概要
遠野三山のひとつ石上山の南に延びる尾根の一角、砂子沢地区、聖集落にある。
小高い丘陵部の背後(西)から2重の空堀が北、南へ下り途中で合流して1本となって山野を囲んでいる。
山頂は削平された形跡があり、堀切2重で山野続きの尾根を断ち切っている。
山頂から東側斜面には段差の低い階段状の平場が確認できるも、埋没風化したものか判断がつかない状態である。
北側は沢が流れ館山との境となっており、東側部分まで占め斜面には若干の段差がみられる。
南側中腹は広い平場となっているが畑等となっており、近年に農地として開墾された形跡が認められ、平地を挟んだ道路沿い斜面には2段の階段状の腰郭風となっている。
推測するに主郭は中腹の現在農地となっている平場であった可能性があり、往時は階段状に施された平場が数段展開されていたものと思われる。
山頂の平場は物見的な役割があったものだろうと推測しております。
南部分の農地(平地)
南部分の農地を山野(西側)から
空堀跡
堀切
山頂の平場
歴史等
事績、館主等一切不明。
先人郷土史家によると館の使用時代は安部時代との見解ではあるが、推測のみで実際は不明としている。
綾織の砂子沢地区は遠野でも早くから開けていた土地だったとも考察されている。
阿曽沼時代といわれる鎌倉時代以降は大出の早池峰山妙泉寺、室町期~の東禅寺への道が開けていたといわれ、遠野(横田)城下への主街道であったとも語られている。
その道筋には西に聳える石上山があり、山岳信仰との絡む地域であったかもしれない。
その守りのひとつが鴨館といった位置付けも考えられるも、これ以上は伝承すら残されておらず全くもって不明である。
小高い丘にあることから、安部時代の防御性集落といった雰囲気もありますが、こちらも不明です。
その通り、高清水山の向こうです。
東禅寺、妙泉寺に通じる街道沿いで峠を越えた集落から南に折れ猿ヶ石沿いに横田城下へ入る当時の主街道といった位置づけでした。
現在では想像できませんが、中世の頃は館の下は交通路として整っていたのでしょうね。