倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

第4章 長江文明

2012-11-07 10:29:44 | 第5章 長江文明
 中国における神話時代の推移をみてきたが、神話がまるで根拠のない創作ではないことを示唆するかのように、紀元前7000年から紀元前3000年頃にかけて黄河文明に匹敵する文明が長江流域に存在した。それが長江文明である。考古資料を眺めると堅苦しくなるので極力簡単にする。


●長江中上流域の文化
①紀元前12000年頃―仙人洞・呂桶環(ちょうとかん)遺跡
 紀元前12000年頃に栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が、中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。
②紀元前7000年から紀元前5000年ころ―彭頭山(ほうとうざん)文化
 河姆渡遺跡よりも古い、紀元前7000年頃のコメのもみ殻などが発見された。このコメの大きさは野生種のコメよりも大きく、中国最古の栽培種の稲があった証拠となっている。遺跡からは集落を堀で囲んだ跡が見つかり、最古級の環濠集落とも考えられる。
③紀元前4300年頃から紀元前4000年頃―城頭山(じょうとうざん)遺跡
 彭頭山遺跡の西方の環濠集落を伴う水田稲作遺構。王宮と神殿が発掘された。紀元前4300年頃の城壁の内側に紀元前4000年の中国最古の祭壇がつくられていた。さらには、焼成レンガを敷き詰めた基壇や道路も存在した。
④紀元前5000年頃から紀元前3000年頃―大渓(たいけい)文化
 彩文紅陶(文様付きの紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。灌漑農法が確立され稲の栽培が大規模に行なわれ、水の補給のための水辺から大規模農耕を行なえる平住地が移動した。竹編みの泥壁のある家屋や、環濠集落なども発見されている。
⑤紀元前3000年頃から紀元前2600年頃―屈家嶺(くつかりょう)文化
 稲を栽培した痕跡が発見されている。また、ニワトリ、イヌ、ブタ、ヤギなどの遺留物が発見されている。貯蔵用の穴には魚が蓄えられていた跡があった。 大渓文化を継承し、黄河中流の陝西省南部や河南省西南部、長江下流の江西省北部にも伝播した。ろくろを使用した黒陶が特徴である。
⑥石家河(せきかが)文化
 環濠集落から発展した大規模な城郭都市が築かれており、120万平方メートルの広さを持つ。周囲は堀と版築(土塁を固めた)城壁で囲まれており、その形状はほぼ正方形で南北は1・3km、東西は1・1kmほどである。中心部には宮殿址と思われる遺構があり、城外から水を引き込んで運河として使用していた。屈家嶺文化を継承しており、灰陶などの陶器や陶製の人物像、ヒスイの玉製品は、屈家嶺文化よりも発達した製法が生み出されている。

長江文明の遺跡分布



●長江下流域の文化
①紀元前5000年から紀元前4000年―河姆渡(かぼと)文化
 杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域に広がっていた。150トンもの水稲のモミが発見されたことから、世界最初の計画的・組織的水稲栽培が行なわれていたことが明らかになった。この稲はジャポニカ米で原産地は長江中流域とみられており、稲作の発祥も日本の稲作の源流もこの地とみなされる。ほかにも、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や魚などの水生生物、ブタ、イヌ、スイギュウなどの家畜も発見された。遺跡からは干欄式建築(高床式住居)が数多く発見されている。中国で最古の漆器も発見された。陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶などが見られ、幾何学模様や植物文、縄文などが刻まれている。馬家浜文化とほぼ同時期にあたる。
②紀元前5000年から紀元前3800年―馬家浜(ばかほう)文化
 長江河口付近の太湖から杭州湾北岸にかけての地域に広がっていた。河姆渡文化を継承して発展させた。灌漑が行なわれ始め、コメを栽培していた。ブタの飼育を行っていた痕跡や、ノロジカなども見つかっており、動物の狩猟や飼育も行なっていたことがわかる。またヒスイなどによる装飾品や、比較的高い温度で焼いた紅陶、衣服の繊維なども発見されている。
③紀元前3900年頃から紀元前3200年頃―すう沢(すうたく)文化
 長江下流の太湖周辺に存在した文化。遺跡からは石器や骨器のほか、墓穴からは副葬品として多数の玉器が発見されている。また陶器では高温で焼いた黒陶、灰陶なども出土した。土器片の中には、刻画文や刻画符号などが刻まれているものもあった。遺跡からは籾殻など稲作の痕跡を示すものや、食べた獣や魚などの骨も見つかっている。
④4紀元前3500年頃から紀元前2200年頃―良渚(りょうしょ)文化
 馬家浜・□沢文化を受け継いだ。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器のほかに、絹なども出土している。分業や階層化も行なわれたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。稲作都市文明を形成しており、1000年ほどの繁栄を経て洪水で崩壊する。黄河文明の竜山文化とは相互に関係があったと見られている。(Wikpedia)
 
