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人生これ,雑記.

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思考する身体の予視体験

2010-05-24 08:58:27 | 日記・エッセイ・コラム
スポーツの名選手は,そのスポーツのルールのなかで,ときとして,数十秒かの未来の自分の布置状況を予視するものなのだろうか? 選手が,そのような能力を発揮して,技を決めたものをスーパープレーと呼ぶのだろうか?

私は,もちろんスポーツの選手でもないので,そのような体験は,ありふれた生活状況での体験としてしかないのだが,実際,それが予視や予言的なものであるかどうかは保証できるはずもない.スポーツ選手のスーパープレーも,練習や試合の経験の上に,その時々の可能な状況のなかから戦術上の合理性や技能などから選び出されたもののイメージ化なのかもしれないが,その選び出し方が独特なのかもしれないと考えればいいのかもしれない.ルールは技を生み出し,すぐれた技は,ルールの内実となるという感じだろうか.それにしても,予視していたとしか思えないような,技も実現するのではなかろうか.

私は,よく同じ夢を見る.覚えている夢では,山の峯づたいの細い道を辿りながら,いつしか,その道が円環となってぐるぐる同じところを歩いていると思うと,扉のついた壁が道を塞ぎ,開けてみると,何故か,もと来た道を振り返っている.もう一度開けようとするが,どういうわけかもとの道の方へ視線は向いている.別な夢では,路地道をあっちに曲がりこっちに曲がりしているうちに,不思議と明るい,元の場所に立っている自分に気付く.そして決まって,そこらで目が覚める.胃腸の調子かもしれないと思ったりもするが,しかし何故か,夢の非連続なシーンの連なりは堂々巡りの感じが残る.堂々巡りで終わると,やはりその先が気になってくるが,どうもその先は,夢の記憶として残った堂々巡り感に引き継がれているらしい.あるいは,床に落ちた瞬間の身体の暗い感覚でかき消されるかだろうか.夢を語ると,自分の無意識のスケベ根性を晒すようなものだという見られ方をされそうだが,スケベ根性ぐらいなければ生きていけぬというのも一方である.


フランス語の「r」の発音は,私には,喉のあたりでその前の音をとどめるように塞ぎながら,「f」を空中に吐き出すような感じに聞こえるのだが,聞こえ方は,人にも依るのだろうか.発音記号だとrは[ε:r]なのだが.私の夢も時にはむさくるしいだけでなくて,見知らない若い女性がでてくることがある.見知らないといっても,おそらくどこかで見かけているのじゃないかと思うが,おもいあたらない.海岸で,親子連れらしいなかに若い女の人がいて,潮干狩りか,海藻のようなものを採っていたのか,少し遠目で確かめられなかったが,その女性が,空中に動いていったかとおもうと,オーラをまとったような感じのメッセージをおくってきた.どういうメッセージかはわからないが,その雰囲気が何ともいえない.フランス人は,もしかしたら,「r」の発音の中に,そんな機微を感じることもあるのだろうか.「歌は心のバイブレーション」とかだれか言っていたような.


予視(pre-vu)とか既視(deja-vu)というのは,多分,心身合一の両義性のもとで開ける,全体性としてのカオス=コスモス(混沌=秩序)が潜み込んでいる次元での,時間性のことなのかもしれない.それは,成就されるべくあるものではあっても,ひとが己の存在状況をとらえ直す生活の営みを実践することでしか開けてこない地平なのかもしれない.『知覚の現象学1』の「表現としての身体と言葉」にある「私とは私の身体である」から推察すれば,a-voirは「voirが<私>をもつ」ということであるとすれば(sa),voirにまなざされる私の布置が,開示された自然へ下ろされた錨のように,あるいは,複雑な流線の層が整然と並べられた点の如く往還する運動の挿入がそのような時間性を生きているのかもしれない.


