倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

第14章 二種の神器と三種の神器

2012-11-07 10:26:09 | 第14章 二種の神器と三種の神器
 倭国王家から天皇家へと脈絡する支配層の祭政手法(信仰的儀礼)は、中原王朝のそれに倣ってきた。これに、後漢末の中国で盛んになった天師道(初期道教)の要素が複合すると述べたが、その最たる事例が「三種の神器」である。
 中国学界でも道教研究者として知られる福永光司によると、道教の前身たる張魯の天師道は鏡と剣を二種の神宝としていたという。これが4世紀末ごろに儒教を取り込んで、道教として体制内宗教に昇華したとき、儒教の神宝の玉ぎょく( 勾
玉ではない)を加えてはじめて三種の神宝が揃う。(ということは、三種の神宝が登場する以前の3世紀に鬼道(天師道)を修という卑弥呼は、鏡と剣を二種の神宝にしていたことになる)。そこで次に、わが国における三種の神宝に関する考察を展開する。


●中国古来の鏡信仰
 鏡と剣の用途機能しては、権力の継承や権力そのものを象徴する神器と、神の象徴や神の依り代として祭祀の核となる祭器と、そして、破邪・駆邪の呪具として死者に副葬する明器の3種がある。古墳や遺跡から出土する鏡は、すべて明器と考えて差し支えない。

●「中国では古くから鏡に呪術的な機能があるとして、貴族たちは人が死ぬと墓に鏡を副葬した。漢代になると、皇帝は臣下が死んだ際には遺族に副葬用として鏡を贈るようになる。鏡は身分や男女の区別なく副葬され、一人一面だけでなく複数の場合もあり、一つの鏡を2つに割って、二人別々の棺に納められていた例もある」。
●「中国において鏡を神霊視する意識はかなり早い時期から現われ、帝王権力を象徴する玉鏡、天鏡、金鏡があった。それ以外には、通常は悪鬼を駆除し災を回避するための道具として使用された。このような、銅鏡を、邪をはらう・神に会うための呪具とする信仰は、(のちに)道教の中に継承されることになる」。
●「道教では、人が死ぬと冢墓に入り、冥界で生前の罪状の審判を受けなければならないとされる。もしも、死者の魂が親族からの救済を得られず恨みが生じれば、冥界で訴訟が起こされることになる。冥官の懲罰は死者の親族(生者の側)にまで及び、彼らに災いや病気をもたらし死に至らしめるとさせる。懲罰が生者にまで及ぶことを恐れ、生きている人間の不幸を防ぐためには、道士が解除の法術を行なう必要があった」。(「道教文物の概説」王育成)

●「道教の神学において、最高神である天皇大帝は、その宗教的神聖性の象徴として二種の神器を持つとされる。鏡と剣とがそれであり、神器という言葉も道教の経典などにその用例が見える。道教の神学における鏡と剣を二種の神器とする思想信仰は、中国の六朝時代、『抱朴子』の著者・葛洪や『真誥』編著者・陶弘景らによってその理論的基礎が確立されるが、この二種の神器の思想信仰を日本の天皇の皇位の象徴として、ほとんど直訳的に採り入れているのは、8世紀初頭に成った『日本書紀』である。(『道教と古代日本』福永光司)

 一方、中国社会科学院歴史研究所教授の王育成氏によれば、「(道教成立後の)道教経典では、「鏡、剣、玉璽」が道家の三宝とされたという。(道家の三種の神器は鏡・剣と玉の印璽だったのである)。というわけで、日本列島に三種の神器が登場するのは、少なくとも道教が伝来する5世紀以降になる。
 わが国の古墳から三種の神器が揃って出土したという声もよく聞くが、5世紀以前の古墳から出土する鏡と剣と勾玉は、三種の神宝として揃えられたのではなく、多くの副葬品の中に「たまたま」それらがあったにすぎない。むろん、「壱岐の原の辻遺跡から最古の三種の神器が出た」とか、「2~3世紀の弥生時代の遺跡から三種の神器が出た」という説は明らかな歴史錯誤である。
 
 わが国の古墳に鏡と剣を副葬する葬送儀礼が、道教の前身たる天師道にあることは明確な事実である。鏡と剣について語るには、どうしても天師道(初期道教)に触れる必要がある。この天師道こそが、体制側の歴史書たる『三国志』が邪教扱いして、批判的に鬼道と書いた民間宗教でもある。

