概要
遠野市小友町鷹鳥屋地区、旧鷹鳥屋小学校跡の北方山野に館跡は残されている。
旧小学校敷地もその一部とみられますが、校庭等も含む校舎建設に伴い削平された経緯があり、こちら部分の遺構等がどのようなものであったかは知ることはできない。
主郭は現在天神様が祀られている社部分で背後は二重の堀切で山野を断ち切り、東西斜面には二重の空堀が残されている。
東側は社への道で寸断されているが西側は残存度も良好である。
主郭の南側は削平された農地となっており、一部往時を偲ばせる段差もみられ、旧小学校側へ緩やかに傾斜している。
平地の西側には土塁跡がみられる。
主郭方面
南側部分
主郭背後の堀切
西側斜面の空堀
歴史等
館主を阿曽沼家臣、沖館某と伝えられるもその事績は皆無である。
後に修験に関わる石田宋順が一時期館主であったと考察もされるが、石田氏に関しても多くは伝えられていない。
鷹鳥屋という地名の由来は諸説色々と語られるが、阿曽沼時代、この地域は鷹が多く生息していたといわれ、捕えた鷹を飼育していた地とも考察されている。
信長公記に記述される遠野孫次郎(阿曽沼広郷)が織田信長に白鷹を献上したことが記されているが、その使者、石田宋順と考察がされている。
旧小学校敷地も加えれば、かなり広大な平山城であった可能性が高く、単なる鷹の飼育、鷹取り場という位置付けでは片付けられない重要な意義を持つ小友地域でも最大級の館跡であったものと思われ、その痕跡の一部が破壊され原型をみない状態であることが極めて残念でならない。
石田宋順。本当に彼が使者だったのか気になります。
館跡は一部破壊されているのが残念ですね。せめて発掘調査が行われていればよかったのですが。
信長を訪ねた石田氏、今後の課題ですね。
先人史家でも学校建設前に何かしら発掘やら調査が入らなかったことを指摘しておりました。