遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

八幡館・八幡太郎伝説と駒木氏

2009-12-23 17:35:24 | 松崎

 

 

 

 

概要

 高楢山から続く山野の南西側突端、小烏瀬川沿いに築かれた山城である。

 遠野市松崎町と土淵町との境、県道土淵~達曽部線沿い山野の松崎側、駒木地区海上地内に館跡は残されている。

 館跡は中央部分が窪んだ形状で小烏瀬川沿いの高台が主郭とみられ、北東側山野、八幡座山からの続きの尾根部分に一重の空堀、土塁を配し、館内中央部に向っての斜面に3段の帯郭がみられる。

 こちら部分は二の郭の可能性が高い。

 

 南西端の高台、すなわち主郭は小烏瀬川へ落ち込む断崖と西部分は急傾斜地で、北側斜面は中央部に向って3段の帯郭が展開されている。

 頂部平場には現在、稲荷社が祀られている。

 中央部は3段の平場がみられるが、かつての馬場跡、さらに下部の県道付近の斜面は虎口跡と考察されている。

 

 館域の北側は沢で隔てられているが、沢を隔てた山野の県道沿い斜面上方はなだらかな平場が続いており、この部分も館との関連性があるのではと推測しております。

 この方面の山止まりは八幡沢といわれる沢でさらに隣接山野と区切られているが、高台には八幡社が祀られている。

 

中央下部の段差・・・馬場跡といわれる 

 

空堀(竪堀)跡

 

二の郭部分、土塁と空堀跡

 

二の郭内部の帯郭

 

 

主郭部分帯郭

 

主郭より中央下部を望む

 

歴史等

○八幡太郎義家伝説の地

 岩手県地方でいう安部時代、前九年合戦での伝説が残されている地でもある。

 衣川の戦いで源氏、清原の連合軍に敗れた安倍軍は、各地の拠点を失い北の厨川の柵(盛岡市)を目指して落ちて行ったとされる。

 八幡館至近の小烏瀬川を隔てた土淵町には北浦六郎家任(安倍家任)(安倍重任ともいわれる)縁の屋敷があったと伝承され、敗残の兵をまとめた安倍貞任は遠野へ至るも追討の源氏軍、八幡太郎(源義家)に追いつかれ、小烏瀬川近在で合戦に及んだと語られる。

 この時、八幡太郎が陣を張った場所を後に八幡座山と呼び、またこれらちなむ沢を八幡沢と地元では呼んでいる。

 八幡沢、八幡座ともに「はちまんざ」と同音で呼称しているが方言では「はちまんじゃ」と呼んでいる。

 後に義家の家臣の井手某が八幡神社を創健と伝えられる。

 

○本姓菊池駒木氏の居館

 遠野阿曽沼時代、天正の頃、菊池豊前広道が八幡館に居て、駒木地方全域(現松崎町駒木)と安居台(附馬牛町の一部)を知行していたといわれる。(500石余)

 菊池豊前は在名から駒木氏を名乗り、駒木豊前広道、嫡子は駒木隼人広三の2代の居館であった。

 慶長5年(1600)、阿曽沼広長が遠野を追われ、南部利直が遠野を掌握すると南部利直より旧領350石を安堵される。

 後に八戸根城から八戸直義(遠野南部家)が寛永4年(1627)に遠野へ入部となる前に南部利直の命により駒木隼人広三は遠野を離れ、その家系は代々南部藩士として命脈を伝えている。

 (遠野南部家臣の駒木氏も確認できるが八幡館の駒木氏との関連性は調査していないため不明である)

 

 なお、北東山野約1キロ付近に伝承の館「駒木館」が残されているが、館主を駒木氏と伝えられ、本姓菊池の駒木氏との関連は不明である。

 一説には駒木館の駒木氏は細越一族とも考察されますが、こちらも不明である。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
熊の巣 (稲用)
2009-12-26 20:17:22
遠野にも八幡太郎伝説が残っていることが面白いと思いました。
以前とらねこさんに連れて行ってもらったときに、熊の巣らしきものがありましたね。正直、ビビりました。
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 (虎猫)
2009-12-26 22:03:27
稲用さん
熊の巣は近くの阿曽沼館だと思います。
ここは皆さんをご案内する数日前に熊と遭遇した場所で、その話をしながら探訪した記憶があります。
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