- ワイルの『群論と量子力学』の最終章から,勝手訳で切り取ってみた.私のパロディ思考の数学的あるいは物理数学的表現の基本部分を述べているような親しみを感じるからである.色々と難解な事柄が簡潔に有機化されているのだろうから,参照するのに便利がいいということでもある.刺激になるというわけである.
(続) を定める.すなわち,偏角ωの置換の代数和である.書き下してある項は,その和で最高のものである.
§18 分枝法則(branching laws)
物理の散乱現象とか,ウイルスの増殖とか,あるいは,生体の機構や分子的な機構への適応とか,学習とか,現在的な話題につながりそうな最終章最終節で終わっているわけだから,『群論と量子力学』が積読だけでいいのかという,私の気がかりというのか勘は当たっていたということになる.パロってみることで生じる勘もそう馬鹿にするものでもないことを示せたことになる.『数学辞典』では,「分枝」はbranching, 「分岐」はbifurcationと使い分けられている感じだが,Logの枝みたいなことから,生滅流転するような対象の確率過程など多岐にわたるので,手に負えない.「分岐則」については,辞典では,群のユニタリー表現を構成する基本的な方法の一つで,群Gとその部分群Hに対して,Gの表現から出発して,それをHに制限して既約に分解することにより,Hの表現を得ること,とある.「分枝過程」は,互いに他の個体とは独立に増殖,死滅を繰り返す個体集団の状態を記述する確率モデルである,ということである.ちなみに,書は,100円の筆,100円の墨,100円80枚の半紙による作品である.
こういう個所を翻訳しながら拾っていく作業に,しばらくは時間を費やすことになるが,結局,四の五の言わずに,最初から順序良く読んだ方がいいということになりそうだが,あっち跳んだりこっち跳んだり,あるいは,他の本の同じような個所に浮気しながら,パロディ思考を楽しむのも無駄ではない気がする. 量子化された思考は,複素化されそうだから. それにまず,そういう箇所は,量子力学空間,ヒルベルト空間の復習ぽいから.
視覚や聴覚がとらえた対象の親しみが情報を交換するような,あるいは,それらの対象を通じて生成される情報を原子化していくような思考としての論理経路をパロディー思考と名付けるならば,パロディー思考とは,相対性論的量子化された思考の手ごたえの報告のようなものである.それは,「素」思考というべき思考の状態である. てな具合になれば,上々である. 思考のカオスでもありうるのかもしれないが,どっちにしても,木を見ても細胞がみえるわけでもなく,空を見上げても,宇宙線が見えるわけでもないということでは,同じことである. 相対論的量子論では,時空さえ,その意味を変えるわけだから,思考状態という私がいても不思議ではない. 古典論的な世界にいる私の思考という決めつけは,証拠がない. ニュートンの力学方程式で万事考えているという人間が果たしているのか知らないが,多分,いないだろうと思うのである. 補正が必要だと理解できるほどの計算したことなくても,相対性理論ではといいわれると,それ自体は正しいとしても,反論できるほどの根拠ももちあわせない. それに,情報と論理経路という形で,思考の中で干渉しあっているからである. 干渉しあいながらたどる論理経路は,情報の期待予測目録のようなものになるのだろうか. あるいは,親和性を持った対象の継起的な出現から,論理経路が構成されていくようなものなのだろうか.
2023年,初夢ならぬ初絶句
河面展大青 観混流合動
戦思交静観 知不知流向
n次正方行列Aに対する級数 E + A + (1/2!)A^2 + (1/3!)A^3 + ... + (1/ν!)A^ν + .... は,その成分となる級数が収斂することから和をもち,それをexpAで表わす.行列A, Bが可換なら,exp(A+B)= expA expB (指数法則)が成り立ち,それにより,ベキ級数の連続性(アーベルの連続性定理?)からtを実変数とし,F(t) = exptAとおけば(d/dt)F(t) = AF(t)がなりたつ(行列の指数関数,佐武『線形代数』など参照). もともとは,「ヤコビ逆問題」(多複素変数解析関数論) とか変換理論とか総和法が起源にある感じだが,ヤコビとかアーベル,ガロアとかリーマン,ポアンカレ等に引き継がれた数学の系譜らしいのだが(『リーマン論文集』など参照),分枝過程などの確率過程ぽい親和性は感じるが,私のパロディー思考の基礎づけに使えないだろうか? 大層虫のいい話ではあるが,もともと文科系だし,アーベルになろうとか,リーマンになろうとかいう動機はないので,ひょっとしたら,可能かもしれない. あるいは,報道等ではあまり掘り下げた説明はないようだが,変動は当然あるにしても,為替相場の調整や協調のテクニックとして,日銀の金利操作とかの対応に利用されている可能性もある. とはいえ,余程の専門家でなければ解説できないだろうから,バランス感覚なのだろうか.
