私は,もちろんスポーツの選手でもないので,そのような体験は,ありふれた生活状況での体験としてしかないのだが,実際,それが予視や予言的なものであるかどうかは保証できるはずもない.スポーツ選手のスーパープレーも,練習や試合の経験の上に,その時々の可能な状況のなかから戦術上の合理性や技能などから選び出されたもののイメージ化なのかもしれないが,その選び出し方が独特なのかもしれないと考えればいいのかもしれない.ルールは技を生み出し,すぐれた技は,ルールの内実となるという感じだろうか.それにしても,予視していたとしか思えないような,技も実現するのではなかろうか.
私は,よく同じ夢を見る.覚えている夢では,山の峯づたいの細い道を辿りながら,いつしか,その道が円環となってぐるぐる同じところを歩いていると思うと,扉のついた壁が道を塞ぎ,開けてみると,何故か,もと来た道を振り返っている.もう一度開けようとするが,どういうわけかもとの道の方へ視線は向いている.別な夢では,路地道をあっちに曲がりこっちに曲がりしているうちに,不思議と明るい,元の場所に立っている自分に気付く.そして決まって,そこらで目が覚める.胃腸の調子かもしれないと思ったりもするが,しかし何故か,夢の非連続なシーンの連なりは堂々巡りの感じが残る.堂々巡りで終わると,やはりその先が気になってくるが,どうもその先は,夢の記憶として残った堂々巡り感に引き継がれているらしい.あるいは,床に落ちた瞬間の身体の暗い感覚でかき消されるかだろうか.夢を語ると,自分の無意識のスケベ根性を晒すようなものだという見られ方をされそうだが,スケベ根性ぐらいなければ生きていけぬというのも一方である.
フランス語の「r」の発音は,私には,喉のあたりでその前の音をとどめるように塞ぎながら,「f」を空中に吐き出すような感じに聞こえるのだが,聞こえ方は,人にも依るのだろうか.発音記号だとrは[ε:r]なのだが.私の夢も時にはむさくるしいだけでなくて,見知らない若い女性がでてくることがある.見知らないといっても,おそらくどこかで見かけているのじゃないかと思うが,おもいあたらない.海岸で,親子連れらしいなかに若い女の人がいて,潮干狩りか,海藻のようなものを採っていたのか,少し遠目で確かめられなかったが,その女性が,空中に動いていったかとおもうと,オーラをまとったような感じのメッセージをおくってきた.どういうメッセージかはわからないが,その雰囲気が何ともいえない.フランス人は,もしかしたら,「r」の発音の中に,そんな機微を感じることもあるのだろうか.「歌は心のバイブレーション」とかだれか言っていたような.
予視(pre-vu)とか既視(deja-vu)というのは,多分,心身合一の両義性のもとで開ける,全体性としてのカオス=コスモス(混沌=秩序)が潜み込んでいる次元での,時間性のことなのかもしれない.それは,成就されるべくあるものではあっても,ひとが己の存在状況をとらえ直す生活の営みを実践することでしか開けてこない地平なのかもしれない.『知覚の現象学1』の「表現としての身体と言葉」にある「私とは私の身体である」から推察すれば,a-voirは「voirが<私>をもつ」ということであるとすれば(sa),voirにまなざされる私の布置が,開示された自然へ下ろされた錨のように,あるいは,複雑な流線の層が整然と並べられた点の如く往還する運動の挿入がそのような時間性を生きているのかもしれない.
価値とか貨幣とか資本とかのそもそもの「自然的表現性」ということが問題となるのかもしれない.これで,必要なことは足りるであろう.しかし,経済用語は注意して語れなければ,詐欺まがいの経済コメンテータなるものの嘘話に利用されるおそれがある.機密費問題にみられるように,メディア法人自体が機密費や税の横流しで成り立っているようなものだから,足りんチョン+詐欺銭チョンスリの演出になるわけだ.それとヤク密売のなんとかショップという組み合わせは,メディア法人以外ないではないか.メディアの裏にチョンスケヤクザ関連の裏官僚機構があって,世間蔑視の傲慢が透けて見えるわけだ.経済損失のつけはそういう連中に負わせるべきものであって,仕分けとは,本来そういう隠然たるゆがみを是正して,有効な政策を機能させる土台を作る目的のものでなければならない.しかし,例えば,金融の健全性や安定性を維持し,対応するために法人の準備金の積み増しを要するという理由で,消費税率の引き上げや,中間層以下への税負担の加重を主張するだけのご都合話をサクラ一般人を仕立ててごまかすやりくち.本来,経済の理論的,実証的な裏付けなどどうでもいいという話ではないのか? といっても, 裏金出すのにそういうまともなやつでは困るということも当然出てくるはずであるが.しかも,日本のアカデミズムなるものは,少々人のよい悪人なのか共犯している.つまり,消極的を装った悪事加担者である.
物理についていうと(あくまで素人の感想ということで),解析力学は,デカルト座標(x,y,z)とか(x(t), y(t),z(t))とかその時間微分とか出てきて,また一般座標とか一般速度とか,ラグランジアンL(q, dq/dt,t)とか,変分原理とか最小作用の原理とかでてきてという構成の感じが,なにか見えない<関数関係>がそうしむけている感じとでもいうか,いわば<メタ関数>の中で構成されていく実在のような感じがする.力学系の決定と慣性の法則の成立が指向されているということだろうか.とすれば,慣性の法則というものが,空間の一様性・等方性および時間の一様性を保証する基準系の存在を主張するものであれば(ランダウ・リフシッツ『力学・場の量子論』ちくま学芸文庫),慣性系のない系(時間と空間が真に同等な世界?)が,見えないところで絡み合って,あるいは,ボーアの対応原理という神学的な方法---それは同時に古典論の真の限界から量子論への飛躍の架け橋であるが---に未知の可能性が見出されるということでもあるかもしれない. そのような未知の法則世界の,例えていえば,比例式は,<素数>の別名ではないかという感じが何とはなしにしてくる.
参考: ランダウ・リフッシッツ『力学・場の理論』から : 「Landau01.pdf」をダウンロード
参考:
市川浩著『現象としての身体』勁草書房
丸山圭三郎著『生の円環運動』紀伊国屋書店
メルロ=ポンティ著『知覚の現象学』みすず書房