、あるいは、死にかけ細胞によるものであると考える.しかも、緑色を発する細胞は、後期の緑色コロニーのものだけでない.これらは、交叉混合(cross contamination)から得られたES細胞である可能性が高く、B27-LIF培養で(コロニーが)成長する間に選り分けられたものであると考える.

訳自体が,私の勝手訳だから,憶測になるが,混じりにくいものを、混ぜ合わせるのに、部分的に混ざった状態から、なんらか選り分けて、別なものを取り出すという感じだろうか.それが、ES亜集団とかではできるという報告もあるが,STAPのものとは別物という反論になるわけなのだろうか.どうなんだろうか.また、ES様幹細胞を樹立できるということはどうつながるのだろうか.

もっと辞典とか揃えないと、調べきれない可能性も高いが,そういう制限は,気合いで乗り切ることにする.

折良く,NHKの取材で,理研のSTAP調査委員会がSTAPはES細胞の混入したものであるという,科学的な結論を出し,明日(12月26日)記者会見するそうである.サイエンス誌の疑義通りということだろうか.幾つか気になる点があるので,書いておこうと思う.

(1) ES混入は,若山研の誰かが意図的にやったということなのか。あるいは、ES様の細胞になってしまって、STAPの特徴が検出されるものではないというのではなく、ESがそういう特徴を持っていることが分かったということなのか。また、そういう、第三者の関与の有無も明らかになったということだろうか。

(2) 保存されたものを調べても、それをSTAPであるともないとも言えないといっていたが,そういうことはないという結論が出せたということだろうか。

(3) 当然,Nature誌もそういう疑義を知っていたはずだが、受理したという判断はどうなるのだろうか。調査委員会は、科学的に判断できる連中で構成されているのだろうか。

(4) STAP原理のようなものは、すくなくとも日本では検証できないから、やるなら、可能性のある外国でというメッセージもあるのだろうか。 説明によっては、そう取られることにもなるのではなかろうか。仮に、STAPが科学の世界で認められていたとしても、疑義も出されるだろうし、いろいろ疑問も出されることもありうることだから、騒動の中で、理研外部調査員会という科学的なものかどうか、やや疑問が残るところがやっても,悪いというわけではないが,それは,科学を担保するものだという保証はあるのだろうか。認識に,ちょっとズレがあるような内容が伝えられていたこともあって,少し疑問が残る。

私としては,そういう点も見ながら,今後の科学の成り行きを見ていきたいと思う。高い辞典も買ったことだし。素人的には,まだまだ,面白く読めそうである。

海の中の海島という感じはあるのだろうか。海はやはり生命の母となるから,いい感じではなかろうか。細胞塊が一個の細胞のような,機能分担してるような感じに思ってしまうのだが,そこらどうなのだろう。

発生としての多能性という項目から想像して考えると,細胞塊の機能分担というか分化の抑制によって,それを構成する個々の細胞に多能性を付与することに寄与する因子とかあるのだろうか。集合的な性質が,個のなかで違った形で経過をたどるような。集団自体の(擬似組織化の)抑制が、個々の細胞の初期化と多能性獲得の促進になるような。


Pauli『相対性理論』をめぐるメモ(2)

2014-12-18 09:42:59 | 本と雑誌

パウリでも,ハイゼンベルグでも,ディラックでも,現代物理の巨匠であるが,一方で,異端の科学者という感じが付きまとう.そもそも,アインシュタンがそうである.さらには,量子力学自体もそうである.ボーアもドン臭い巨匠だが,どっか異端扱いである.科学における正統と異端とはどこに線引きがあるのだろうか.ホーキング博士も,あれだけ有名であるが,「異端の科学者」扱いを感じる.

便宜上の,正統派容認という暗黙の示し合わせが,科学と政治,科学と社会,科学と経済の間で,ある種,その場しのぎ的な調整として維持されてきたということだろうか.キリスト教教会の都合が,世俗化して,政治や経済,社会,戦争という都合に変わったというわけだろうか.「ガリレオ裁判」は,相当,未解明な点も多そうだが,現代のガリレオ狩りは,足らんチンピラの悪ふざけ程度であるから,どうかと思うのである.