ウクライナへのロシアの軍事侵略でも,新型コロナでも,何たら教会と自民党の改憲悪用とかその影響とか,バランス感覚がある話とは思えないことも多いが. 半ばれの政治家の悪事が,物事をくもらせているのだろう. 森元総理とか,ロシアの工作裏金で動いていそうな政治家とか,中国や韓国の工作裏金のもいるだろうが,三浦なにがしではなくて工作裏金自民党改憲案の片山さつき議員が裏話としてでも公に語れるくらいにならない限りは,問題は落ち着いていないこととの証左である. ワルは寝たふりするから,様子をうかがってこそりと起きだすものだが,宗男君にはそういう芸当がない. そういう意味では,ギンギンに目覚めたまま頑張ってほしいものである. 根腐れ右翼というかマニラのルフィのような連中よりはましな気がする. マニラのナミとかいるのだろうか. マニラのナミの正体が麻生議員とかだったら漫画もびっくりなくらいになるのだが. 知恵足らずの悪事利用的な不安が広がるワグネルみたいな国会など意味がない. いい年したオヤジやジジイにとっては,なんかそれくらいでないとモエられない. 要するに,政治家は,私設の軍隊あるいは軍隊派遣会社ワグネル幹部なみに,お偉いさんの立場でいられれば気持ちいいわけで,何たら統一教会の目論見どおりになれば国も亡ぶが,うまく一部として組み込まれていれば,うまい汁も吸えるし体裁も付く. それに群がる犯罪集団やメディアにも都合がいい,ということでごまかしごまかしやっていきたいという国会なわけだから,意味あるだろうか. ほとんどばれてるし. どうせアメリカの要求だろうという言い訳もつくし. 私設統一国家のプリゴジンにはなれないが,その手下の立場ならうまい汁だけすえて,リスクも低い茂木とか. そこらの差配が岸田流とか.結局,根腐れしている政治家が安泰なわけだから,国民も安泰である. 私としては,理性ある国民が賢く導いてやってくれと願うしかない. 漫画ならナンセンスも面白いが,現実の政治だ社会だとなると,自民党上級議員の統一教会張りの銭狂いの呆け倒しになるから,うざいはなしになるだけだけだから.
先日,HARD OFFで富士通LifeBookのジャンク品(動作未確認)を3,300円で買ってきた. 電源はいらず,お手上げと思っていたら,付属していたコードのアダプターにつなぐ部分だけ(電源につなぐ方のコードだけ)替えてみたら,整備済みの中古品になった. 欠けている部品もなさそうである. 画面にしみありとあったが,使用上は支障ない. 今のところは,使えそうである.
画面が大きいし,Youtubeみたりblog書くだけだから,しかも,起動しているのだから,贅沢はいえないが,LaTeX(ラテックとかラテフとか読むらしい)とかは入れておくことにする. 気軽さや性能は先に買った中古ノートPCの方がいいので,コードを買い足して,どちらも使える状態になる日を待つことにする. バッテリーが長持ちしないから.
ブルーレイも読み込むし, キー入力も大丈夫そうだし, LaTeXは, TeXstudioで, とりあえず, wikiの設定をみて(詳細設定は行わないほうがよさそうである)設定を完了して, 使える状態である.Emacs(味のある感じになるから)やVScodeは設定がめんどくさくなりそうだから, おいおいということにする.
とりあえず, テフると(とかなんとか)こんな感じである.ちなみに, θラジアンをθ(ラジアン)とかθ rad.とか書くこともあるが, 公式には決まりはない.単にθと書くことが多いということである.これは, 森北出版『基礎数学ハンドブック』からTeXコピペしたものだが, 上記の関係が成り立つことを確かめよ, とか言えたら楽である.倍角の公式とか, 半角の公式とか, 和積(積和)公式とか, 三角関数に関する公式はお馴染みだろうが, TikZというTeXの描画パッケージで, 直接図やグラフをTeXに描かせるのは, 結構, 時間と試行錯誤を要する.