❶天師道
 遠く周王朝下の斉で、宣王が居城の門下に大学をつくる。中国全土から集まった食客は数千人といわれたが、彼らは衣食住に何の不自由もない環境で厚遇され、日夜勉学と議論に明け暮れた。ほどなく諸氏百家の時代を迎えるのだが、ここで、老子の思想に斉の地に古くからあった黄道を取り込んだ学問が、黄老学(道学)として開花する。この道学を修めた張陵が『道書』24篇を著わす。142年、鶴鳴山で太上老君の命を受けて『道書』を基礎とした天師道を創立する。

❷巫鬼(ふき)道
 のちに蜀領となる漢巴の地域には、古くから巫鬼道の信仰があった。張陵はこの漢巴に自らが極めた道学を持ち込む。一気に信徒を増やす中で、旧来の巫鬼道と対立して排除していく。(一説によると、巫鬼道は人間を鬼神への生け贄にしていともいわれる。張陵があえて漢巴を布教の地に選んだのには、巫鬼道を駆逐する意図があったのかも知れない)。張陵は戒律を制定し太清玄元の神を崇め、邪道に誘う鬼を祭ることを禁じた。張陵の天師道は盛んに伝わり、当地の巫鬼道の巫覡もくら替えして天師道の祭酒・道民になり、天師道は四川(漢巴)に次第に根をはっていった。 張陵が、157年に世を去り、その子の張衡が跡を継いだ。その張衡が179年に死ぬと、これを引き継いだ張脩によって巫鬼道が再び盛んになる。

❸五斗米道
 もともと巴郡の巫人(巫鬼道の巫覡だった)張脩は、張衡の死を境に天師道と巫鬼道を一つにして天師道の信徒を統括した。信徒や患者に米を拠出させたことから、米巫・米賊とも呼ばれた。そもそもは、これが五斗米道であり『三国志』のいう鬼道である。
●益州牧(長官)の劉焉は張脩に投降帰順させて五斗米師を接収して、張脩を別部司馬に任命する。 一方、張衡の息子の張魯(張陵の孫)を督義司馬に任命して、張脩とともに漢中太守の蘇固を攻撃させる。張魯は、張脩と蘇固を奇襲したあと張脩をも襲って殺し、全軍を掌握した。祖父のつくった教団を、父親の死後に横取りした形の張脩に対する報復と教団奪還の思惑があってのことだろう。張魯は思惑どおり教団を奪い返している。

❹初期道教
 劉焉の死後に子の劉璋が立ったが張魯がこれに従わなかったので、劉璋のところで布教活動をしていた母と弟を殺された。そこで張魯はそのまま漢中にとどまって支配した。威光の衰えた朝廷は張魯を懐柔。張魯は漢寧太守となり漢中に天師道王国を建てた。張魯の政治は独特で、長吏(軍事長官)を置かず、すべて祭酒(大学教授)に治めさせた。人々は平穏安楽で、張魯の漢巴支配は30年間続いた。
 張魯の教団は、張脩の鬼道色を少しは残しながらも天師道と称していた。米を収める規定が張魯の教団にあったか否かは不明だが、社会一般には五斗米道と呼ばれ体制側からは鬼道と呼ばれた。
この天師道が道教の原形をなすもので、一般には原始道教とか初期道教と呼ばれる。

●二種の神器と二種の明器
 天師道を基礎とする道教における鏡と剣の位置づけについて、天津社会科学院教授の王金林氏はこう述べている。
●「墓に副葬された道教の呪具の中で、玉は不朽で永遠に存続する、銅鏡は神仙と会い悪魔を制御する、さらには、銅鏡を被葬者の左右に置く日明鏡、銅鏡を前後左右に置く四規鏡は、神仙と会い悪魔を制御し、俗から離れて仙人になる目的を達成する思想による」。
●「道教において鏡は神仙示現・予知・不老長生・辟悪などに関わる呪具として用いられるものであり、副葬品としての鏡もまたそうした多様な呪術的性格を持ち合わせていたのではないかと思われる。たとえば、三角縁神獣鏡に描かれた神仙や霊獣が道教的思想を反映して描かれたことは、神仙が東王父・西王母などに対応して配置されていること、霊獣が巨(矩)と呼ばれる呪具などをくわえた例などからもうかがわれる。その際、霊獣は神仙の乗り物として死者の霊魂を仙人のいる天上世界に導いてくれることを期待されたのではないか」。(「古墳出土の玉・鏡・剣の副葬品からみた道家思想の影響」王金林)


●剣の副葬と尸解(しかい)術
 剣は被葬者の生前の社会的地位を示すと同時に、祭祀具としての宗教意識を内包するものである。東大寺山古墳出土の環頭大刀銘に「上応星宿、下辟不□」と刻されているように、大刀は宿星信仰に基づいてその呪力が期待されて副葬された。道教では神仙の地位の上下(総じて九品)が決まっており、道士は修練によって神仙世界に昇ることができるが、その修練の度合いによって昇天の方術は飛天・隠遁・尸解(魂が昇天する)の3つに分かれる。(王金林)