価値とか貨幣とか資本とかのそもそもの「自然的表現性」ということが問題となるのかもしれない.これで,必要なことは足りるであろう.しかし,経済用語は注意して語れなければ,詐欺まがいの経済コメンテータなるものの嘘話に利用されるおそれがある.機密費問題にみられるように,メディア法人自体が機密費や税の横流しで成り立っているようなものだから,足りんチョン+詐欺銭チョンスリの演出になるわけだ.それとヤク密売のなんとかショップという組み合わせは,メディア法人以外ないではないか.メディアの裏にチョンスケヤクザ関連の裏官僚機構があって,世間蔑視の傲慢が透けて見えるわけだ.経済損失のつけはそういう連中に負わせるべきものであって,仕分けとは,本来そういう隠然たるゆがみを是正して,有効な政策を機能させる土台を作る目的のものでなければならない.しかし,例えば,金融の健全性や安定性を維持し,対応するために法人の準備金の積み増しを要するという理由で,消費税率の引き上げや,中間層以下への税負担の加重を主張するだけのご都合話をサクラ一般人を仕立ててごまかすやりくち.本来,経済の理論的,実証的な裏付けなどどうでもいいという話ではないのか? といっても, 裏金出すのにそういうまともなやつでは困るということも当然出てくるはずであるが.しかも,日本のアカデミズムなるものは,少々人のよい悪人なのか共犯している.つまり,消極的を装った悪事加担者である.


物理についていうと(あくまで素人の感想ということで),解析力学は,デカルト座標(x,y,z)とか(x(t), y(t),z(t))とかその時間微分とか出てきて,また一般座標とか一般速度とか,ラグランジアンL(q, dq/dt,t)とか,変分原理とか最小作用の原理とかでてきてという構成の感じが,なにか見えない<関数関係>がそうしむけている感じとでもいうか,いわば<メタ関数>の中で構成されていく実在のような感じがする.力学系の決定と慣性の法則の成立が指向されているということだろうか.とすれば,慣性の法則というものが,空間の一様性・等方性および時間の一様性を保証する基準系の存在を主張するものであれば(ランダウ・リフシッツ『力学・場の量子論』ちくま学芸文庫),慣性系のない系(時間と空間が真に同等な世界?)が,見えないところで絡み合って,あるいは,ボーアの対応原理という神学的な方法---それは同時に古典論の真の限界から量子論への飛躍の架け橋であるが---に未知の可能性が見出されるということでもあるかもしれない.  そのような未知の法則世界の,例えていえば,比例式は,<素数>の別名ではないかという感じが何とはなしにしてくる.


参考: ランダウ・リフッシッツ『力学・場の理論』から : 「Landau01.pdf」をダウンロード




参考:
市川浩著『現象としての身体』勁草書房
丸山圭三郎著『生の円環運動』紀伊国屋書店
メルロ=ポンティ著『知覚の現象学』みすず書房




論理におけるアプリオリとアポステリオリ

2010-03-05 23:15:11 | 日記・エッセイ・コラム
ガウスの非ユークリッド幾何について(『新幾何学思想史』をもとに)
・曲率やモジュラー関数(κ)にみられるように,1/x(x→∞)は,なぜ離散的な素時空の運動法則に導くのか? あるいは,対数の考察.
・ユークリッド幾何と非ユークリッド幾何の相違は,論理的判断のプラットフォームのような位置を占めるのか?あるいは,そのように,論理学は体系化されているのか?
・論理的アプリオリであると同時にアポステリオリな本性との関連の体系的展開は,実際,十分完結的であるのか? 生命の問題,相対論的量子時空の問題.
・連続の合成(la composition du continu)という迷宮---それ自身拡がりをもたない不可分な点をあわせて連続を作ることがどうしてできるかという問題(ライプニッツ『形而上学序説』河野与一訳,岩波文庫)---E=mc^2


これらは,『新幾何学思想史』に述べられている内容をもとに浮かんだ考えや疑問を列挙したものである.こういう議論が公式にあるということではないが,なくもなさそうな論点のような気がするという程度のものである.もちろん,列挙すべきことはこれらにつきるものでもないだろうし,また,そもそも基本的な事柄を絡めているのだから,くくりが大きすぎるかもしれないが,考える手がかりとしてまとめるということである.そこから詳細に考えを及ぼしていく手掛かりをみつけていけば,一応,その本を読んだことになるのではなかろうか.


ガウスと論理学の関係は,あまり聞いたことがないが,「知者不言,言者不知」ということでもないだろうが,ガウスの考察が論理学の根底で展開をつづけていると考えれば,一応,合点はいく.これもアルキメデス的ダイモンのあり方なのだろうか.