TikZ \& PGF マニュアル(Ver.3.1.10)の序文をかいつまむと,
Till TantauがPhDのテーマとして始めた取り組みは, 現在では, TikZという満開のグラフィクス言語となっている.TikZは, PGF(Portable Graphics Format for LaTeX)というLaTeXのsysライブラリーのフロントエンドである.TikZという名前は, ``GNU's not Unix''を踏襲して``TikZ ist kein Zeichen programm'', 英語に訳せば``TikZ is not drawing program''(「TikZは描画指示プログラムではない」?)という意味の巡回的頭字語である.他にもフロントエンドは幾つかあるが, TikZは, 唯一の本格的なPGFのフロントエンドである.
このマニュアルは, およそユーザーフレンドリーに従った構成であり,TikZのデザインや使用法は、より簡単で頻繁に使うものをまず説明し,難解なものは後回しにしてある.
詳しくないので変な訳になっているかもしれないが, というものらしい.
外観は傷もほとんどない美品である.ジャンク品として高いのか安いのか分からないが, ラッキーである.
こういう幸運は, 宝くじのスクラッチで1万円が2度あたった, あるいは, 自販機でもう一本おまけがついたこと以外あまりないのだが, これはもしかして, 私の無意識の作用で, 自然数が数学的なものから飛躍して, 万札にあるいは缶コーヒーとなって現出したといってもいいのではないのだろうか.自然数は, 素朴で, 経験的な親しみも抜群だが, 素数をめぐる考察などを経て数学的に重要な位置にあると思うのだが, 反面, どっか数学的には孤立していて, 理論的にも整数論あるいは複素数論の傍らに取り残されたもののような感じだが, 見方を変えれば, 案外, 数学的な飛躍を秘めた存在として留保されているのじゃないか, という感じもしなくはない.その無意識のエネルギーが, 万札や缶コーヒーとなって, あるいは, ジャンクPCの当りとなって, 私の前に現出したのではないか. まあ, ラッキーなことなら何とでもいえるのだが, 感慨深くする.自然数は, 朝永『量子力学的世界像』にある量子力学的な「あるもの」を意味するウェーヴィクル(wavicle)のようなものなのか, どうなのか? などというような.
実際, このジャンクPCは新古品という感じである.テンキーの割あての切り替えもネットのトラブルシューティングですぐに解消である.さて, 他愛もない報告はこれくらいにして, 積み残したテーマは山ほどあるので, 困ることはないが, 積み残すだけあって, 思うに任せない面も多々あるが, おいおいまとめていくことにする.
個人的な記憶なのだが, 日本経済のバブル前夜なら, 白のロールスロイスの銀行詣だろうけれど, トヨタのクラウンの年代物の有力企業や大学詣では, 誰なのだろう? 詣でなのか, 「お成り」なのか知らないが, 案外と有名な人物かもしれない.知らないなんて, その筋じゃもぐりよ, といわれそうな有名人かもしれない.ちょっと, 気になっているところである.やくざ本のネタにはなりそうであるから.
私には,意外と,そういうことには天賦の才能があって,例えば,山口組4代目かの母子の東京詣でとか,ロールスロイスとかクラウンのカクカク年代物とか,そういう車とか,サムエルソンのお忍び来日を羽田で見かけたとか,岸恵子と電車に乗り合わせたとか,松田聖子を渋谷駅で見かけたとか,まあ,見かけただけなのだが,不思議と時代の節目の象徴的な場面に遭遇する. これは,天賦の才能とは言わないのだろうか.
低金利政策はインフレ政策だから, インフレ(一般的な物価水準の持続的上昇)を本当にコントロールできるのか, あるいは, うまいことヘッジを調整できるのかとか, 例の経済学小辞典でみると, 経済理論的にはそこらが本流なのだろうけど, ハードオフで掘り出し物をえることができれば, ちょっとしたギャンブル感覚とお得感で, 経済理論も何も吹っ飛ぶくらいの経済人になれるきがする.インフレには所得インフレとか利潤インフレとか, コストインフレとか需要インフレとか, 物価上昇の速さによってクリーピングインフレとかハイパーインフレなど, 様々あるということだが, ギャンブルは意外と欲求を我慢したりシフトさせたり, 新たな組み合わせによって生じる利益に切り替えたりすることを要求されるめんも生じるから, 正統派の経済評論家のとりあえずの言い訳より, プチ体験学習効果が高いのかもしれない.
