昨朝のことである。
高知新聞のページをめくっていると、ふだんは読まない箇所に目がとまった。
その小欄「きょうの言葉」の右上に罫線で囲まれた言葉はこうだ。
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「雑用の怖さ」は、忙しくしていればそれで一日は充実したと感じるところにある
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左から右に視線を流していると(わたしは新聞を裏から読む)、「吸い寄せられるように」目がとまったそのセンテンスのあとにつづく矢口誠さんによる解説の冒頭はこうだった。
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精神科医の斎藤茂太(1916~2006年)の著書はいつも鋭い洞察に満ちているのだが、私が最も痛いところを突かれたと感じたのはこの言葉である。しかも斎藤はさらに追い打ちをかけるようにこう続ける。「実は、『雑用』に逃げているのである」
まさに図星である。
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これについては、かつてわたしにも、確として「わかった」瞬間がある。
それは初めて任された農道改良工事の現場。
アレもしなければコレもしなければと、やること満載で精神的にも肉体的にもヘトヘトになりながら過ごす日々のなか、にもかかわらず優先順位がつけられず、小さな工事の割には起点から終点までの距離が長いその現場の端から端までを歩きまわり、
些細な仕事に反応し、
「あ、それオレがやるから」
と引き受けるなど、
どおってことのない用事を見つけては脊髄反射的にそれに飛びつき、
「ああいそがし、ああいそがし」
と休むまもなく動いていたあるとき、その瞬間は訪れた。
「これってチガウノデワナイカ?」
そのころのわたしは、「やること満載で精神的にも肉体的にもヘトヘトになりながら」とは感じつつも、とても充実していたし、「よく仕事するぢゃないかオレ」と自己満足にひたってもいた。
そのことに「チガウノデハナイカ」と疑念を感じ、そして気づいた。
「けっきょくはニゲテイルダケヂャナイカ ^^;」
たしかに見かけは忙しいし、自分自身の感覚としても忙しい。
しかし、今やるべきことと今やらなくてよいこととを選別したとき、その忙しさはただただ意味もなく中身が空っぽな忙しさだった。そして、「忙しさの只中にある自分」という対象をつくることによって、「こんなにがんばってるんだもんねオレ」と、自分で自分に酔っていただけだった。
「バッカヂャナカロカ」
そのことに気づいたときの恥ずかしさ。
30年近くなる今でも、「ああもう」と首筋側方をゴシゴシこすりたくなるような体感として残っている。
誰しもが陥りがちなことではある。
そして、多くの人はそれではいけないということに気づく。
しかし、気づかない人もまた少なからずいる。
なかには、「そうではないのだよ」とアドバイスをしてもわからない人もいる。
いやいや、余人のことはさておこう。
あれからウン十年、そういう自分自身にしてからが、ふと気づいてみればいまだに同じ轍を踏みそうになっていることもないではない。
その時々で、「お、いけねえ、ヤバイヤバイ」と自らを引き戻す術は身につけているつもりではあるが、せっかく目にとまったのだもの、
「雑用の怖さ」は、忙しくしていればそれで一日は充実したと感じるところにある
あらためて自戒の言葉として受けとめよう。
そして、次の言葉を自分に突きつけよう。
実は、『雑用』に逃げているのである