* 「言語が思想に及ぼす影響は,遠い昔に老子が「知者不言,言者不知」と喝破してこのかた,賢愚の別なく,ひとしく人々の注意をひいてきた問題である」オグデン/リチャーズ『意味の意味』, 新泉社. ざっーと読んだだけなのでなんだが,「例えば,「犬」という言葉と,われわれがよく街頭でみかける動物(犬という物)との間には,何ら直接の繋がりは存在しないということ,および両者の間にある唯一の関係は犬を指すときにこの言葉を用いるということだけであるということは改めて述べるまでもない.しかしながら,言葉と事物との間に直接の意味関係があるという従来の定説が表す一種の単純化こそは,われわれが物を考えるとき遭遇する,ほとんど一切の困難の源である」.「心身問題」の感じもあるが,脳のある部分が,アプリオリでアポステリオリな暗号体系への変換器の役割をもっているとすれば片付くのだろうか.デカルトの「我惟う」とは,その変換器を活動させるための場を準備するような感じだろうか.ヒルベルトでは「机,椅子,ビアコップ」とか,私なら,なんちゃって「すすき,木の葉」とか.実際は,「すすき,木の葉」の思考の場と少しずれた場に移行しなければならないのかもしれないが.

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老子 五十六章 「和光同塵」,『中国の思想 老子・列子』徳間書房

 知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故為天下貴。


兌(たい)---穴。目、耳、口、鼻の類。

門---物事の入り口。通らなければならない大事なところ。

鋭---さとい,かしこい。武器、強い軍隊。

紛---みだれる。まぎれる。まがい。まぎれ。多い様。旗のふき流し。

『新字源』角川書店より。

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*「しかしながら,アルキメデスはきわめて高い賢慮と非常に深い精神とあのように広い理論的知識とをもっていたので,人間というよりむしろ,どこかダイモンを思わせる包括的な判断力をもっているという名声や評判を発明によって得たけれども,---」(「アルキメデスの科学」『ギリシアの科学』世界の名著)




メタモルフィと斷綴り --- 形態制御と暗号の暴走

2010-01-02 15:11:09 | 日記・エッセイ・コラム












2010年のテーマの一つは,タイトルのようになろうか.一知半解なタイトル付けではあるが,そう的外れでもないのではと思う.

目論まれた展開に対して,見えないものへの予感(ずれ)を感じるとき,「なぜ」と発し,そういえば「あの時」と振り返る.これは,私が唯一,生命としての私を自覚する情景描写である.気分的には,ロバチェフスキーの「力にすべてのものが密接に結合されているが,その結合の本質はわれわれには分からない.だからわれわれは,相異なる種類の量の相互の関係には,それらの比例関係だけがはいるのが許されると,主張もできない.比例関係への依存を許すならば,われわれは直接的依存関係をも何故に仮定してはならないのか」 (これは,三角形の角が辺の比に依存するというユークリッド幾何学のみを必然的真とする独断的主張に対する批判であり,角に辺が直接に依存する非ユークリッド幾何学の可能を主張しているのである.近藤洋逸著『新幾何学思想史』,ちくま学芸文庫)という発言にインスピレーションを感じる.しいていえば,オイラーの虚の対数の無限多価性の発見などにも類似の思いがあったのだろうか(参考:高瀬正仁著『無限解析のはじまり』,ちくま学芸文庫). 仮にそうだとすれば,現代的解析や非ユークリッド幾何学の創始には,創始者たちの「生命としての私」との対峙の苦悩が反映しているようにも感じる.ひいては,リーマンやアインシュタイン,あるいは量子力学へ通じる「生命」への対峙として,記憶されているようにも思える.

ところで,「形態」と「形質」では違うが,「肺炎双球菌には,顕微鏡下で菌の表面がなめらかに見えるS型菌(Smooth, (ネズミに注射すると肺炎を起こす)病原性がある)と表面がギザギザになっているR型菌(Rough, 病原性がない)があるが,二種類の菌をそれぞれ別に培養しているときに,S型菌の細胞の抽出物をR型菌に与えると,S型に変わったものが出てくることがある.この現象は形質転換と呼ばれるが,この形質転換を起こす細胞抽出物をDNAを分解する物質(デオクシリボヌクレアーゼという酵素)で処理すると,この現象が起こらなくなるということもわかってきた.このことから,この形質転換を起こす物質はDNAであろうという推論が頭をもたげてきた.」(三浦謹一郎著『DNAと遺伝情報』,岩波新書)には,類似したものを感じるが,専門的なことはわからない.

