倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

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第15章 大和朝廷と倭人

2012-11-07 10:25:35 | 第15章 大和朝廷と九州倭人
 縄文時代から弥生時代に至る長い時間経過の中で、長江河口からさまざまな民族が、さまざまな文化を携えてやってきた事実をみてきた。さらには、縄文人と弥生人の圧倒的大多数がそうした人たちだった様子をみてきた。ここであらためて、倭人の構成実態や九州特有の墓制などを見てみよう。
 
 中国には50を超える少数民族がおり、各民族ごとに幾つもの支族に分かれている。このように、風貌や形質が同じで異なる文化をもつようになった主因は、海浜部・河川流域部・平野部・山間部・山岳部など、生活環境によるところが大きいものと思われる。そうして、少しずつ異なる文化を持つ人びとが、自分たちの文化・習慣を守りながら混在し共存してきたわけである。
 民族と諸文化は、複合に複合を重ねて混雑してしまっている。かろうじて民族の原型ともいえるものをとどめているのは、頑に他民族との同化を拒絶して、その伝統と文化を守ってきた一部の人たちである。他民族との同化を拒めば、結果として少数化への道をたどる宿命にある。そうした典型としての実例を、中国山間部の奥深くに住む少数民族といわれる人たちが見せてくれている。私は、日本列島にもそうした少数多民族がいただろうことを、隼人・熊襲・土蜘蛛と呼ばれた辺境の社会部族に見る。


●「山越の民」と古代倭国の社会部族
 呉の都・建業に近い丹楊という山岳地帯には、山越と呼ばれる勇敢で剽悍で戦いが得意な不服民族がいた。丹楊は山が険しく、山越の兵は強く、容易に抑えることができなかった。そうした中で、呉の武将たちは山越討伐を軍事演習を兼ねた手柄仕事として、山越族を平定しては呉軍に編入していた。こうしたことから、古来、丹楊郡は強兵を出すことで知られていた。呉の武将陸遜は丹楊から数万の山越兵を得たというから、呉は、山越の民を重要な兵力供給源としていたのである。この、まさに「山越狩り」ともいえる兵力確保事業は、孫策から孫権へと受け継がれることになる。
 かくして、呉は山越の民を略取したり強制移住させる政策を続けた。三国時代以後、山越はほとんど見られなくなるというから、呉に追い散らされたか滅ぼされたような状態だったようである。この山越族の一部が、山を降りて海を渡った可能性は非常に高い。
 険しい山岳地帯を庭同然とし、勇猛で剽悍で、戦いが得意で勇猛で頑強。そして、いかなる権力にも服わない。こうしたところなどは、まさに熊襲・隼人と呼ばれた、大和権力に服わない社会部族に通じるところがある。

●隼人
 隼人という社会部族の歴史は、中央への従属と抵抗という二面性でもって語ることができる。
 『記紀』によると、隼人の祖先と神武天皇の祖先は兄弟ということになっている。この隼人は、大和政権成立後もつねに天皇・皇族の身辺に仕え、犬のような吠声・武力・通訳言語能力・呪力といった特殊能力でもって、長く身辺警護や司祭を務めてきた歴史的事実がある。(朝廷内だけではなく、渡来人集落に張り付くようにして隼人の集落が置かれていて、都の内外から警護していた)。
 彼らの犬のような吠声と口笛は、緊急伝達の駅伝では狼煙とは比較にならないほど早いし、夜警では合図として威力を発揮する。私はこの「吠える人」が吠人(はいと)と呼ばれ、『記紀』に隼人と書かれたのではないかと見ている。
 それほどに、一旦服従を誓ったら頑固なまでに忠実な隼人が、歴史上何度か朝廷に反抗する。大和政権は、隼人が反乱を起こすたびに九州に兵を送り込んで鎮静化や懐柔にあたる。それでまた服従することになるのだが、大和政権としてはどうしても隼人の剽悍さ・武力・呪力などの特殊能力を必要としたらしいのである。
 