経済問題は, いつもそうな感じがするが, 経済理論が経済非理論と混合しながら, それでも, 一方向に流れていくのを, 経済評論商売の一時しのぎのために, カモな一般聴衆を洗脳していくやり口にみえる.外れようとどうだろうと知らんぷり決め込める.そして, 自分たちのオリジナルのように見せかけながら, 欧米の信頼筋の見解を後追いし始める.やくざカルト評論の方が受けがいいということになるが, 量子コンピュータやAIの話題なみの期待感も与えないと, 時代遅れと揶揄される.バランスである.うまくやればやくざ本はまだ売れる期待がある.ロシアが西側の分断をはかって, 自分たちの有利性を宣伝しても, 反応が薄いのは, ロシアの西側幻想に基づく決めつけがまとはずれだからであって, そんなこと馬鹿でも知っているが, それでもそれは違うことは馬鹿でも判断できることに, ロシアが自国の鏡にしすぎているせいか, うっかり気づかずにいることを気付かないからである.日本では, 保守系のカルトご都合主義体質のようなものである.何たら統一教会思想が, カオスな日本の共通の理想基盤であるともてはやしてた時期もあったではないか.島田(田島)陽子の乙女チックな人間関係や国家関係の桃源郷のようなものである.経済問題なんてものは, 所詮, 旧体質の体制的な保身保護主義のためのものだから, 欧米やソ連, そして中国の権力の既得権の町内会広報のようなものである.中国もロシアも騒ぐ割にはスケールが小さい, 小物のカルト膨張的な感じがするのは, 核があるからなのか.
例えば, 所得速度て何なのかとか, 総需要が総供給を上回るとか, 需要の部門間移転(シフト)てどういうものなのかとか, むしろ, 企業側が把握できないから, 弱者へのしわ寄せ議論で隠蔽しようという感じが蔓延り出すのではないだろうか.これも, 経済問題は経済弱者の経済問題からの疎外ということにもつながるわけである.経済問題と言いながら, 意図的にかそもそも理解不足なのか, 受け狙いなのか, 言ったつもりやりたいのか, そういう都合のがれきの集まりような論調仕立てるのが多い気がする.経済問題の下方硬直性はカタストロフ(catastrophe)しがちだし, しやすいのであろう.量子AIがあれば, 即効, 問題は解決して, グダグダ論議も不要になるかもしれない.ロシアもカルトが蔓延っているという話はずっと前にあったが, 日本も韓チョンカルトの日本支配なんて理想を自公が掲げているというので, なんか, マッチしている感じがある.温存を図りたい森喜朗とかの一派が暗躍しているのだろうか.口先穏健派的な, カルトのお出かけ服と腹黒さが自然に身についている最近の論調は, 年寄りの時代遅れの感覚なのだろうか.島田陽子は永遠である, てえのは, 逆に, 年寄りにしかわからない感覚だろうけど.
メモリー,HDD無しのTVパソコンを1,100円で購入したが,ようやく,HDDとメモリー1GB二枚を手に入れたので,ギリギリ,YAMAHAの音源で音楽を聴けるところまではきた.すぐに故障するかもしれないが,雑味のないサウンドを堪能することにする.Windows10は,別のpcでHDDに入れて,そのHDDをそのまま取り付けたら立ち上がったので,両面テープで貼り付けたまま使っている.
フォークソングとか,キャンディーズとか百恵とか昌子とか,一部演歌とかまでで,明菜あたりからさっぱりわからなくなっている私には,「拝啓のこの手紙・・・」とか「桜舞い散る・・・」とか,ぼっそっといわれても, 売れそうな曲のイメージはあるが,到底歌えない.
この白いページのなかに,パロディー思考の記憶を残そうというつもりだといってしまっていた記憶はあるが,ちょっと,忘れてしまっていた.
こういう年代なので,新型コロナで行動制限が緩和されたとか,活気がもどってきたとか,気分的には判るが,一方で,世界経済の混乱がみこまれているとか,ロシアのウクライナ侵略で,日本はグローバルサウス(地球規模の南という分断なのか磁極の反転の新たな地球のとらえなおしなのか,よくわからないが)以上に,成り行き任せとか,まあ,一部言論メディアが煽るほどのことは,そうそう期待できるものでもないのだろう. 言論メディアのほうもちょっと信頼ならんのも多そうだし,冷静に見れば,韓チョン北朝鮮バリのカルト支配を国是とする安部自公や野党とはいえ,さすがに森喜朗元総理のようなのは少ない. 口うるさく議論立てても,カルトやロシアの思うつぼ的な感じもしなくない. 早稲田の北朝鮮弁論閥の神輿の森元総理だからだろうか.