LEDをめぐっても,そういう類の話があったようだが,結局,出来てしまえば,正統派の取り込みと組み替えで,よく「ヌエ」的と呼ばれるような,幽霊正統派が君臨するという構図になる.幽霊正統派に寄生して,虚勢をはるような科学者には,バツの悪い思いが残るが,確かな科学の成果も確保されるのだから,結果として,問題ないではないか,うまい妥協というものである,ということになるのだろう.しかし,「科学は科学として」判断されるべきだという立場も強いようであるから,そう問題のない妥協とは言えないのだろう.「アイソ」が悪いという理由からだという主張もあるようである.

12月18日,STAP出来ずというニュースがあった.有効な誘導率が得られないということらしいが(緑色蛍光が認められても,それだけでSTAPがあるといえないと,共著者がいっていたことだから),STAP幹細胞もできなかったともある.おそらく,デリケートな連携が必要なのだろう.若山教授も参加して,現在的な見地から,STAP実験するというふうにはいかないのだろうか.べつに,何が何でもというのではないが,条件的に無理があるのかもしれない.中間報告では,若山教授の参加を促すような場面もあったではないか.

細胞の研究も,STAP原理にみられるような領域まで,現に進んでいるのだから,訳のわからない,非科学的な話の垂れ流しを脱して,生物系の研究の実の内容がわかるようなものにしてほしいものである.

小保方さん本人は,あると信じているようだとあったが,多分あるのだろう. もう少し熟してから,STAP騒動の科学的な意味も明らかになるのだろうと,個人的には思っている.現在までのところ,笹井さんが言っていた,実験のデリケートなつながりの壁が立ちはだかっているような感じである.当然,素人の私の推測である.

「ないことを証明するのは悪魔の証明」だというが,「ありえないということを証明するのは科学の証明」ではないのだろうか.「ないことを証明する」のは,素人の私の仕事だが,「ありえないことを証明する」のは,科学者の仕事である.日本には,科学者の役割果たすのはいないということだろうか.すり替えがまかり通ったままの科学など,STAPがあろうがなかろうが,信頼できない.

12月19日 理研の報告書を見ると,記者会見は見てないが,2014年バージョンの「新小保方レシピ」で,有効な数のSTAPを得られるのじゃないかという期待に,条件の制約や,おそらく体調などから,得ることができなかった.そういう場合には,検証実験を打ち切るとも,最初から言ってたのだから,あと一歩で,確認に至らなかった,ということらしい.スライドの最初の写真などは,きれいなSTAP細胞塊に見えるが,科学の難しさなのだろう,再現というわけにはいかないらしい.そういえば,論文記載のというのだから,新レシピでの実験はやってないということだろうか.もったいない気がする.アメリカの特許で,再現にこぎつけちゃえと言いたいところである.

条件となる誘導率が満たされなくても,相当のところまでは確認できたというふうにも取れるわけだから,個人的には,STAPは再現できる可能性が高いのじゃないかと思う. 

Youtubeに会見のビデオがupされていた.当然,STAPは存在しないものと確定したのかとか,論文の不正はどうなるのかとか,研究不正に対して理研の対応は十分かとか,そういう趣旨の質問が大方だったようである.

そういう点について,私は今でもよく分からないのだが,STAPの検証は,制限された条件の中で,STAPが再現でき,解析して確認できるかの報告だが,そこから,どうして,不正があって,研究はそれ自体が疑わしいものだということが確定するのだろうか.そういう短絡が,メディアで目立つのは何故なんだろうか.それによって,日本の科学が信頼を失ったというなら,LEDの中村教授がアメリカに渡ったときは,日本の科学の信頼は,アメリカに渡って,日本には,信頼以前の科学しか残っていなかったということだろうか.メディアの体質が,どうもそういうことに傾きすぎている背景は何なのだろうか.科学評論家的なのは,嘘混じりで垂れ流すし,それをさくらじみた連中がさももっとだと演出する,カルトの目立ち芝居じゃないかという感じが強い.実際,文科系より理科系にカルト勧誘に引っかかったような学生が多いからなのかどうかわからないが,不可解な現象である.

さて,気になる話といえば,ATP処理とかでていた,アデニシン三リン酸を酸化処理に使ったとかあったが,RNAの海ならぬDNAの海というのか,バラパゴスというのか,そういう関連というかが問題なのかといえば,そういう意味はないという感じのやりとりともとれる場面もあったようである.ちょっと,洒落ぽく創作してみたのだが.大きなエネルギーのやりとりが生じて,プロセスに影響を与えるというようなことも本に書いてあったが,ATPそのものとして取り入れられないので,そういう問題は生じないらしい.電子の雲が広がるとか,ややこしそうな問題とも関連するのかもしれない.あるいは、そういう分子的な影響で遺伝子の基盤が別のものになるとかあるのだろうか.なぜ,細胞核にDNAは籠城するようになったのかというような疑問から,ちょっと,連想しただけのことである.こういう素人の連想も生じるから,話を分けたのかもしれない.