 「寸鉄をおびず」が鉄則の王宮にあって、武器を所持して王の身近かに侍(さぶら)う者が侍(さむらい)のはじまりである。支配者の身辺で武器を所持できたのは、支配者にとって最も信頼のおける者である。あなたが支配者だったとして、あなたが寝ている時も武器を持たせて身辺警護をさせるのに、最も信頼がおけるのは誰だろうか。古今東西の史実が一様に示す通り、出てくる回答は親近血族である。 自らが征服した異民族に任かせたりしては、いずれ寝首をかかれることになる。とくに隼人はそういう気質の種族なのである。
 侍(さぶら)う者たちは、朝廷人の日常生活の世話から身辺警護・王都警備に至るまで、絶対の信頼をもって服従した。 つまり、支配者の身辺で武器の所有を許されて警護に務めたのは、支配者に最も近い人種だった。隼人が支配層の近習として仕え身辺警護に務めた事実からやや極論すれば、倭国・日本国へと脈絡する支配層の民族的出自が、隼人と同じかそれに極めて近かった可能性も想定の範囲に入れておく必要がある。
 その隼人の歴史は、ある部分で苗族の歴史に似ている。漢族に吸収されて同化した苗族もいれば、新天地を求めて移動した苗族もいれば、漢族の圧力に抵抗し続けた頑強な苗族もいた。同化した苗族の中には、勝者の統治下にあってその国家づくりと体制維持に関与した部族もいた。
 隼人もしかりで、柔軟な部族もあれば頑な部族もあった。中でも、大和政権下にあって、その国家づくりと体制維持に関与した隼人もいたのである。こうしてみると、苗族が大陸で展開した生き方の縮図を、隼人という社会部族が展開したのではないかと思えてくる。


●熊襲
 熊襲は、8世紀に成立した『日本書紀』が創作した架空の存在である。実在した社会部族の隼人とは違って、『記紀』に登場するだけで前後の歴史がない。興味の部分は、熊襲と呼ばれた社会部族にモデルがあったか否かである。これについては論拠の乏しい推論にならざるを得ないのだが、大和朝廷の統一事業が隈なく徹底していなかった時期において、服わない少数集団が九州の沿岸部から河川流域・山岳部に至る辺境にで散在していたのだろう。そうした幾つかの集団を『日本書紀』が熊襲と書いたようである。

 熊本県の熊は、古くは久々知(くくち)に隈部(くまぺ)という土地があって、11世紀初頭に土着した藤原氏の後裔が菊池氏を称して久々知が菊池となった。菊池の隈部はその後、室町時代に隈府(くまふ)から隈府(わいふ)と呼ばれ、南北朝時代には隈本(くまもと)と呼ばれて、1607年に加藤清正がこれを熊本に改めた。この歴史的経緯で分かる通り、8世紀に『紀記』が書いた熊襲と、17世紀に加藤清正がつけた熊本はまったく無関係である。
 創作歴史書の熊襲の部分だけを鵜呑みにした上で、熊襲=服わぬ者という直線思考で、熊襲を熊本と決めつける偏向史観が目立つ。だが、創作歴史書のいう熊襲を信じるのであれば、熊襲とは図で示す通り九州北部(筑前・筑後、豊前・豊後)に最も多かった部族であり、九州北部こそが熊襲の本場なのである。熊本平野と阿蘇地方は、むしろ熊襲の空白地帯(代々朝廷に恭順だった土地)である。また、『倭人伝』に登場する狗奴国を熊襲とする見解もあるようだが、熊本県で熊襲がいたのは球磨地方(人吉盆地)である。



 ※図中の黄色丸はは景行天皇が退治した熊襲。オレンジ丸は神功皇后が退治した熊鷹と土蜘蛛。肥後と肥前と日向を除く「筑前・筑後、豊前・豊後、南端の隼人の国」に熊襲という種族がいたことが分かる。とくに、熊本平野部と阿蘇地方にはいない点にご注目いただきたい。熊襲とは創作の産物であり、沿岸部・河口部・河川上流部・山岳部などに散在した社会部族集団のことだと思われる。