 どうやら、古墳に副葬された鏡と剣の配列にも信仰的意味があったらしい。中でも死者に副葬された剣は、死者が神仙世界に昇るための呪具だったというわけである。




●古代における信仰改革
 中国における道教とその原形をなした天師道(鬼道)は、一般には宗教と思われているが、実態は無数の人びとの知識と学問の集大成である。中国古来の森羅万象の学問を背景としたものだから、いささか非科学的な要素を包含するとはいえ、医薬学・方位学・易学などの多様な分野で現代まで通用してることで、その真価のほどを実証している。
 先に述べたことのくり返しになるが、鬼道と呼ばれた道教の前身が、医療・施薬から治病祈祷、さらには武運・戦勝、航海安全・破邪・駆邪・地鎮に至るまで効果を発揮したことは容易に推察できる。こうした様子から、鏡と剣を二種の神宝とする鬼道様式が、劇的な大改革を起こしただろうことは想像に難くない。
 とくに古代において、生命と直結する治病祈祷や安全祈願など現世利益を提供する鬼道は、それまでの銅鐸祭祀にくらべれば極めて大きな魅力で、人心を掌握したに違いない。 人心の掌握は有力な政治手段として機能する。 わが日本列島では、弥生前期から古墳時代へと脈絡する集落遺跡が多く、また、列島をあげての大きな戦いの痕跡がないことなどから、鏡と剣を神宝とする鬼道様式を活用した、勢力拡大と統一事業の経緯をうかがうことができる。


●古墳時代は鬼道がもたらした
 銅鏡を死者に副葬する習慣は中国でも古くからあって、青銅器を地下に埋めることで土地の神を鎮める地鎮の意味があったようである。また、「破鏡重円」という信仰めいた考え方があって、破鏡を副葬した実例もある。わが国では、破鏡を含む銅鏡は墳墓に副葬されているだけではなく、開拓・開墾された住宅地などにも埋められている。これと同じ現象を見せるのが銅鐸で、そもそもは地鎮の呪具として地下に埋められたとも考えられる。
 そうしたところへ、後漢末に新興宗教の鬼道=天師道(初期道教)が登場する。この宗教は鏡と剣を神宝・呪具とし、死者を神仙へ導くために、棺内での副葬配列にまで意味を持たせて様式化している。この鬼道が神宝・呪具としたのが神獣鏡で、神獣鏡は鬼道が生んだ鏡である。むろん、呉地域から多種かつ大量に出土する典型的な呉式鏡である。

 ところで、わが国で最古級とされる古墳をみると、その副葬品から大きくは2タイプに分けることができる。
●中国古来の漢式鏡を副葬している最古級の古墳。
 多くは方格規矩や内行花文鏡などの漢式鏡か、その破鏡を副葬している。
①鶴尾神社4号墳/獣帯方格規矩四神鏡
②茶臼山古墳/中国製細線式獣帯鏡
③美濃観音寺山古墳/方格規矩四神鏡、重圏文鏡
④平塚古墳/内行花文鏡
⑤平原1号墳/内行花文鏡、方格規矩鏡、四螭文鏡、大型内行花文鏡
 以上の古墳は古い漢式鏡を副葬しており、鬼道と神獣鏡がさほど普及していなかった3世紀初頭の築造と思われる。
●鬼道の作法で新しい呉式鏡(神獣鏡)を副葬している古墳。
 鬼道と神獣鏡がセットで普及して、最初に副葬呪具に用いられたのが画紋帯神獣鏡だろう。画紋帯神獣鏡を副葬している古墳は、最古級といわれていても、その築造年代は比較的新しい。
①萩原墳丘墓/画文帯神獣鏡
②ホケノ山古墳/画紋帯神獣鏡
③古冨波山古墳/三角縁神獣鏡
 以上の3つの古墳は神獣鏡を副葬するようになった時代の築造で、真の最古級古墳よりは新しいとみなされる。とくに三角縁神獣鏡を副葬した古冨波山古墳は初期の築造とされているが、築造年代が疑問視されるホケノ山古墳よりもさらに新しいようである。
  
 画紋帯であろうが三角縁であろうが、神獣鏡は鬼道が生んだ鏡であり典型的な呉式鏡である。中でも画紋帯神獣鏡は呉地域で数多く出土している事実からも、呉地域からもたらされたとみなければならない。かくして、神獣鏡が副葬されるようになってから(換言すれば鬼道の葬送様式が普及してから)、日本列島では古墳づくりが本格的に行なわれるようになる。こうした実情から極論すれば、「古墳時代は鬼道がもたらした」といっても過言ではない。