細胞核も小さいという特徴は,もしかしたら,リプログラミング以前の細胞状態に初期化されるプロセスもあるということを示唆しているということだろうか.分化決定を初期化して,多能性を再び獲得するプロセスと,細胞自体が何十億年も遡るプロセスが,安定性を持って,存在しているということになるのだろうか.若返りすぎるだろうか.

こういう風に,想像を交えると,記者会見の話も,結構, 面白いものである.科学的には,さらに,一加工しなければ,空想話に終わるのだろう.「安定性」の暦は,まだ,作られていない.

第三者による再現の結果もあるそうだから,山中教授等交えて,解明していくという手はないだろうか.そういう事情を,公式に述べうるのかどうか知らないが,知っている人はいそうである.

総じて,科学らしいいい研究である.残念なのは,日本の科学を巡る環境には,良からぬ圧力が存在していることが明らかとなり,正当な科学の経緯が阻害されやすことが分かったのだが,十分な担当能力を持った科学コミュニティーが,存在しないことである.科学的良心が存在しないとは思わないが,実力として不十分である.日本の科学も,まだまだ,青い.困難は,多いほうがいいのである.ゆっくり成熟していって欲しいものである.野次馬的,陪審員気取りで言えば,こういう感じである.科学は,科学としての責任を継続しなければならない.そのプロセスや結果が,最終報告となるのだろう.私としては,科学的にこの問題がどうなっていくのか,じっくり見ながら勉強できればいいと思っている.私は素人だし,歳だから,そう活気のある勉強にはならないかもしれないが,若い科学者が,変な世の中のヤラセ気分とか気にせず,優れた成果を出していくだろうから,期待したいものである.

 


メモ(1)

2014-12-07 19:31:29 | 本と雑誌

・分子というのは、主には、原子の核外電子の共有とかで結びついているということだろうが,「エーテルの中に埋もれている電子の運動」というのは,どういうものなのだろうか.

マイケルソン-モーレーの実験などを経て,エーテルは否定されることになるのだが,エーテルの存在を前提として,分子運動が,独立・独自の法則を獲得し,同時に,観測できる現象が,定量的に,エーテルから独立していく.その両面で,電子の運動が関与するというのは,「電子の海=真空」という感じで,なにか機構が暗示されているようで,面白くはないだろうか.これも,Lorentzの電子論の相対性理論へ媒介的な意義であるらしい.

本というものは,読んでみなきゃ始まらないが,読んだからといって,正しく読んでいるかどうかは別問題である.思い上がりの,痴れチョンガキならいざ知らず,最近,学者まで,読むということの基本が分かっていないのが多いらしい.とひとこと言っておくと,読書もしやすくなるご時世である.読むのは,自分自身である,という簡単なことがわからないらしいということを言ったまでである.パウリが弱冠21歳でものした頃の趨勢と比して,為体(ていたらく)なご時世である.といっても,私も年だし,若いエネルギーは,浪費して,今はないので,どうしようと思うのである.

相対論関係の三大名著であるらしい,Weyl, Pauli, Bornの著書のうち,Bornの通俗書の翻訳は,高校の頃読んだが,書店で,何となく,読めそうで,身になりそうという感じがあったから買ったものだが,Weylのは,古本で安かったから,Pauliののは,文庫本だったからなのだが,一応,揃ったことになる.加えて,異色な名著,ディラックのも文庫で買ってあるので,良き時代の空気は,okである.