 もう一つの「隈」のつく地名も、図のように九州北部が圧倒的に多い。
①福岡県糸島半島/赤隈、松隈、丸隈山
・福岡県福岡市/道隈、七隈、干隈、田隈、月隈、金隈、雑餉隈、西隈、丸隈
・福岡県甘木市と夜須町周辺/隈、篠隈、乙隈、横隈、小隈、山隈、今隈
②大分県日田市/月ノ隈、星隈、三隈
・大分県玖珠町/大隈
③佐賀県大和町と神埼町周辺/中津隈、西隈、鈴隈、帯隈、早稲隈、日の隈、松隈、鳥の隈
 ごらん通り、福岡県、大分県、佐賀県に隈のつく地名が多く、「隈」の本場も九州北部だったことが分かる。21世紀の現代までこれほどに残っているのだから、古くはもっと多かったものと思われる。ところが、熊本平野周辺には、隈部(くまぺ)と隈庄(くまのしょう)しかない。隈府(くまふ)・隈府(わいふ)・隈庄はともに中世以降につけられた地名である。


※現代まで残る「隈」のつく地名(オレンジ丸は菊池の隈部、白丸は隈庄)

 問題の熊本平野の古代遺跡・遺物をみてみよう。
 古くは、菊池川流域は九州で最大というよりも日本列島で最も多く、稲のプラントオパールが分布する。時代的にも、縄文前期から晩期にかけて継続的している。ここで出土したプラントオパールは、長江河口の河姆渡遺跡から大量に出土した炭化米と同じ熱帯ジャポニカである。また、松菊里型円形住居跡(遼寧式青銅器文化)の発見、朝鮮系無文土器の出土。とくに、縄文晩期の玉つくり工房跡から出土した首飾りは、地元産のヒスイでつくられていたことが判明している。(熊本大埋蔵文化財調査室)
 弥生時代になると、丹塗り土器・朱塗り土器が出土。弥生の鍛冶工房跡の発見。小型銅鐸の出土、銅鏡・巴型銅器の出土、小銅鐸・細型銅戈の鋳型の出土。最古級の小型国産銅鏡の出土。木製短甲の出土(福岡県の今宿五郎江遺跡よりも早く出土している)。西日本最大級の貝塚の存在、大小の環濠集落の存在、吉野ケ里クラスの環濠集落の存在(方保田東原遺跡)。また最近になって、熊本県が鉄鍛冶の中心だったことが村上恭通氏によって証明されている。
 古墳時代には、西都原古墳群を遥かに凌駕する500基もの古墳が集合した塚原古墳群の存在、平原1号墳の2倍もの方型周溝墓の発見などなど。他の地域で出れば騒ぎになるような遺跡・遺物が目白押しである。
 人口の面でも、熊本平野は弥生時代においては人口密集地帯であり、当時の中心的なエリアの一つだったのである。
 このように、あらゆる文化の面において他の倭人地域と何も変わるところがない。むしろ、縄文時代から弥生時代にかけては先進的でさえある。すなわち熊本平野は、熊襲・隼人という社会部族がいたのではなく、まさしく倭人が棲息する先進地域だったのである。


●土蜘蛛
 (地域によって、都知久母、土隠、土雲、国巣、国栖、夜都賀波岐、八掬脛など多様な呼称がある)。
 熊襲の項でも触れたが、大和朝廷の初期段階においてその権力が隈なくいきわたっていなかった時代に(換言すれば日本列島が倭人という民族グループでまとまる以前に)、朝廷の統治を受けていなかったり朝廷に服属しなかった辺境の少数部族集団が日本各地にいた。これらの多くが土蜘蛛と呼ばれたようである。
 体系的には、身長が低く手足が長く、その脛の長さは八束もあったといわれる。土蜘蛛の別称に夜都賀波岐(やつかはぎ)・八掬脛(やつかはぎ)があるが、これは八握(やつか=握りこぶし8つ分の長さ)の脛を意味する。それほどに、脛や足が長いということだったようである。彼らは主に、河川の上流部、山岳部、島嶼部の洞穴で生活していたといわれる。