 どうやら、紀元前7000年から2000年頃にかけて黄河文明と匹敵する文明が長江流域に存在し、紀元前2500年ごろ黄河文明勢力と長江文明との武力衝突があり、長江文明はこれに敗れたようである。このあたりの故事を神話化したのが、先の黄帝と炎帝の戦いだろうと思われる。

長江文明の流域別年代一覧



● 長江文明の担い手たち
 今回の考察の中心となる苗族の出自について、中国人学者・王勇氏は黄河流域説を唱えている。
①「苗族の先祖の九黎族はもともと黄河流域東部(中下流域)に分布した畑作を営む農耕民で、紀元前2600年頃に西方の牧畜民である黄帝との戦争に敗れて中原を追われた」。
②「苗族の先祖は紀元前2600年頃まで黄河中下流域に生息していたので、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。苗族は長江文明の創造者ではない」。
③「越人の先祖とみなされる紀元前5000年頃の河姆渡人、紀元前3000年頃の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげた」。(「中日文化交流史」浙江大学日本文化研究所・王勇氏の論文より抜粋)
 王勇氏によれば、中原を追われた苗族の祖先の九黎族は紀元前2000年頃に南方へ移動したことになる。炎帝一族の蚩尤軍として闘った彼らは、神農時代から長く黄河流域東部にいた(ことになる)のだが、私の見方はこれとは異なる。何よりも、王勇氏のいう越人・呉人とは、漢族から南蛮や荊蛮と呼ばれた苗系民族である。(九黎、三苗、南蛮、荊蛮は、漢族が各時代に用いた苗族の呼称である)。

 先の流域別年代一覧でタテに赤線を引いた年代に注目していただきたい。
 苗族の祖先の九黎族が長江流域にやってきたという紀元前2000年頃は、中流域の石家河文化も河口部の良渚文化も終焉を迎える時期なのだが、良渚玉器などには、(王勇氏も認めるように)苗族が神とする伏義・女媧・蚩尤信仰が歴然と認められる。苗族がやってくる紀元前2000年以前から、長江流域には伏義・女媧・蚩尤(しゆう)が、極めて重要な信仰的対象として存在したのである。
 「越人の先祖とみなされる河姆渡人、良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげた」。これが王勇氏の主張したいところらしい。そうだとするならば、紀元前7000年から紀元前5000年頃、長江河口域で河姆渡文化が栄える以前に中流域で栄えた彭頭山文化と、紀元前5000年から紀元前3000年頃に河姆渡文化と並行して中流域で栄えた大渓文化は、いったいどんな民族の文化ということになるのだろうか。

 もう一度長江流域文化の推移をみよう。紀元前12000年頃、人びとは洞庭湖西辺の湿地帯に自生する野生の稲を発見し、これを採取して食べはじめた。コメを主食として魚を利用することで安定した食料確保ができると、人びとは定住生活をはじめる。このことを仙人洞・呂桶環遺跡が物語る。
 やがて、紀元前7000年頃の彭頭山文化期になると、人々は種籾をまいて稲を栽培しはじめたらしく、広い湿原に自然や人工の用水路が縦横に走る稲作水田が展開する。米は煮炊きを要することから、稲作文化は同時に土器文化をも発展させる。土器の種類や量も豊富になり、集落を取り巻く環濠がつくられる。
 彭頭山文化は紀元前5000年頃に皀市下層文化・大渓文化へと脈絡し、人口の増加とともに集落の数も規模も大きくなり、洞庭湖周辺に広く展開するようになる。
 本格的な稲作農耕時代が到来し、稲作が可能な環境をもつ他の地域にも人びとと稲作が拡散する。紀元前4300年頃になると、彭頭山遺跡の西方には、城壁の内側に王宮と神殿と最古の祭壇をもつ環濠集落が登場する。さらには、焼成レンガを敷き詰めた基壇や道路もつくられるようになる。(城頭山文化)。
 紀元前3000年頃になると、環濠集落から発展した大規模な城郭都市が登場する。(石家河文化)。
 一方、数千年の時間経過とともに長江が上流から運んだ土が、下流域とデルタ地帯に肥沃な湿原をつくったことで、紀元前5000年頃から計画的・組織的水稲栽培が行なわれるようになる。(河姆渡文化―馬家浜文化)。
 こうした、長江中流域の稲作文化とこれに伴う土器文化・集合型都市文化が下流域へ伝播し、この地域を核にして北へ南へと拡散が起きる。紀元前3500年頃の良渚文化は稲作文明都市を形成したが、1000年ほどの繁栄を経て長江の大洪水で崩壊する。

 つまり王勇氏は、紀元前2600年頃の長江流域の稲作農耕・漁労民と黄河流域の畑作農耕・牧畜民との南北対立を、牧畜民と畑作農耕民という黄河流域の東西対立にして、ここを苗族の歴史のスタートにしているのだが、文献に「黄帝は五穀を植えて実らせた」とある通り、基本的に黄帝勢力は河北の畑作農耕・牧畜民である。