話が,脱線するが,「読む」というのは普通,「書く」人とは別人であるが,書かれたものは,書いた人から独立した存在になる.読む人は,その書を読むわけだから,どういう風に,話が進んでいくのかとか,これはどういうことを言っているのだろうとか,文章をたどる.もちろん,読者の側の知識とか,判断とかも加わっていくわけだが,普通,あまり一貫した読みにならない.そこで,解説や解説書や解説書代わりの関連の著書に頼るわけだが,それも,たいして,一貫した理解になるわけではない.書く方は,論理的に誤りなく書けているかとか,少々難しいところの表現が,読者に的確に伝わるだろうか気にする.読者は,著者の圧倒的な知識量とか,それを書きうる立場とか,そういう背景を考える.まあ,当然,そういう面もあるだろうが,それ自体は,どうとでもとれる事柄である.一貫した読みを行うとか,一貫した理解を得るとかということはどういうことなんだろうと,考えてしまうわけである.書いた本人さへ,書かれた書物の前で,立ちすくんでしまうのに,書いた者でもない読者が,一貫して読むとは,どういうことなのか.なにか,プッツンしながら,文章をたどっていくしかなさそうだが,あるいは,飛び石をたどりながら,進んでいくしかなさそうだが,到底,飛び越せそうもない先にある飛び石が,足元の踏石に受胎したらどうなるのか.かといって,幾つも先の踏石に,辿り着いているわけではない.幾つか先の踏石として,そこにあるにすぎないものであることには変わりない.

幾つか踏石を渡って,その石にたどり着いた時,その石は,単に,20番目に踏んだ踏石なのか.それとも,それは,スタートから3番目に踏んだ踏石のコピーなのか.また,21番目の踏石は4番目の踏石のコピーだが,3番目の踏石にはなんらそういう形跡はないというときには,20番目の踏石はどういうものなのか。

Einsteinが,相対性原理を要請してエーテルを否定(物理的無意味化)して,そこから,エーテルの拡張としての,「物質をとりのぞいたカラの空間それ自身に結びついている物理的状態量の全体」が提唱され,その自立性が,光速度不変の原理で保障される.それがまた,宇宙定数として,物理的意味に回復される.エーテルが,物理的な意味と無意味の間で,不思議な飛び石を歩んでいたような印象を受ける.物理的な要請が,何か絶対的な根拠からくる要請というより,物理的に確実性の高い結果を保存する必要から要請されるものであるという感じだが,エーテル概念の変遷は,物理的確度の保存と物理の変革の要請を二つながら体現している観がある.

ES細胞や,iPS細胞が完全なリプログラミングを果たす仕組みをめぐって,STAP細胞が,ES細胞やTS細胞のコンタミであるとか,ES細胞そのものであるとか,ジャーナリスティックに騒ぎ立てていたのなら,確かに,ESのリプログラミングの仕組みは,どこまでわかっているものなのかとか,真面目な疑問につながるだろうが,疑義の捏造だけが踊って,科学研究へ人間的なタチの悪さを反映しながら,メディアや一部の学者もどき(東大の倫理研とか謎の科学雑誌とかの関係者とか,吉村とか難波とか)がカルト担ぎの代表者のように祭り上げられる.吉村や難波などは,科学的には野次馬もどきの連中だから,学問・研究者としての資質は問われもしない.国際科学コミュニティも相手にもしない.中華系か朝鮮系かしらないが,そっち寄りのメディアは,同じ穴のムジナだから,こういう点については,火消しを図る.評論家なのかなんなのかわからないが,田原総一郎とかも,科学的内容に関しては,めちゃくちゃいい加減な決め付けで,印象だけ垂れ流す.そういうのが,海外のタレント学者にもいる.オツムの足りなさを,威勢で取り繕って,注目ひこう的なテリー伊藤のようなのもいる.和田アキ子の件は知らない.ああいうキャラのままの発言なのかどうか,知らないので言えない.

<β=v/c(cは光速度,vはエーテルに対する媒質の速度)について一次のものは,特に,この速度を,一次の範囲で,一様に変化させても,物理現象には何らの変化も起こらない.マイケルソン-モーレーの実験は,その(βの)二次の量に対しても,変化を観測できないという結果を示した(「エーテルの流れに対する光速度の変化を認められない」)>.このことから,ローレンツ変換が導かれ,さらに,Einsteinや量子論による,物理の変革がなされることになる.という感じのことが,現代物理の本にはいつも書いてある気がする.「時間は一次である」というのは,時間がエーテルの流れのようなものに対して,ガリレイ変換的に振舞うという意味なのだろうか.しかし,時間は特別でないという立場なら,元のエーテル的流れに変革を加えて,時間に一次の変化を与えるものでなければならないことになるのではなかろうか.物理的真空とか,宇宙定数とか,超電導とか.あるいは、ソリトンとか.そこで、タキオンとか,小林-益川行列とか意味付けるなんてことも考えられないのだろうか.飛び石を,だいぶ飛び越してしまった話になるが,実際そこに至っているわけではない.