ロシアが第3次世界大戦を,ということは,ロシア自身の崩壊を人質に,世界の分断を利用して,中国とも渡り合いながら,ロシアの威光を維持していくのが決定的に困難となれば,ロシアも理性的な交渉のテーブルに着く可能性がひらけるだろうか.折角なので,グローバルサウスも中立的に中ロの政治軍事的干渉にはノーという態度を宣言するとか. 実際,それは,欧米NATOの参加なしでもいかないだろうから,ロシアの表向きの都合より,重要な気がする. 岸田首相のエジプト訪問でそういうことも期待されているようだが,当然のご挨拶なのだろう.
私のパロディ思考の展開を図る参考のために,『意識と本質』(井筒俊彦著,岩波文庫)にある,本居宣長の「をこごと」と「物のあわれ」の本質論を解説してある箇所について,パロってみたくなる. 物の本質を極めようという,あるいは,仏教的本質を極めようという生臭坊主の詭弁は,確かに,「をこなれ」であろうが,政治家の計算能力のようなものだから,俗にいうアンチ,打算で物事を偽って敷衍しようとする,おもてなしパーク君とか,電通とか,森元総理とかが必ず現れる. 決まって,「法律に背いていない」という習わしなっている. それはそれとしても,「花の心を知る」とか,「木の心を知る」とか,あるいは「私自身の心を知る」とか,「水のせせらぐ音の心を知る」とか,「視界に開ける空間の分節された見え方の心を知る」とか,直接無媒介的直観知といっても,その不徹底性が,「前客体化的」具体性を通じて,「本質」の二元性を峻別する. 本質をはっきり意識的,方法論的に分けて,二つの本質を「マーヒーヤ」(普遍的リアリティー)と「フウィーヤ」(個体的なリアリティー)という術語で区別する哲学伝統が「イスラーム哲学」である,とつづく. 「いかなるものにも,そのものをまさにそのものたらしめているリアリティーがある」=「本質」と簡単に置けない何かがあるのか,回りくどい気がする. 哲学者ぶって言えば,「リアリティーとは何ぞや」てな感じだろうか.
本質に浮遊した存在が人間なのか,人間に分節され浮遊する存在が本質なのか,どっちやねん的な,ポエジーの波紋を眺めている感じもしてくる. 揺れるススキを見たから,夕暮れどきの道で一瞬ぎょっとしたのか,ススキだと薄薄わかっていたから,光って見える木の葉の一つが切通の壁に存在することを知ったのか,「Xは,一瞬ぎょっとする感情を結晶するものである」なのか,「Xは,光る木の葉の存在を予定するものである」なのか,なぜ「X」はそのように現れたのか. 私の経験的には,こっちの方が謎である.
芭蕉がフウィーヤの立場を徹底して,あるいは,その危うさをあるいは知ったうえで,退廃したマーヒーヤを拒絶する立場を貫き,「物の見えたる光」の開示を感性することで,マーヒーヤをフウィーヤに変換する. ものの「本情」が開示される瞬間に立ち会う的な感じだろうか. 「一期一会」とか「不易流行」のほうがわかりやすいのかもしれない. 私のパロディ思考の変換理論に使っちゃおうかなという誘惑を感じる. ゲシュタルトチェンジといっても,「ゲシュタルトは全体である」だっただろうか,記憶がはっきりしないが,私のパロディー思考は,全体なのかどうかもわからない代物だから,「変換」ということでもいいのではないだろうか.
私のパロディー思考は,類型化も階層化もされていないのだから,座標軸の原点のように考えることもできない. 縦にも横にもかからない. ラマルメや宋儒にみられる本質追及の件(くだり)は,裏返された究極から再び自らを「意識しているもの」にする,うっすらとしたグラデーションのようなものにしか感じない. 「あそこに咲いていた花の本質は,意識するものになった私に再来することであるが,存在を予定されているのは,光ったように見える木の葉である」. まったく関係のない「本質」と「予定」が矛盾的に結びつているような意識主体に私を再生している感じなので,困ってしまうわけである.