●土蜘蛛の分布(カッコ内は部族数)
●新潟県(1) ●福島県(8) ●京都府(2) ●奈良県(6) ●大阪府(1) ●茨城県(8)
●福岡県(2) ●大分県(5) ●佐賀県(6) ●長崎県(4) ●熊本県(2) ●宮崎県(2)
 土蜘蛛の中には稲や埴輪に関する知識を持っている者もおり、言語的にも朝廷側と極端な相違があった様子もなく、民族的にも朝廷側の人間との大きな相違はなかったようである。土蜘蛛と同じ辺境の社会部族でありながら、八女津媛のように朝廷側に恭順した者は土蜘蛛と呼ばれない例もある。(『古代土蜘蛛一覧』を参考に私見を交えて整理)
 基本的には朝廷側と同じ民族(縄文期に長江河口から渡来した先住民)でありながら、個々に少しずつ異なる生活習慣をもっており、かつ隼人・蝦夷といった特定呼称で呼ぶほどのまとまった勢力ではなかったのだろう。その名残りを残す小数派集団が、土蜘蛛やこれに類する別称で呼ばれたようである。そうしたところをみても、かなりの種類の非漢民俗(現代の中国の少数民族と同族と思われる民族)が長江河口から渡来し、それぞれの棲息エリアに住み分けていたものと思われる。だが、やがてはこうした社会部族も融合し複合し、倭人という大きな民族の枠組みを構成することになるのである。

※徐福と土井ヶ浜人
 少し横道になるが、触れておかなければならないことがある。 
 私は徐福の東渡伝承は史実を告げていると思っている一人である。『史記』にみるかぎり初めての出港から10年間にわたって人員や物資をシャトル輸送している。ということは、移住先もそれほど遠くはなく、比較的確実に往来できた所にあったと思われる。中国側で徐福伝承が残るのは秦皇島をはじめ渤海沿岸に多いが、これは彼が人員や物資の調達や積み込みで立ち寄ったところとみなされる。
 私が移住集団のリーダーだとした場合、集団を小分けして四方に分散移住させる。というのも、自然災害や地域紛争など何かことがあって一部の地域集団が壊滅しても、移住集団が全滅することはない。また、1箇所に大量に移住できるような土地には先住民集団がいたことだろうし、その土地の生産能力に応じた人数しか移住できない。この二つの理由からである。集団が分散移住していれば、(囲碁の布石に似て)その棲息領域が集団の領域となる。かくして、集団相互のコミュニケーション・ネットを活かしながら、集団の存続と繁栄を確保する。徐福伝承が全国各地にあるのは、そうした集団小分け移住策をとったからだろうと私は見ている。
 横道というのは、山口県の土井ヶ浜遺跡の人骨の件である。
 これが中国・山東地方の人骨と共通するといわれて久しいが、私も、これらが徐福が帯同した移住民かその子孫の可能性を考える一人である。逆に、肥前・肥後・日向に徐福伝承がほとんどないのは、このエリアには山東の徐福集団とは少し異なる先住民勢力がいたからだと私はみている。集団小分け移住策をとった徐福一行だが、遥か縄文時代から継続的に渡来して倭人文化圏を構築していた先住民勢力には数的に勝ることはなく、倭人(弥生人)の主力とはなり得なかった。
 確かに、現代まで連綿と続く日本人の形質は、タテに短くヨコに広い。圧倒的大多数は足が太く歪曲して短く・骨盤が広く(タテに長くヨコに細い漢族とは違って)、中国南方の少数民族のそれに酷似する。