 

      ,  

は,c→∞(無限大)ならx'=x-vt,t'=t (ガリレイ変換)になるが,c→0ならx'は0だが,つまり絶対零度の世界のような感じだが,v/0というのは正しくないから,時間の相関が考えられない世界という感じである.類が動く時の,法則の間の関係を立てるための,基礎となる構造を探る関係式という感じになるのだろうか.iが0,0',...,0"で保たれる関係を表しているという感じになるだろうか.「テンソル解析と虚数単位i」とか.

参考文献: W.パウリ『相対性理論』(上,下巻),ちくま学芸文庫


秋月康夫著『輓近代数学の展望』(ちくま学芸文庫)を読む

2010-07-02 19:11:45 | 本と雑誌
先日,秋月康夫著『輓近代数学の展望』(ちくま学芸文庫)を買った.1500+税(¥)である.同書「解説(飯高茂)」中の鈴木敏教授の評「代数学の基礎概念から始めて,可換環論,多元環,リー環までの解説をした名著」とあるし,専門的な難しい分野までの数学的に整合的な解説であるということなので,ハードカバーなみの内容なのだから,高くはないとは思う.それに「輓近代数学の展望」と「輓近代数学の展望(続)」がおさめられているのだから,むしろ安いのだろう.しかし,「輓近」とかいうのは,何につけ,古色蒼然の印象が先立つが,輓近自然哲学とか輓近芸術論とか,明治や大正時代の世相では「輓近」という意味だろうかと感じる.現時点では,パラパラとページをめくって拾い読みしているだけであるが,相当専門的な内容がわりと丁寧に解説されてあるようなので概念のはっきりとした理解にもいいだろうが,といっても理解するまでにはちょっと半端でいかなそうで,何度も読み返しながらジワッと味あう向きの書物のようである.


それはそうと,理科系でもなく得意でもない私が,何故,数学や物理理論にこだわっているのか,改めて考えてみると,べつに意味はないとしか言いようがない.数学者や物理学者は,ユウレカ風呂場のアルキメデスとかユークリッドとか,ガウスとか,リンゴ重力のニュートンとかアインシュタインとか,それくらいしか長く知らなかったのだし,環境らしい環境もなかったのだから,理由などあろうはずもない.科学者の身分階層的な,学閥的な,階級文化環境的な話題はどうも他所事にしか感じられないが,そこに身を置く学者には重要なのだろう.それがうまく運べば定理ができるかも知れないという話もあるようだし.それはそれでいい方の話だが,大方は,ご都合主義の詭弁に終始しやすいと思うが,そういう危うさも乗り切るくらいの現場感覚が必要なのだろう.政治事や経済事では,悪い方に現場感覚も傾いている昨今ではあるが.それは,やはり,産学官とかの経済編成的な幾多の線があるいは意図的にあるいは随伴的にねじ曲げられているせいなのではないだろうか.


さて,「序説 数系の発展」のはじめの方に鶴亀算の話題がある.鶴と亀があわせて24匹,足の総数が64本のとき鶴何羽と亀何匹になるか? 算術的な解答では,もし鶴が24匹なら,足の総数が48本で16本分足りない.
64-24×2=16
もし,亀が24匹なら,足の総数は96本で,32本分多い.
24×4 - 64 = 32
または2で割って,
24×2- 32 = 16
右辺はどちらも16になったから,
64- 24×2 = 24×2-32
64+32 = 24×4
4で割ると
16 + 8 = 24
だから,鶴は16羽,亀は8匹.ほんとはこういう解説ではないが(24匹とも鶴なら足は全部で48で,足りない分の16は2本分足の数の多い亀が混ざっているはずという説明),和と積が自然と答えを示しているようで面白い気がする.代数では,鶴x羽,亀y匹とおいて式を立てれば答えはすぐ求まるわけだが,その分,味わいが無味乾燥としている感じなのだろうか.牽強付会けんきょうふかいでいえば,「法則は完全な条件の下には,C^∞[微分可能(多様体)]ではなく,C^ω[解析的(多様体)]であるべきではなかろうか.近時,理論物理学で確定理論は否定されて不確定性が唱えられてはいるが,それは観測すること(条件の表示)自体に含まれる不確定性によるものであって,確率論的に抑えられた法則そのものの本性は,やはり解析的であるべきではなかろうか.」(「II 多様体の概念」『輓近代数学の展望(続)』)に響いているようでもある.もちろん,微分[可能]とか解析的とか,あるいは多様体とか,保存変形とかいう概念がどういうものかということはあるが,そういう厳密なことではなく素人のイメージなので,算術的な創意を保ちながら代数的な形式化が深まっていく感触だろうか.「複雑な対象を線形化して,またその線形性からのズレを見極めて, ある意味イデアル化して, その対象の理解に迫る」という感触が,鶴亀算がよく数学の特に現代数学の解説で見うけられる理由なのだろうか.鶴亀算はあるいは「不定域イデアル」或は「層」であるといえば,フィールズ賞は無理でも,イグ・フィールズ賞はもらえるかもしれない.


