答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

一切迷ひは我身のひいきゆえに

2023年04月05日 | ちょっと考えたこと

 

盤珪永琢(ばんけい・よう(えい)たく)は江戸前期の禅僧で播州の人。人は誰でも生まれながらに「不生(ふしょう)の仏心」をもっているのだから特別な信心も修行もいらないというユニークな教えを平易な説法で各地に広め、その弟子は僧俗あわせて5万人におよんだといわれている。

なんて訳知り顔で書いたが、そのじつわたしは、きのうまでその名前すら知らなかった。知ったのは、今朝の高知新聞『きょうの言葉』に「一切迷ひは我身のひいきゆえに、我出かしてそれを生まれつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの」という老師の言葉が紹介されていたから。さっそく検索してみると、Wikipediaに次のようなエピソードが記載されていた。

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ある僧が短気な性格で悩んでいた。生まれつきの短気で、意見されても直らないという。そこで盤珪に相談に行く。

禅師いわく、そなたはおもしろいものに生まれついたの。今もここに短気がござるか?あらば只今ここへお出しゃれ。直してしんじようわいの。

僧いわく、ただ今はござりませぬ。なにとぞ致しました時には、ひょっと短気が出まする。

禅師いわく、然らば短気は生まれつきではござらぬ。何とぞしたときの縁によって、ひょっとそなたが出かすわいの。(中略)人々みな親の生み付けてたもったは、仏心ひとつで余のものはひとつも生み附けはしませぬわいの。

と答えたという。

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ふむ、これではわかったようなわからないような・・・しかもその「中略」という箇所がモヤモヤとする。

さらに検索すると、『禅の視点-Life-』というサイトに『【盤珪永琢】読後に、思わず「なるほどねぇ」と唸る禅僧の逸話』と題した記事があった。

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ある日、この盤珪禅師のところへ一人の和尚が相談にやってきた。

「盤珪和尚さま、私は生まれつき短気なもので、自分でもこの性格にほとほと困っています。どうかこの短気を直す方法を教えてくださいませんか?」

短気を直してほしいとは、なかなか風変わりな相談である。

もしかしたら禅師を困らせてやろうという下心があったのかもしれない。

ただ、性格を直すいい方法があるのだとすれば、私もちょっと聞いてみたい。

 

そんな質問に盤珪禅師はこんな言葉を返した。

「ほぉ、そなたはなかなか面白いものを生まれ付き持っているのじゃなあ。どれ、その短気とやらを今ここで見せてはくれぬか?」

短気を見せてほしいとは、訪ねた和尚もまさかそのようなことを言われるとは思いも寄らなかったのではないか。

しかし見たいと言われても、さすがにいつもかも短気でいるわけではない。

「いえ、今は短気が出ておりませんので、見せることはできません。短気は何かあったときに急にひょっこりと顔を出すんです」

 

それを聞いた盤珪は諭すようにたたみかけた。

「今はないというのなら、短気はそなたの性格ではないのだろう。

本当に短気という性格を持っているのなら、今ここで出せるはずじゃ。

訊くが、お主は短気というものがあたかも実際に存在するかのように思ってはおらんか?

気持ちというのは自分の心が起こすものであって、短気という心があるのではない。

怒りの心は、自分が可愛いから起こるんじゃ。

自分の望んだように物事が進まなかったり、自分を害されと感じたり、自分の身をひいきするところから怒りは起こる。

それを生まれ付きなどといって、親のせいにするとは何事か。

自分の心の責任くらい自分で持たんか。

自分で自分の心がコントロールできず、挙げ句のはてにはその責任を親になすり付けるとは、親不孝も甚だしい。

親はそなたにまっさらな心を与えたというのに。

自分が可愛くて、自分を守りたくて怒りを外に向け、自分の欲に振り回されて、自分で自分を苦しめておる。

本来の心に立ち還ってみなされ。

今は短気を出せぬのじゃろう?

なぜ出せぬかわかるか?

そんなものははじめから存在しないからじゃ。

ありもしないものに惑わされるでないぞ……」

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ナルホド。この考え方はおもしろい。

もちろん「短気」はほんの一例にすぎない。すべからく気持ちというものは、自分の心のなかにあらかじめ存在しているわけではなく、その場その時における自分の心がつくりだすもの。そしてそれをつくりだす起こりは「わが身かわいさ」。だとすればそれは制御可能なもの、というより、コントロールしなければならないものであり、それに振り回されるなどは愚の骨頂だろう。

「一切迷ひは我身のひいきゆえに、我出かしてそれを生まれつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの」

再度その言葉を読み返すと、なぜだかわからないがそのあとに、「ひっひっひ」という爺さんの笑い声が聞こえた気がして、まいったねコリャ、とアタマをなでた。

 

 

 

 

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