社会部族の多様さを物語る墓制の多様さ
 さて、装飾古墳が出現するのは古墳時代に入って1世紀以上を経た5世紀ごろになる。そうした中で、九州南部では異色の古墳が展開する。地下式横穴墓と、地下式・板石積石棺墓がそれである。これもまた、装飾古墳と並ぶ九州独特の墓制である。

●地下式横穴墓
 5世紀前半から7世紀初頭にわたって造営された様式。竪坑を垂直に掘り、そこから横に玄室(棺を置く部屋)を掘り込んだ横穴墓。西都原古墳群を北限に、一ツ瀬川、大淀川、宮崎県中央内陸部から霧島山麓の諸県盆地、西はえびの市、川内川の各流域地帯、鹿児島県大口市から熊本県人吉市まで分布を広げている。出土品は、甲冑などの武具、轡・杏葉などの馬具、剣や大刀、鏃など鉄製の武器類、銅鏡、玉類、馬具や須恵器、土師器なども出土している。

●地下式・板石積(いたいしづみ)石棺墓(せきかんぼ)
 平らな板石を積み重ねて地下に石室をつくる様式で、4世紀代から6世紀にわたって築造された。西は天草から、水俣・人吉盆地、川内川流域、えびの高原・小林市まで分布している。鹿児島県さつま町の別府原古墳群は古墳時代の5世紀末ごろの築造で、6基の地下式板石積石室が検出されている。副葬品は鉄剣・鉄鏃などの武器が出土している。6世紀ごろ築造の天草の「妻の鼻」地下式・板石積石棺墓では、鏡や玉類のほかに大量の鉄製武器が出土している(Wikipedia)



 ※赤丸が地下式横穴墓。オレンジ▲印が地下式・板石積石棺墓。青★印が地下式横穴墓と地下式板石積石棺墓の折衷墓。「熊襲・隼人の時代を語る」 鹿児島県歴史資料センター黎明館/橋本達也氏を参照して作成。
九州山地を境に東西で様式が異なるが、両者は互いに交流と共存ができていたらしく、東西の境目にあたるえびの高原・小林市では混在している。明らかに装飾古墳とみなされる地下式横穴墓もあり、板石積と地下式横穴の折衷墓もある。

 分布図によれば、地下式・板石積石棺墓が天草・球磨地方から川内川流域にかけて分布していること、阿久根市の脇本古墳群では、横穴式石室と地下式・板石積石棺墓が共存していること、地下式横穴墓が宮崎県中部以南から鹿児島県南東部の肝属郡にかけて分布することが分かる。肝属郡は前方後円墳の南限でもある。
 また人口密度の面でも、宮崎・都城・肝属郡が飛び地的に多い。まさに、九州南部の西側が地下式・板石積石棺墓で、東側が地下式横穴墓と分かれている。
 これをみればあるいは、西側の地下式・板石積石棺墓が熊襲の墓制で、東側の(数千基はあるという)地下式横穴墓が隼人の墓制という色分けを想定する人もいることだろう。この、宮崎・都城・肝属郡に展開する地下式横穴墓を隼人のものとする説もある。果たして、それほど単純に割り切れるものなのかどうか。試みに、大淀川河口部に展開する有名な生目古墳群の例をみてみよう。
 
 3世紀末ごろから築造が始まり、古墳時代前期のものとしては九州最大の古墳群とされる。全長143メートルの前方後円墳をはじめとした100基近い古墳に混じって、36基の地下式横穴墓が確認されている。このように、南九州では高塚式古墳(いわゆる円墳や前方後円墳)と時代を並行して、地下式横穴墓、地下式・板石積石棺墓が展開する。これら複数の墓式の混在は、大和政権下の南九州において、地域色の濃い独特の古墳づくりが営まれたことを示している。
 


