遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

杉山館・遠野城下関門の館

2010-01-19 16:09:19 | 遠野

 

 

 

概要

 遠野市街地東側の山野、現在欠ノ上稲荷神社が鎮座する一帯が杉山館跡と伝えられている。

 神社の裏側、東部分の山野が主ではあるが神社付近の地形もかつての館跡と思しき段差等の形状が若干確認できる。

 神社北東側は谷状となっているがその上方には一部空堀跡が見られ、さらに上方の尾根部分を切断している。

 神社の西側は遠野市街地でかつての城下町が広がり、断崖となっている。

 一部残される空堀跡の南側には3段程度の帯郭的平場が東~南斜面へ細長く展開されており、この方面の山頂より南斜面には6段からなる大型の帯郭が南東側の麓まで配置されている。

 当地方でも大型に属する高さ、幅とも見事な段差を形成しているが、近年に杉木を植林する際に構築された段差なのか、以前に畑等の農地として開墾された段差なのかは不明であるも、不規則に展開された段差の形状をみると館としての機能の一部であると推測される。

 下部の麓には土塁跡もみられる。

 

 

空堀跡

 

日枝神社側、西斜面の段差

 

南東側斜面の大型帯郭

 

西側・・・遠野城下

画像、中央左の山野は鍋倉城

 

 

歴史等

 館主を欠下茂左衛門と伝えられ、稲荷神社の創建に関わる人物であり、当初は欠ノ下神社と呼ばれていたが後の時代、山上へ遷宮されたので欠ノ上神社と呼ばれた。

 欠下氏は葛西晴信の家臣と伝えられ、奥州仕置で主家葛西氏が没落した後、浪人となり遠野へ来住、遠野横田城主、阿曽沼広郷、広長に仕えたと伝えられている。

 阿曽沼氏没落後は南部利直に仕え、遠野領内に300石を食んでいた。

 八戸根城から八戸直義が遠野へ入部する頃、禄を失い遠野を離れ、親戚を頼って紫波郡内に住まいし、彼の地の開拓等に尽力、茂左衛門は間もなく没するが寛文3年(1663)茂左衛門の子息、宅右衛門は遠野領主、八戸弥六郎直義に見いだされて遠野侍として家臣に加わっている。

 

 館の歴史を推測するに、比較的新しい館跡といった印象も残りますが、阿曽沼広郷が横田城を鍋倉山に移した頃の築館とみております。

 鍋倉山に新城を普請、城下も徐々に整備されつつある時代、天正の末期頃と思われますが、当時は早瀬川や来内川の氾濫も頻繁で、ほぼ無住で現在の市街地に農地を求めるといったことは難しいものだったと見解が示されている。

 欠下氏が遠野へ来住したのは文禄年間ということで、この時に城下東の守り、杉山館が本格的に築かれ、仮にそれ以前から館が築かれ機能していたとすると少なくても文禄年間以降に大がかりに手を加えられたとみるべきかと想像されます。

 主な遺構等は、浜峠側の南東斜面に展開されており、気仙郡からの侵入を意図するものと思われ、浜峠から城下に至る最後の関門といった位置付けであったと推測されます。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
主郭 (稲用)
2010-02-04 15:35:13
主郭がどこか分からないところが面白い館跡だと思いました。
神社の場所が主郭だとすると、ちょっと狭い感じがしますね。
豊臣政権による奥羽仕置の影響がある館主の歴史にも興味がわきます。
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主郭 (とらねこ)
2010-02-04 20:26:54
稲用さん
おそらく主郭は中央部分の山頂かと思われますが、南側の隣接山野までは高低差がなく、また幅狭の平場が確認できるだけです。
特定するならば、やはりその部分かなと思っているところです。
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