※ たしかに,パイナップルをコーヒーに入れと,パインもコーヒーも旨くなる. コーヒーは味が少し上品になり,パインはコーヒーと意外に合うという発見に浸されている.

経済変動の非周期性に表される資本主義の自由主義的沈静,また,歴史的社会発展の停滞性の外観の中に非連続的で多様な契機が醸成され,歴史的な時代区分をなすまでに沈静した動態とは,どのような波動なのだろうか?

「現在」を分析するのに,「過去」や「未来」は必要でない.しかし,それは,「過去」や「未来」を破壊的に創造する真実性を必要とする.その真実性を波動的観点から検証するということだろうか? 参考までに引用すれば,現代思想をマルクス主義,実存主義,分析哲学とういう3大潮流に分類することに関して,
マルクス主義 <---> 現代 <---> デューイ
実存主義 <---> 過去 <----> ジェイムズ 
分析哲学 <---> 未来 <---> パース
という対応を示した上で(デューイ,ジェームズ,パースは,プラグマティズムを代表する三人),「実存主義と分析哲学のあいだには,前者が人間性の非合理的ないし情緒的な側面に深くかかわるのにたいして,後者は主として人間性の合理的ないし理知的側面にかかわるという一種の相補性が認められるが,両者は人間という生き物の個体内の精神的過程をもっぱら考察の対象とする点において軌を一にしており,その点で,人間の個体間の社会的過程をもっぱら考察の対象とするマルクス主義と相補的な関係に立つということができよう」(上山春平「プラグマティズムの哲学」,『パース,ジェイムズ,デューイ』世界の名著48),そして,人間の生存における不可欠で相補的な契機である,本能を核とする主体的要求,環境の客観的認識および主体に対する社会的制約という三つの側面にかかわる伝統的な思考様式を根本的に再検討する努力の産物が現代思想であるとみることできるのではないか,とある.そしてそれは,デューイ,ジェームズ,パースを代表とするプラグマティズムの三つの側面(顔)に対応すると.その三つの顔を相補的な契機として統一的にとらえるような理解にはいまだ機が熟していないようだと.もちろん,時間的な区分は必要なく,検証の契機も生じないとする立場を別にすればだと思うが.


極限において仮説として確立する,対象の基本的な量として,微分量というものの本質が現れているという感じだろうか.(微分の定義は,df(x)=f '(x)h, つまりf(x)の微分係数f '(x)とxの増分hの積であるが,また微分係数はfの右肩に'がついたもので, h→0に対して(f(x+h)-f(x))/hの極限値が存在すればf '(x)=lim (f(x+h)-f(x))/h (h→0)であるが,f(x)=xの微分係数はf '(x)=1から,dx=hを,すべての関数についてhの値として同じものとして使い,df(x)=f '(x)dxでf(x)の微分を表す.また「第2章 微分幾何」など参照.寺沢寛一著『自然科学者のための数学概論』).極限は,仮説的に無限性を形式化して得られるネットワーク化の完備な手続であるという感じも受ける.<記憶>は無限性の言語であるというところだろうか.とはいえ,x^2+y^2=1の微分が
左辺=d(x^2 + y^2)=dx^2+dy^2=(dx^2/dx)dx+(dy^2/dy)dy=2xdx+2ydy
右辺=d1=0
したがって,xdx+ydy=0というのさえ,本で確かめないと自信が持てない程だから,あくまで,説明の文章からのイメージであるが.戯れ言としていえば,e^{iπ}=cosπ+i*sinπ=-1+0*i=-1なら正しいだろうが,e=π*iという等式もうっかり正しいと思うかもしれない程なので,無限性の言語の世界では,何等かの関数の値に忍び込んで,e=π*iという式の関係も平然と存在するのではと空想したりする.妄言のように<円分化>とつぶやいたりする.そこに矛盾を含まないためには,矛盾を招かない姿でそれらは無限世界で存在していなくてはならない.そしてそのことを見極められる論理がなくてはならないということになると思うが,あるいは,それがオイラーやガウスが共に眺めている展望台かもしれないと思ったりするが,行ったことがないのでよく判らない.