 鹿児島県歴史資料センター黎明館の橋本達也氏は、隼人と熊襲を倭人とは異なる社会部族扱いする手法に警鐘を鳴らす。
①九州南部の古墳時代社会においても、出土資料から朝鮮半島・琉球列島・瀬戸内・近畿に及ぶ非常に活発な広域交流が行なわれていたことが明らかとなっている。地下式横穴墓自体は、広域交流を背景としてさまざまな情報がもたらされている中で生み出されている。過去には地下式横穴墓を土着文化の所産とみなしたが、これを単なるローカルな墓制としてみることは正しくない。
②前方後円墳や円墳と一体のものとして築造されている地下式横穴墓も判明し、墓制が集団と同一ではないことが明らかである。(特定の集団に限定されるものではない)。地下式横穴墓を在地墓制・隼人の墓制として、墓制に民族を当てることは適切ではない。(高塚式の)古墳被葬者の近親者を地下式横穴墓に埋葬する場合があるとみられ、地下式横穴墓を主体部とする可能性がある前方後円墳なども確認されている。
③(地下式横穴墓や板石積石棺墓が造営される)5世紀代は、本州でも(高塚式の)古墳以外の墓制が存在するなど、列島各地で地域ごとに特徴ある埋葬施設の採用が広く見られ、九州南部の地域性のみを、熊襲・隼人といった民族性で説明する根拠はない。
④全国の前方後円墳築造動向から、前方後円墳は地域ごとに自立的な築造体系があり、地域間関係を持ちつつ地域的政治秩序は並立している。
⑤熊襲・隼人は7世紀後半以降の古代国家の枠組みの中に位置づけられた存在であって、九州南部の古墳時代人の実体とは別ものである。古墳時代の墓制形式が民族(社会部族)を表しているととらえ、それに中央政権・隼人・征服・服属など意味を与えるは間違いである。

 私もまったく同意見である。かくいう私の論拠は明確である。
 装飾が施された前方後円墳もあるし、地下式横穴墓の副葬品をみても、鏡、剣、直刀、鉄鏃、刀子、勾玉などなど、他の前方後円墳から出るものと大きな違いはない。。この葬送儀礼が、天師道から道教へと脈絡する鬼道の信仰精神に基づくものであることは明白である。すなわち、前方後円墳も地下式の横穴墓も板石積石棺墓も、同じ信仰的精神性をもった倭人の墓制であり、それほどに多様な民族がいて、まだまだ個々の「民族的個性」を色濃く残していた時代だったということだろう。






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通りすがりですが・・ (魔除けに牛島辰熊)
2014-04-03 01:59:39
>支配層の民族的出自が隼人と同じかそれに極めて近い 
>(隼人の中にも)柔軟な部族と頑な部族が 

↑その件について私見を書いときます。
おそらくは九州北部にあった高天原から高千穂の山々を越えて日向の平野へと降りて来た天孫の一派。 
彼らはその地で力を持っていた隼人の豪族達を懐柔すべく政略結婚しまくって親戚関係となる。 
当然、在日向4世の神武兄弟などはもうすっかり隼人と混化混血化したハーフであり、彼らと親戚関係になった隼人族とは仲間同士。 
ある日神武兄弟は一大決心し、身内である天孫一派に加え、既に仲間となり親戚でもある隼人族の軍団(久米の子ら)も共に引き連れて東を目指す。 
東を制覇する際、みつみつし隼人軍団の武勇に大いに助けられたから、大和朝廷は始祖に加勢してくれた隼人族を後々まで近習として重用した。 
(この辺は、伊賀者が苦労時代の家康を助けてくれたから徳川家は後々まで伊賀者を重用した例と同じ心理)
だが勿論、日向に降りて来た天孫一派に従わず、親戚にもならず、神武の東征にも付いていかずに南九州に居残った隼人族達も居るわけで、彼らは後にまつろわぬ賊・熊襲として討伐の対象となった。 

・・って感じだったんかなぁ~と思ってます♪ 

それでは管理人さん、これからも歴史探究頑張って下さい!(・∀・)ノ

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