「おい. ススキの俺を忘れてるぞ. 考えてもみろ. 俺が,どうだ,びっくりしただろうと言わずに,光って見える木の葉にお前は出会うことになると言ったから,お前は,その木の葉の存在の予定性を知ることができたのじゃないか」と,ススキがいったかどうかは定かでないが,そんなことは,神ならざる身にはわかりようもない. もちろん,「原子論」と「因果律」をめぐる形而上学的な論争のくだりを,パロってみたわけだが,現代科学でも,原子の規定を少し違った形にして,因果律の成立しない領域まで突き進んでいるということや,「荒野に呼ばわるものの声」とか,聖書の解釈にもつながりそうだから言ってみたのだが,あるいは,ススキはそういっていたのかもしれない. 聞き洩らしていたが.
しかし,ススキがそう言っていたとすると,ちょっと無視されていたススキの存在は,再来した花や光って見える木の葉と同様に透明に感じられるものになる. 私自身は,「本質」と「予定」の矛盾的な結びつきに金縛りにされているような意識主体となる代わりに,ススキのちょっと無視されていた分節を透明な次元で復活させてやることができたことになる. めでたしである. (x,t)ではなくx_1t_1, x_2t_2, ・・・の透明性のような分節次元の変換をかんがえればいいのだろうか. 「X」はススキである. が,ススキ自身の言葉で分節された世界にあるススキである. ということだろうか. 「私(ススキ)のおかげで,お前のパロディー思考は,分節次元の変換理論を手に入れたことになる」と,ススキが言ったかどうかは定かでないが. 有-本質的分節から無-本質的分節への次元変換,分節(I)から分節(II)への次元変換ということが述べられていたので.
「花が咲いていた」こと,「木の葉が光って見える」そして「ススキにぎょっとする」ことは,半透明なイメージを喚起されるのだが,「花が私に再来する」こと,「光って見える木の葉が予定される」こと,そして,「ススキ自身の言語で分節されたススキ」をパロールすることは,半透明としての私の再生と透明性の網の目のような言語世界との往還のようなものである. そのような往還の間に,私は,幾ばくかの距離を歩いたわけである.
まったく個別偶然的な出来事を構造化するような構成を語ることになるのだから,まったく透明な意識主体では,却って矛盾することになる.
「'a」は,存在分節の幾ばくかの距離を表している,ということにすれば,「'a(p,q,r, .......)」は「~(p,q,r,......)」, つまり,p,q,r,......に往還する距離を表していることになるのか,単に,「~p, ~q, ~r, .......」をまとめて書いた記号に過ぎないのか,なんてことは,「V」とか「Λ」とか「→」とかに,距離的差異を設けることなのか,論理価の変換則を示しているだけなのか,という疑問を,「そんな疑問に意味はない」という非分節的分節を定位することで,疑似的に母型化するだけのことなのか. 母型といってしまったが,「存在の「元型」的分節の基礎単位,あるいはそれの喚起する根源的イマージュ=「セフィーロート」の構造体系」という意味の「元型」とするべきであろうか.
空海の真言密教の教え,「阿字真言」とか「阿字本不生」とか,根源的イマージュである大日如来の言葉こそが,絶対無分節者の存在分節エネルギーである,とか書いてあるようなので,この距離は,大日如来の言葉のどこらまでの派生にある距離なのか,神仏ならざる身にはわからない. しかし,神仏ならざる身であればこそ,ススキ自身の言葉で分節されたススキを,私のパロールが構成する構造として分節しなおすことができるのじゃないか,という感じが生じるのである. 私のパロールは,そもそも,歴史構造体である,てな感じだろうか.
「「ア」(a-)はサンスクリットでは否定を表す接頭辞である」. 「「アーレフ」は,神的言語そのものの初点,すなわち世界創造に向かっての神の最初の動きを表示する. ・・・. 空海の阿字真言にならって,「アーレフ」真言と名付けることもできよう. だが,「ア」は一個の母音. これに対して「アーレフ」は「ア」という母音そのものの発音を起こす開始の子音である」. 「ラテン文字に転写するときは,例えば 'a のように,印を付加してそれの存在の指標とする」. というようなことが書いてあったので. サンスクリットは知らないが,また,「アーレフ」と聞くと,オウム真理教の分派を思い出しそうであるが,私にとっては,「ススキ」とのディスクールのようなものである.
