エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「蛇よ、蝮の子らよ」(マタイ23:33)

2010-09-01 | マタイによる福音書
 イエスが「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ」(マタイ23:32)と凄んだのは、マタイだけが描く姿ですが、これがとどめのように、ユダヤのエリートたちに向けて突きつけられているのが分かります。ただ、この表現は原文においては非常に難儀な形式をとっているといいます。「あなたがたも先祖らの升目を満たせ」と言っているからです。
 
 ついにイエスは「蛇よ、蝮の子らよ」(マタイ23:33)とまで言い放ちます。これは、バプテスマのヨハネが口にした言葉でした。マタイの福音書は、このヨハネの登場を大きな契機としてドラマが動いていくような構成にしています。すでに殺されてしまったヨハネですが、ここでヨハネを重ねてくるようなフレーズを用いて、福音書の最初からの声の響きが、集約してくるような印象を与えます。「どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(マタイ23:33)と、またゲヘナという語を用いて、厳しい審判を宣言します。
 こうして「わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わす」(マタイ23:34)こと、しかし「あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」(マタイ23:34)ことを明らかにし、ユダヤ人がクリスチャンに対してどのようなことをしているか、をマタイは伝えます。もはやイエスの言葉でありながら、イエスの言葉ではありません。「わたし」は、イエスというよりも天の父なる神のことでしょう。それとも、イエスがクリスチャンの指導者を遣わしたことを意味するのでしょうか。重ねているかもしれません。これまでの預言者の姿と、それからクリスチャンたちをユダヤ人がマタイ当時の今そのときに、迫害していることとが伝わってきます。他方、過去においてイザヤのような預言者の言うことをユダヤ人の王たちが拒んできたという歴史については、イエスが初めて指摘したのではなく、旧約聖書の預言者たちもまた口にしてきた、ひとつの伝統であると理解されます。
 この「学者」は、「律法学者」と同じ語です。ファリサイ派の一部として批判されている律法学者と区別するために、訳し分けたのでしょうか。でも、全く同じ原語を替えてしまうというのは、読者に対しては不親切ではないでしょうか。読者は読者で、マタイが同じ語で何を伝えようとしているか、判断する自由があると思います。
 それにしても、「十字架」につけたのだという指摘も注目されます。これはイエスのことを言うとすべきなのでしょうか。それとも、私たちが「十字架につける」と理解している言葉が、私たちのイメージするような十字形のものではなく、例えば一本の杭であるにしてもそこに縛り付けてさらし者にする刑のことを指しているとすれば、そのように死刑にされてきた者がいろいろいるからそれをも含んでいる、とすべきなのでしょうか。そうなると、これを「十字架」と言い切ってしまうのは問題があります。十字架は暗黙のうちに、イエスのものです。もちろんイエスの両脇に共に架けられた強盗もいますが、両手を広げて殺されていったイエスの姿の中に私たちはまた愛を見るのですから、十字架に一般の人間が次々と架けられていく姿は望ましいイメージではありません。それに、元来ユダヤ人が死刑の手段として十字架を利用することはなく、例えば石打ちがせいぜいです。ローマの刑罰なのですから、古代イスラエルで十字架刑を続けてきたということは無理な発想です。この十字架という表現は、ローマの、つまりイエス以降の様子を描いているものと理解されます。またそれでいて、自分の杭を背負っていくのだ、とも言われますから、イエスの受難の精神を背負うならばそれは十字架という扱いで然るべきなのかもしれません。
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