●三種のひとつの玉璽(ぎょくじ)が勾玉(まがたま)に変ったわけ 
 天師道から道教へと続く中国古来の宗教が、鏡と剣と玉印を三種の神器としたことは理解できた。ところが、三種の神器をそのまま受け入れてきたはずの日本では、鏡と剣と勾玉を三種の神器とする。これはいったどういうことだろうか。 わが国における三種の神器は、天孫降臨の際に天照大神から授けられたという鏡(八咫鏡)・剣(天叢雲剣)・玉(八尺瓊勾玉)を指す。天皇の位を受け継ぐ際に授受され、この三種の神器を所持することが正統な皇位継承の証しとされた。
 『日本書紀』神宮皇后紀では、鏡と剣が二種の神器として登場する。また仲哀天皇紀では、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らが、白銅鏡、八尺瓊、十握剣を掲げて馳せ参じている。ここで注意したいのは、地方豪族たちの所持する三種の一つが「玉ではなく」縄文以来の「勾玉」になっている」ということである。
 一方で、『日本書紀』の皇位継承のシーンでは、璽符・璽・璽印・璽綬(印璽と綬)・神璽といった表現で何度も登場する。
①允恭天皇紀「天皇の璽付(じふ)を捧げて再拝す」
②清寧天皇紀「璽(じ)を皇太子に奉る」
③顕宗天皇紀「天子の璽(じ)を取りて天皇の坐に置きたまう」
④継体天皇紀 鏡・剣・璽符(じふ)が登場
⑤宣化天皇紀 天皇の即位に鏡と剣だけが登場
⑥推古天皇紀「因りて天皇の璽印(じいん)を奉る」
⑦舒明天皇紀「天皇の璽印(じいん)を以て田村皇子に奉る」
⑧孝徳天皇紀「璽綬(じじゅ)を授けたまいて位を禅りたまふ」

 『日本書紀』は、皇位継承の証したる神宝を「璽(じ)・璽符(じふ)・璽印(じいん)という表現で、いずれも「玉の印璽」を意味する書き方をしている。皇位継承の証したる神器は勾玉ではなく「玉の印璽」だったことがうかがえる。厳然たる事実として、皇位継承のシーンに「勾玉」は登場しない。このように『日本書紀』は、皇位継承の証したる神器は「玉の印璽」としながら、三種の神器のうちの玉は勾玉としている。同じ『日本書紀』の中に非常に奇妙な食い違いが認められるのである。

 中国では、夏・商・周代には鼎を王権神授・正統な王権継承の礼器とした。秦の始皇帝が正統性を欠いていたために九鼎は失われ、それ以後は御璽(印璽)を礼器(王権継承の神器)とした。これに倣って、日本でも皇位継承のしるしは御璽(印璽)だったわけである。
 天皇が伝世所有する宝器としての玉璽(印璽)があり、神宮皇后紀では神に祈る祭器としての鏡と剣が登場し、仲哀天皇紀では鏡と剣と勾玉の三種をかかげた豪族が登場する。ここに一種の分かりにくさがあるが、整理すると次のようなことだろうと思われる。

 道教の三種の神宝の概念が伝わる5世紀以前までは、皇位継承のしるしとしての玉の印璽があって、鬼道の二種の神宝としての鏡と剣があった。やがて、5世紀頃に鏡と剣と「玉璽」を三種の神器とする道教が伝わった。そこで、『日本書紀』が書かれる時点で玉璽を「勾玉」へと変更したものと思われる。
 その理由は明解である。
 玉の印璽(玉璽)は、天子・天皇が所持する唯一無二の皇位継承のしるしたる神器である。あとからやってきた三種の神器の一つがこれと同じでは都合が悪い。そこで三種の一つの玉の印璽を勾玉にした。『日本書紀』が神代紀の冒頭で天照大神の言葉を通じて、鏡と剣と勾玉を三種の神宝とするよう告げさせたのも、このことを徹底させると同時に、天皇が所持する玉璽と、豪族たちが所持する三種の神器を区別する意図が働いていたものと思われる。
 かくして、「鏡と剣と勾玉」の三種の神器が権力や権力継承の証しとして、豪族の間で流布することになる。だが、天皇家の三種の神器は変わらず、「玉璽と鏡と剣」だったはずである。
  


ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 第15章 大和朝廷と倭人 | トップ | 第13章 中原王朝に倣った倭国... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

第14章 二種の神器と三種の神器」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事