そもそも,私のパロディー思考が生み出したディスクールなので,自己つっこみどころは満載であるが,例えば,「ススキ自身の言葉で分節されたススキ」とは,ほんとに,「その木の葉の存在の予定を知らせてきたススキ」なのか,「光って見える木の葉といっても,それは,たまたま,光線の加減で,たまたま,ススキと話した気分の私に「予定性」として印象付けられただけではないか」とか,「再生された意識主体としての私に再来したあの花」も,たまたま,何を思ったか,思い出しただけじゃないかとか,まったく,その通りなのだが,それじゃ, 事実として,私以外の人間には,全く体験されることもない妄念なのかといえば,そうとも思えない. 曼荼羅をみても,へたくそなデザインだなあとか,どっちかというと,有名画家の水墨画の方が値が良さそうだなと,私は感じても,大日如来を象ったご本尊ぽい絵を鎮座させている仏壇もあるじゃないか. 神仏以前の可能態としての神仏を見るか,所詮,神仏の本質的無を見るか,曼荼羅を見て,私は,正直いって,そういうことを感じたことはないのだが,ススキとのディスクールなら感じたことがあるということを言ってみたかったのである.
元型リビドー(深層的エネルギーということなのか深層心理的な活力ということなのだろうか)に流された流動するディスクールとしての「数体系」なんて考えたら,足し算とか引き算はとにかく,微分とか,積分方程式とか難しい数学に心理的摩擦が生じそうで,理系向きではなさそうな気がする. だが,案外,信心深い理系プロパーは多いらしい.
ユダヤ教の宗教改革にあたりそうなカバリズムの術語である「セフィーロート」,「神の内部構造を原初的に規定するそれらの「元型」をカッバーラーの術語で「セフィーロート」という」. 根源的な諸元型の連関的構造体系といってもいいのだろうか. そういうものとして,曼荼羅と同様なものである,ということらしい.
「絶対的無、無そのものとしての無、ではなく、限りなき有への展開に向かってのーーーしかし、まだ展開が現実にはまったく始まっていないという点では、依然としてそこには一物の影すらないーーー無。すなわち、無限の展開可能態としての無、それが「エーン・ソーフ」である。・・・。まさに真言密教にいわゆる「本不生」。・・・。絶対無分節者が自己分節し、未展開の有が展開するとき、その展開の第一次的段階で、すなわち経験的世界が出現してくる以前の段階において、有は先ず「セフィーロート」的構造体として現出するのだ。」それは,表層意識的にしかとらえられない者には,ファンタジーに過ぎない。私は,ススキとのディスクールの流動までは感じているので,ちょっとリアリティーを感じさせるファンタジーといったところだろうか,どうだろうか.
ヤハウェとか大日如来とか,所詮,突き詰めれば,ただの無に過ぎない. 例えば老荘思想などとかのそういう立場に対して,「根源的元型」の連関構造体に規定された「無」から「有」への分節を,深層的に多層構造的にとらえる立場について語られているくだりを,天にも昇る飛翔体験(シャーマンや霊媒師の霊的体験らしい)のない私のパロディ思考の,ピエロ的な風景描写として,物語ってみたわけだが,「深層に向かって幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの諸層を体験的に拓きながら、段階的に移り変わっていく存在風景を追っていくというところに、」イスラーム自身をも含めて、東洋哲学一般の一大特徴がある,ということらしい.
科学なら,公準とか定義とか定理とか,現代論理学なら,そんなことには無頓着とか,そいう風景と哲学的風景の混然とした感覚が悩ましく感じるところであるが,そういうことにも,ある意味,無頓着な私のパロディ思考の風景という感じだろうか.
私の風景は,当然,神仏でも高僧でもないので,絶対無分節者の本当の姿など知りようもないが,セフィーロートとか曼荼羅に示される,根源的元型の連関構造体と絶対無分節者の本当の相互関係などは見えようはずもないが,「場の量子論」という物理の理論とのアナロジーをみることはぼんやり出来るかもしれない. 「物体やエネルギーの離散性と原子レベルにおける時空の連続性が両立することは,非相対論的量子力学における第2量子化の形式によってもっともよく示される」(湯川著,「原子論と空間・時間の分割可能性」)ということから,あるいは,根源的な地点からいくばくかの距離に実在する世界の風景を見渡すことは出来るかもしれない. 場の量子化あるいは第2量子化というのも,真空の縮退だの,粒子の生成消滅だの,その内的構造は怪奇に満ちていそうなことが書いてあるので,案外,似たような深層的な類似性があるのかもしれない. 直訳的に,「ますます増加する粒子や共鳴粒子は,特定の場をいわゆる基本粒子(素粒子)の各々に起因するとする便宜的なスキームを認められないものにしている.」そして,ほんのいくつかのいわゆる素粒子だけを基本的なものとみなし,その他の粒子や共鳴粒子はこれらの基本粒子の複合系であるというモデルの模索'(例えば,坂田理論とか)から,クォークモデルまでに至る. ここらも,最終的なものではないにしても,宗教哲学的な根源風景との類似を感じないだろうか.