Centralconic_2
「射影空間の構成」にある図(円錐曲線)を書き写したが,QOQ' とかPOP' での実線と破線や接線の具合が悪いが,だいたい読み取れるし,ごちゃごちゃするので.
ABをA' B' に平行に移動したのだから,P' が双曲線上のPに対応するようには,A', B' に対応する点が存在しないこと.
また,左右からP' を同一点A' に近づけるのだから,そのとき対応する,左右反対方向に無限に遠くある点は同一の点であるとして,無限遠点と呼ばれること.
それが,空間の一点から平面に射影して見えてくること.
OP' からみる代わりにOPをみれば,楕円も一点Oに潰れそうなこと.
等が, 説明されてもいるが,まず読み取れる.二つの平面にある楕円と双曲線に一対一の対応がつけられること.これは,まるで,ツルの方からみた場合とカメの方からみた場合の間に,いわば一対一の対応がつくかの感じと似ている,なんてのは,ツルカメ霊に取り憑かれた感じで,ふざけが過ぎるだろうか.


x^3-2=0の根は,ωは1の立方根として(ω^3=1, ω^2+ω+1=0),2^(1/3), 2^(1/3)ω, 2^(1/3)ω^2だが,a=2^(1/3)とおくと, 例えば,aωおよびaω^2を累乗していった数の集合をAおよびBとすれば,AとBは異なる集合であるが,aとωを別々な元として加減乗除してできる数の集合は,aとω^2を別々な元として同じようにしてできる数の集合とかわらない.K(aω)とK(aω^2)は異なるが,K(a, ω)とK(a, ω^2)は集合としては同じものである.K(ω)やK(a, ω)は,Kという例えば有理数の集合にωという一つの元を加えたもの,aとωという二つの元を加えたものという意味である(aもωも有理数でない).そういう意味だと思う. ここらは,簡単そうで,二次体K(√m)の理論とかKummer拡大体とか多項式環R[X](R上のXを変数とする多項式全体の集合のなす環)や(R[X])[Y]=R[X,Y]などの理論とか, 重要なところで,ほんとはちゃんと理解しなければならないのだが,それは,高木著『初等整数論講義』とか彌永著『代数学』などの解説を参照.
もちろんこれは,ガロア理論からの話だが,ガウスの「代数学の基本定理」から,複素数の範囲では方程式の次数が何次でもf(x)=0の根は存在する.4次の方程式までは代数的に解くことができるのだから,5次以上の方程式f(x)=0が「代数的に」解かれるかどうか,その方程式の根は係数の代数的な関数として求まるかどうかが問題になる.この問題を完全に解決したのがガロア理論だが,基礎体にその根すべてを付加してできる拡大体であるガロア体を考察して,そのガロア群をみることで,その体が可解的であるとき(すなわち,その方程式のガロア群が可解なとき),その方程式は代数的に解くことができると結論される.そして,ガロア群は対称群であり,5文字以上の文字の上の対称群S_n(n>=5)は可解でないことから(n>=5の交代群A_nは単純群で非可換であるから非可解であり,「[定理]可解群の部分群は可解である」から,交代群A_nは対称群S_nの部分群であるから,n>=5の対称群S_nは非可解である. もしそのとき,n>=5で,S_nが可解群なら定理からA_nは可解群とならなければならなくなるから矛盾),5次以上の方程式を代数的に解く一般的方法は存在しない.つまり否定的に解決された.という感じなのだが,そう正確には理解してないかもしれない.ちなみに,群Gが可解であるとは,群Gの正規列G=N_0⊃N_1⊃....⊃N_n={e}で, 因子群N_0/N_1, ...., N_(n-1)/N_nがすべて可換群(アーベル群)になるようなものを持つとき,群Gは可解群であると呼ばれる(彌永著『代数学』やアルティン著『ガロア理論入門』など参照).これも牽強付会だが,例えば,体の拡大の間に同型関係を建てる「写影」があるいは「類」という観点が,世界を地平化しつつ無限を構成する弁証法的な動きに感じられる.


