答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

慎太郎像を前にして考えた

2022年09月27日 | 北川村

 

 

先週末、ふたりの客人あり。大阪からである。

当然、モネの庭へと案内するべく、睡蓮の咲き塩梅を予想して11時集合とする。

10時半ごろ晴天の空をながめ、少し早くてもよいかなと連絡すると既に来村しているらしい。そしてその所在はというと中岡慎太郎館だという。

モネの庭を案内したあと、時間とその気があれば慎太郎館へと赴くことはよくあるが、自らの意思でそこへ行く人はめったにいない。いや、わたしの記憶にはほとんどない。

だが、なんにしても悪い気はしない。迎えついでに館へと行った。

すると、クルマはあるが、そこらあたりにくだんの人たちの姿はない。余程時間をかけて見ているらしい。待つことにした。

ふと、青い空と白い雲をバックにした慎太郎像が目に入る。当然、撮らなければなるまい。と、もっとも気に入っている角度から一枚。

 

 

 

健脚で知られた慎太郎さんらしく、躍動感があふれるアングルだ。

ついでだ。時間もある。像のまわりをぐるぐると一周し、異なる角度で何枚かをカメラに収めた。

そのなかの一枚がこれだ。

 

 

 

 

iPhoneのディスプレイをながめながら、お、と新鮮な驚きを覚えた。

「このアングルもええやんか」

思わず知らず独りごちる。

「俺が中岡慎太郎だ」

てな感じで自信に満ちあふれた姿だ。

 

「これがベストだ」と決めるのはわるくない。だが、それが念頭にあるがばかりに、他の可能性を閉ざしてしまうことがある。その執着が虚心さをどこかに追いやってしまうからだ。

それは良い方への評価だけではない。ワーストと断じる場合にも同じことが言える。是非の思い込みである。思い込むことが執着のはじまりだ。執着に堕すれば、是非の判断が一方的なものとなり、別の側面が見えなくなってしまう。もちろん、写真だけに限ったことではなく、物事に対する向き合い方の話である。よくあることだ。気をつけなければ。

慎太郎館の外に腰をかけ、そんな思考をめぐらせていると、館から出てきた客人がコチラに気づいた。

久々にじっくりと慎太郎像と向き合い、よい時をもらった。その余勢を駆って、モネの庭へと赴いたのは言うまでもない。

 

 

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