古代ギリシャの原子(atom, atomos)のもつ3つの属性は,不可分性(それ以上分割できない),恒常性(生成消滅しない),空虚に対立する実体性の3つであるが,素粒子は,例えば,生成消滅を認めなければならないのだから,その属性のままでは,古代の原子という概念には当てはまらなくなるわけである.
「アイソ空間での回転対称性を荷電独立性という.」「スピンが空間における対称性と結びついてよい量子数になることを踏まえて,アイソスピンでもアイソ空間での回転について系が対称なことと結びつく.」「新粒子の発生に関与する強い相互作用は,アイソスピンを保存するよう,いわゆる荷電独立性の性質を持ち,他方,新粒子の崩壊に関与する弱い相互作用はこの荷電独立性を破るものとされた.」そうすることで,中間子や核子と共鳴粒子などの新粒子を区別するストレンジネス(奇妙さ)という新たな量子数が発見された. (岩波講座10,『素粒子論』)
いわゆる素粒子のズーロジーとか,新たに発見された粒子の奇妙な性質を説明するための理論であろうが,感じとして,セフィーロートと根源イマージュ(ヤハウェとか大日如来とか)のくだりに似たものを感じるわけである. 奇妙さとかチャームとか,アップとかダウンとか,トップとかボトムとか,奇妙な問題に直面する度に,理論的な対応を考え,新たな量子数を整理していく感じだろうか. 根源イマージュ自身の奇妙さがセフィーロートの交通関係とどう関わり合っているのか,規定し規定されるものの霊妙な相互関係はどうなのか,セフィーロートや曼荼羅を見てもよくわからないのであるが,私のパロールは歴史構造体であるのである.
不変性と対称性について,根源イマージュとセフィーロートの関連では,根源イマージュの無限の能力をとりあえずフェードアウトして,セフィーロートという連関構造体の規定を受けるものとされているようだが,セフィーロートという根源的元型の連関構造体には,生成や消滅,ある種の変換において不変であるような普遍性の間の関係の一種独特な飛躍を経て描かれている感じがする. 現代物理では,重力子やHiggs粒子にあたる,ゲージ不変性やヒッグズの機構(対称性)にまつわる話に類似している感じがする. 根源的元型の根源的不変性の破れに起因する対称性であるわけだから,根源イマージュの被規定性も結構えぐいわけである.
私のパロディー思考の経過を辿ると,「その思考は論理の破綻を蔵している」という,ススキならざる者の否定が出現してくる. では,その破綻はどこにあるのかと問うと,「あそこら辺に浮遊しているものである」と指示してくる. とすると,ススキと予定された木の葉の道行きの中間あたりかと,歩いて行ってみる. 「何もないじゃないか. 感じだけは残っているが.」でも,論理破綻の場所は,ここの地点より以前のどこかになくてはおかしい. 彼の地点は一体どこだったのか. そもそも,なぜ,私のパロディー思考が,論理性を持っていると決めつけられるのか. 思考の知覚と論理性の道行きの経過は本当に存在するのか. お前の思考はあそこら辺に浮遊しているものによって破綻をきたしていると指示されて,すぐさま,どういうことかわかるものなのだろうか.
「ところが存在がかく普遍的なものであるのは,媒介態ないし否定的なものを具えることによってであるが,存在がこの否定的なものを表現するのは,その直接態においてのことであるから,存在は他から区別され限定せられた一つの性質である」(金子武蔵訳『精神の現象学』)
存在は自由性である. 私のパロディー思考は,語らいであり語らいを我が物にしようと欲する限り不自由である. そこでは私の自由は無であるが,自由性を保存した無である. というと,「私は神である」と言ってるのと同じことになりそうなので,「神オシではない」オジイである. 要するに,未だに論理破綻した場所がわからない. というより,どういう論理性なのかわからない,というわけである. アウフヘーベン(止揚),否定と保存,の瀬戸際で微睡んでいるのか飛躍しようとしているのか,「日常間断なき生活であり営み」の惰性である.