「風ふけば峯にわかるる白雲のたえてつねなき君が心か」(みぶのただみね(壬生忠岑) 『古今和歌集』岩波文庫)


「ペガサスは存在する」か?と問われたならば,<「ペガサスは存在する」は仮説であるか>とつぶやいてみる.子供の頃読んだ本で,色鉛筆で淡く描いたようなペガサスの絵があったが,「ペガサスは色である」はどうなんだろうか? 「ペガサスは量=多様体である」とかは,また,どうなんだろう.こじつけなのだが,リーマンの『幾何学の基礎にある仮説について』のなかの,量(多様体)に関して,「点がきわめて一般的に定義されていること,また空間が色と同格に並べられて連続多様体とされていることに注目しておきたい」(『新幾何学思想史』p256)---何故か,ペガサスを思い出した.


論理学の解釈では,「ペガサスは存在する」は「ペガサスであるようなあるxが少なくとも一つは存在する. `(∃x)Fx'」ということだろうか.論理学のいう量化命題,「すべてのxについて,xは~である.`(x)Fx'」と「~であるxが少なくとも一つは存在する.`(∃x)Gx'」は,通常使う言葉ではあべこべな感じもうけたりするが,「すべてのxについて,xはペガサスであるならば,xは存在するかもしれないし存在しないかもしれない」というと感じとしては実感にあうのだが.「すべて」といっても「xについて」といっても「存在する」ことを含意しているわけではないということだから,本来,無関係な「存在する」ということを関連づける感じが生じる.(参考: 沢田允茂著『現代論理学入門』岩波新書)
「すべてのxについて,xはペガサスであるならば,すべてのyについて,yはxならば,すべてのzについて,zはyならば,---------」と,無限に続く記号列を想像したりもする.この列が,本当に,有限で終わるものか,無限に続くものか,論理学者ならいざ知らず,素人には,「神様が交信してくれるのは,いつでも,私のつまづきとは関係ないときである」といったところだろうか.


ユークリッドの『原論』で数論にあたる定義
「1. 単位とは,それによって,存在するおのおののものが,1とよばれるものである」,「2. 数とは,単位から組み立てられた量である」の説明から,定義1.は`点とは部分のないものである'という定義と同様,証明の論理的根拠として用いられることはないとか,命題(除法の原理):「a,bを任意の2数(ただしb>0)とすれば,
a=bq+r, ただし,rは0以上でb未満
となるような数q,rは1つであって1つに限る.」
は,b=q1*r+r1, r=q2*r1+r2, ----と繰り返したときの余りの列
(b>)r>r1>r2>---->rn>----
が,(rn=1でなくても列はきれることがあるかもしれないが)rn=1となってはじめてこの列がきれるならば,a,bは互いに素であることをいっている(ユークリッドの互除法).(彌永著『数の体系』岩波新書)とか,そっくりな感じがするが,だったらいっそ,「ペガサスは1である」とかも考えられそうだが,「1である」というのは,「存在する」ということ同様,(∃x)Fxをもじって,(1x)Fx(Fであるようなxが少なくとも1つ1である)とでもなるだろうか? Fに,互除法で得られる余りの集合をとれば,その元のどれかは1であることを主張しているわけだから,自然数には,互いに素な数の組が存在するということをいってるだけで,間違ってはいないはずなのだが.1の多意性は,どうなのだろう. 1',1,2,3,4, ---- は,1,2,3,---で考えるシステムに影響しないということだろうか?


『ゲーデル 不完全性定理』岩波文庫の訳者解説などから,あれこれ考えているのだが,生命暗号には,なにか異質な論理が伴っているのだろうか.そいう感じがするのだが,直観主義と形式主義の対立にも,生命暗号に伴う何か異質な,それとも,より進展した形の論理の影が反映しているのだろうか?


「人間は動物である」とか,あるいは「クレタ人は嘘つきだ」はどうなんだろう.純粋数学の対象の形式ではありそうだが?


---<論理学のABC>-------------------------------------------------
* 純粋数学の定義------ Pure Mathematics is the class of all propositions of the form ``p implies q," where p and q are propositions containing one or more variables, the same in the two propositions, and neither p nor q contains any constants except logical constants. And logical constants are all notions definable in terms of the following: [-------]. In addition to these, mathematics uses a notion which is not a constituent of the propositions which it considers, namely the notion of truth. Bertrand Russell, ``THE PRINCIPLES OF MATHEMATICS"から. 蛇足ながら,`class'は「外延」,内包は`meaning(意味)'.