 ※中国文明を南北に大きく分けると、北方の黄河流域と遼河流域の文化は畑作・狩猟・牧畜の文化で、南方の長江流域の文化は稲作・狩猟・漁業の文化である。中でも長江文明は、上流部(巴蜀)、中流部(楚)、下流部(呉越)の三つのグループに区分できるようである。
 ※洞庭湖は、漢代には雲夢大沢と呼ばれ、その栄養豊かな堆積物が農業用に最適で、多くの田が造られてきた。普段の面積2820平方キロメートル。長江からの膨大な量の水と堆積物の流入によって、増水期には四国の面よりも広い2万平方キロメートルにもなる。


 ※図は炎帝による統治領域の想定図。伏義と女媧は陳を都とした。神農もまた当初は陳を都とした。河南省の陳は、黄河と長江のほぼ中間にある。つまり神話時代の三皇(三神)たちは黄河と長江の中間にいて、中国全土を治めていたものと思われる。

 蚩尤と黄帝が闘った時に存在した長江流域文化はどんな民族がつくったもので、これらは誰の統治下にあったのか視野に入れて考えてみよう。
 黄帝勢力は、8代目炎帝の統治下に登場している。夏・殷・周の歴史に見るまでもなく、第三者に滅ぼされて王朝が交替する放伐は、腐敗・爛熟などで弱体化したあと内なる勢力によって起きている。黄帝の場合もまったく同じで、彼は炎帝統治下の内なる勢力だったのである。その黄帝勢力が闘ったのは、現在の北京西部の阪泉の野と、北京西北部の涿鹿という山で、いわゆる河北と呼ばれる地域である。このあたりが当時の新興勢力たる黄帝の基盤だったらしく、この他を含めて(中国人伝統の建て前ではあったにしろ)8代目炎帝の統治下にあったのである。これは私の推測だが、阪泉と涿鹿の戦いは、炎帝や蚩尤が黄帝の勢力基盤とする土地に攻め入ったことを物語っているのではなかったろうか。

 というわけで、神話以前から長江流域の文化をつくり、支えてきたのはどのような民族なのかを考えたとき、紀元前2600年頃の黄河流域の東西戦争で論じきることは不可能である。こうしたもつれた糸を解きほぐすには、黄河文明をつくった民族とは異なる民族が、紀元前7000年頃に稲作を伴う長江文明をスタートさせたとしなければ説明がつかない。それが、伏義・女媧時代から続いて神農勢力を構成した九黎族だろう。 
 
 水田耕作は、治水土木工事から水路づくり・田植え・刈り入れに至るまで、共同作業によらなければならない。共同作業をすすめるには協調性が求められる。さらには、水路を利用した田への引水に自分勝手は許されない。こうしたことから、自ずと自律と協調性と強い団結心が集団内にできあがる。これが稲作農耕社会の特徴の一つでもある。
 共同作業と一定の秩序をもった社会構造によってこそ大収穫が可能となり、人口の増加をもたらして大集団・大集落を形成する。あえていうまでもないが、最初に大集団・大規模集落をつくり大勢力となったのは、稲作を基盤とする民族だったことは明白である。私は、最初に中国における支配的体制をつくったのも、神農氏にはじまる稲作農耕民族集団だったとみている。
 九黎族もその名の通り、多様な民族を包含した稲作農耕民族連合だろう。苗族の祖先がその中核を占め、彭頭山文化、大渓文化などの長江文化の担い手を務めた。神農政権を支えたのも、神農氏系武闘勢力の蚩尤を支えたのも、こうした稲作農耕民族連合の軍事組織だったはずである。
 戦争もある意味では共同作業である。蚩尤の魑魅魍魎に対して、黄帝は熊・羆・貔・貅・貙・虎といった猛獣を従えて闘ったとされる。これもまた、漢族たる黄帝側についた多民族連合の投影だろう。


※雲南省の棚田。写真提供:「異国を旅して」中国の少数民族と民族衣装

 神農氏の時代は、漢族とは異なる多民族による稲作農耕集団が中国を支配した時代であって、彼らは漢族・黄帝勢力に敗れてまずは黄河流域から撤退した。これが、「九黎族は黄河流域から四散した」とされるゆえんだろう。その彼らは、漢族の侵略的開拓に押されるたびに、自らが開拓した長江流域からさらに四散することになる。むろん、四散したのは漢族の支配に屈しなかった人びと、漢族と同化することを拒絶した人びとである。先祖伝来の水稲栽培技術を携えて四方に分散した九黎族(三苗族)の枝族は、「山の斜面を水田にする」という驚異的な創造力と技術力を発揮する。この棚田という少数民族独特の水田文化もまた、確かに日本列島に伝わることになるのである。

 ※九黎族(三苗族)が黄河流域起源だったとすれば、黄河流域に彼らの信仰的精神性を反映した民族的痕跡が残っているはずでなのだが、黄河流域の古代文化にそうした痕跡はみられない。ここが、王勇説に違和感を感じる理由の一つでもある。

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