例のツルカメ算に戻って,8+16=24を,準同型の成り立つ対応として考えるとすれば,f(a)+f(b)=f(ab)が成り立つような対応fとはどのようなものが考えられるかということになるが,24時間時計を考えれば,1時間進む毎に角度で15度進む.8時まで進むのに120度進み,16時まで進むのに240度進む.つまり正三角形の回転群を考えることと同じになる.ここで積は回転の合成ということになる.もちろん,この場合や類する場合に限ればということであるが.しかし,ツルカメ問題のいろいろの場合にどうなるか考えるのも示唆的かも知れない.付値論など参照.


秋月康夫,鈴木通夫著『高等代数学I』の最初の定理は,
a_i, z_jを整数値をとる変数とみて,その一次式
 a_1z_1 + a_2z_2 +... + a_nz_n
で表される整数の全体Mを考える.a_1, a_2, ..., a_nの最大公約数をdとすると,
 (1) a_1z_1 + a_2z_2 +... + a_nz_n=d
を満たす整数z_1, z_2, ..., z_nが存在する.
である.この定理から,素因数分解の一意性も証明される.整数係数の方程式の整数解を求める(1)のような方程式をDiophantus方程式という.集合Mはa_1,a_2,...,a_nの最大公約数dの倍数全体からなる集合であるから(dはMの元の中で正の最小の値の数とすれば,dの最小性からb∈Mならb=qdという形でなければならない.したがって,dの倍数となっている整数でMの元が尽されることがわかるから.やり方は,Mの任意の元bをb=qd+r(rは0以上でd未満)とおいて,(1)と連立して,dの最小性からr=0(r∈M)でならねばならないことを導く.また,そのときのdが最大公約数であることも証明される),逆に,整数a, b, ..., cの最大公約数dで割り切れる数の全体は,x,y,...,zは整数として,ax+by+...+czの形に表される.「これに準じて代数的整数でも,ax+by+...+czの形の数全体からなるイデアルをa,b,...,cの最大公約イデアルと呼ぶ.また,有理整数環のイデアルは,その集合の元で絶対値がゼロ以外で最小のものの倍数全体からなるもの(単項イデアル)である.単項でないイデアルも存在する.単項でないイデアルが存在すればこそイデアルの存在理由はあるのである」.

「n個の独立変数x,y,z,.....の整式(係数はなにがしかの体の元でよい)は全部で一つの環を作っている.そしてこの環におけるイデアルaはヒルバート(Hilbert)の定理によって常に有限個の整式の最大公約イデアルとして表されるのである.すなわち
  a=(f_1, f_2, ... , f_r)
これをaの底と呼んでいる」. 整式の零点の集合の方からと,特異点の解消の方からと,イデアルが深く関わるのも,類の構成の幽玄さの一つの現れなのだろうと思う.


「代数体では,零イデアル(0)以外の任意のイデアルは有限個の素イデアルのベキの積に分解せられ,しかもこの分解は因数の順序だけを無視すれば全く一意的に定まる.このことをイデアルの主定理と呼んでいるが,この一意性の上に代数的整数論が建てられていくのである.....しかし,一般的な環では主定理は必ずしも成立しない」.顰蹙(ひんしゅく)買いそうであるが,ツルカメの霊力は思いのほか強く,あるいは,類体論やゼータ関数の理論にまで及んでいるらしい.「自然数の興味は加法と乗法との綾であるが,乗法的な部分はガウスの巨大な理論,彼の『数論』で完成されたのである」.不思議に,「(u, v)平面内の領域D上で定義された微分形式とは,D上の関数および微分du, dvを加えたり掛けたりしてできるものであるが,乗法の規則は通常のように可換でないので,特別な記号∧を用いる.乗法は外積(exterior multiplications)と呼ばれる」(小林昭七著『曲線と曲面の微分幾何』裳華房)と呼応した感じはないだろうか.