*仮言命題p ⊃ q(「もしpならば,qである」あるいは「pはqを含意する」.pを前件といいqは後件という)は,(ふつうの,つまり「排他的でない」あるいは「弱い」)選言命題~p∨qと等値である.それはまた,~(p∧~q)とも等値である.∧は連言を表す記号であるが,p・qのように連言を・で表すこともある.
含意(implication)「pならばqである」は,「前件pが真ならば後件qも真である」こと,あるいは「pが真でqが偽のことはない」ことを主張するものである. つまり,前件pが真(1)で後件qが真(1)のとき,この含意の主張(主張を命題,言明ともいう)p⊃qは真(1)となり,pが真(1)でqが偽(0)ならばp⊃qは偽(0)となると言っているわけである.pが偽のときについては,主張p⊃qは何も言っていない(真理値が割り当てられていない)が,pが偽のときも,p⊃qに真理値の1を割り当てたものを,(現代論理学では)ふつう「含意」という.
~p∨pはp⊃pと等値であるから,「もしpならばpである」は,真(1で表す)の論理値だけをもつ命題で,恒真(トートロジー)である.命題pは,真(1)と偽(0)の論理値をもちうるが,pが1の論理値をもてば~pは0の論理値をもつことになり,pの論理値が0のときは~pの論理値は1となるから,選言はどちらも偽となる場合の他は1の論理値をもつのだから,pの論理値が1でも0でも,pとpの否定の選言命題~p∨pの論理値は1となるからである.

p⊃qの論理表(真理表)は,pもqもどちらも1か0の論理値をとりうることから,下表のようになるが,前件が真で後件が偽の他は真である.pが偽のときはqが真でも偽でもp⊃qは真となるから,p⊃qの真偽は,pが真のとき,qが真であるかどうかできまる.
・置換規則------論理式(命題,命題変項,命題形式の総称. 例えば,「論理学は灰色の学問で,役に立たない」が命題,命題変項p, qを使ってp∧qとしるしたものが命題形式で,p∧qは命題「論理学は灰色の学問で,役に立たない」の命題形式である.あるいは「論理学は灰色の学問で,役に立たない」は命題形式p∧qの代入例であるという.pの代入例を「論理学は灰色の学問である」,qの代入例を「論理学は役に立たない学問である」と考えれば,それらを連言を表す論理的結合子の記号(∧)で結びつけた記号の列p∧qが「論理学は灰色の学問で,役に立たない」の命題形式ということになる.)に含まれる論理式を,それと等値な論理式で置換えることができる.
・代入規則------論理式の含む命題変項には任意の論理式を代入できる.ただし,同じ命題変項には同じ論理式を代入しなければならない.
等の規則がある.


例) [(p⊃q)・p]⊃qの真理値を求める.これは以下のように等値な命題式に置き換えることができる.

~[(p⊃q)・p]∨q

[~(p⊃q)∨~p]∨q

[~(~p∨q)∨~p]∨q

[(p・~q)∨~p]∨q

[(p∨~p)・(~p∨~q)]∨q

(p∨~p∨q)・(~p∨~q∨q)

最後の命題式で,括弧()のなかの,p∨~p, ~q∨qは恒真である.つまり真理値が1である.括弧の中は,どちらも選言だけであるから,括弧の中の命題式はどちらも真理値が1であり,命題式全体は真の命題どうしの連言で,真理値は1である.つまり,この命題式はトートロジーである.あるいは,真理表を作ってみるやり方でもいい.
この命題式が恒真(トートロジー)であるということから,推論形式 (細かくいえば,混合仮言三段論法)「p⊃q , p ∴ q」は妥当である.この型の推論には「核実験すれば大気が汚染する.核実験がなされる.ゆえに大気が汚染する.」や「中性子線を物質にあてれば陽子が飛び出す.中性子線を物質にあてる.ゆえに陽子が飛び出すであろう.」などが例としてある.[(p⊃q)・p]⊃qは,前提(p⊃q)・pが真であるとき結論qは真であるという主張であるから,[(p⊃q)・p]⊃qがトートロジーならば,前提(p⊃q)・pが真のときの結論qは真である.qが偽ならば命題全体は偽となりトートロジーでないことになるから.前提が偽のとき,命題全体に真の真理値を割り当てる含意の意味でも,仮言命題の恒真性が推論形式の妥当性を保証することを損なわない.その点安心である.(近藤・好並著『論理学概論』)
「論理学の仕事は,真理の探究である.真理の探求とは真である言明を偽である他の言明からえりすぐることである.」(クワイン著『論理学の方法』岩波書店の「序論」) 

(注)

(ド・モルガンの法則) ~(p∨q)≡~p・~q, ~(p・q)≡~p∨~q.

(分配法則) p・(q∨r)≡(p・q)∨(p・r),p∨(q・r)≡(p∨q)・(p∨r).

また,~は否定,∨は選言,・は連言.

p≡qはpとq が同じ真理値をもつとき(pもqも真,あるいはpもqも偽のとき)真となる.≡は等値記号とよばれる.

参考:近藤・好並著『論理学入門』岩波全書


最近のこの国の徴候のように,話術に長けるとか,詐欺口に長けるための学問ではないということだろうか.話術と詐欺口とは別だろうが,混同されやすいから.それにしても,そういう詐欺口が,国民の好みであるとまで宣伝される背景には,ヤクザのメディア介入ということでもなければ不可解であるが.この国の,ヤクザ筋に牛耳られたメディア経営者は,経営というものがわからない,性格の偏固な侏儒であるということだろうか.メディアの権力というのも,物好きなそっち系ヤクザのしょうもない神輿という制限付きで,考えるべきであると思う.古くさいメディア全能思想なのかパパジイヤーちゃまに甘えた二号志願なのかわからないようなメディアとは何のだろう.「メディアの嘘」とかいうが,メディアが嘘つくということは,そうでなければ銭にもならないからヤクザの便宜屋メディアということだし,それを自分たちの利権温存に都合がいいと思ってる連中のみえすた痴れ者芝居だし,どうも最近は都合がいいばかりでもないのではないかとようやく気付き始めて憂鬱になっているような利権崩れの遅ればせの悩みをメディアしてるわけか,かったるい連中だと思うが,それとも天然なのか,他になにがあるのだろうか? 別段,理想のメディアなどというものをいおうとしてるのじゃないが,政治家の詐欺は税泥というような意味で.








p q p⊃q
1 1 1
1 0 0
0 1 1
0 0 1






p q ~p~q~(p∧~q)~p∨q p⊃q
1 1 00111
1 0 01000
0 1 10111
0 0 11111














年賀状 川柳を添えて

2007-12-29 02:20:21 | 日記・エッセイ・コラム

Kinga2008

川柳

来る年もかわりばえない門の松

人工雪 タヒチの海で 初日の出

屠蘇 御節 カラオケマイクにしみ残る

橋なかば 托鉢坊主の 無の境地

来る春も 風の予感の やわらかさ

薄氷を割るなよ 実験水槽の 葦の草

日溜りの痛さにつどいひなたぼこ

はかなさや 置かれしままのピアノあり

はかなさや 沈黙の目の鼓動

Photo

随想01

2007-07-13 13:35:57 | 日記・エッセイ・コラム

●  メルロ=ポンティ 『見えるものと見えないもの』(勝手訳:日本語訳はもっていないが,すでに出ているようである.わたしはフランス語はさっぱりなので誤訳であるが.)

現代の存在論とその分類 

・ 主-客問題

・ 間主観性の問題

・ 自然の問題

デカルトの存在論へのレフレクション ------ 西欧存在論の斜視化

[(ベルグソン) 超越 --- その開示 --- 時間] `Notes de travail  20  mai 1959'

われわれの中に再来された(取り戻された)世界の開示と,生命の内部に認めるところの展望,同時に現存在(chose ,モノ)であり即自存在(<<sujet>>)である一つの展望(perception)については語らない.ベルグソンは,尺度ではなく時間を見ようと捜し求める意識について述べた『思考と動き』というテクストのなかで,同時に即時的(自発的)であり反照的(反省的)である意識というものが存在すると,一度明確に述べている.

* etre spontane (chose)とetre-soi(<<sujet>>) 自発的存在と私の存在?

※ デカルトがその方法論的懐疑を曖昧さを残しなが野営の地で結実させ,ルソーが多くの矛盾した文脈のはざ間にルソー的天才を結実させたように,ライプニッツがまた旅人だったように,独創的な結果の根底に,遊民として世界と対峙する,行動としての身体があるように思ったことがある.