倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

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第8章 確かな状況証拠

2012-11-07 10:28:35 | 第8章 確かな状況証拠
●横穴墓の源流
 今回、私が資料とした異国の旅人氏の写真の中に、考古学的にも注目すべき1枚があった。それが、貴州省都江鎮不巫郷の村の裏手の崖にある横穴墓である。この横穴式古墳と、熊本県人吉市の大村横穴墓、同じく熊本県山鹿市の横穴式古墳の写真と比較していただけば、崖に横穴を彫って墓をつくる着想から、共同墓域として群衆墓を構成するところまで、まったく同じであることが分かる。横穴式古墳もどうやら、長江流域の少数民族に起源するらしいのである。



 ※写真上は、貴州省都江鎮不巫郷の村の裏手の崖にある横穴墓 (写真提供:「異国を旅して」)。
下は、人吉市の大村横穴古墳群 (写真提供:響とバイクと山遊び)



 ※山鹿市の鍋田横穴古墳群 (写真提供:山鹿市観光振興課)

 熊本県菊池川の支流、岩野川にかかる鍋田橋のたもとと岩野川西岸の阿蘇溶岩の断崖に、古墳時代後期(7世紀)に作られた鍋田横穴群がある。鍋田には阿蘇大噴火でできた溶岩(阿蘇凝結熔解岩)が露頭している場所があり、古墳時代の人びとはここに横方向の穴を掘って墓とした。
 約500mの間に確認されているだけで総数61基。肥後の古墳時代の最後を飾る豪族達の墓といわれ、大正11年に国の指定史跡となった。形も大きさも、入口の縁飾りもさまざまで、61基ある横穴のうちの12基の外壁には、色々なモチーフの装飾が施されている。中でも最も規模が大きく、壁面に被葬者の生前の様子を語りかけてくるようなレリーフを持つのが27号墓である。左外壁には両手を開き足を広げた大の字形の人物像がある。像を彫ったノミの痕跡が力強く、この墓室の番兵の姿と思われる。
 その左下方に向かって、矛や鞆(弓を射るときの弦の弾きから腕を保護する防具)、刀子や矢を入れた大小の靫、馬、盾などの絵が彫られている。これは、流域の支配者としてのステイタスを記した墓誌に当たり、同時に外敵や悪霊から死者を護る鎮魂の構図と考えられる。山鹿市内では、ほかにも長岩横穴群や城横穴群など多数の横穴群が点在しているが、鍋田横穴群はわが国の装飾横穴の代表格といえる。 
 長岩横穴群も古墳時代後期に作られた群集墓である。鍋田横穴群と同様に阿蘇の大噴火でできた溶岩(阿蘇凝結熔解岩)が露頭している場所があり、総数122基もの横穴が確認されているが、その中の6基に装飾文様が確認できる。これらの古墳からも、銅鏡・銅剣・玉類のほかに、鉄製の太刀や甲冑などの武具、食器その他の日用品が多く発見されている。(山鹿市観光振興課)
 これらの横穴墓と、貴州省都江鎮不巫郷にある横穴墓と極めて似ていることは事実である。


●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)
 1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が多数出土した。石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。これは、紀元前1700年~紀元前256年頃にかけて江南地方で営まれた墓制で、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。その形状や葬送様式などから、九州北部や朝鮮半島南部に展開する支石墓のルーツかとも考えられる。 
 紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、これは、支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、テーブル式と呼ばれる。一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、碁盤式と呼ばれている。韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。
 浙南の石棚墓は後者の南方式と呼ばれる碁盤式である。日本では、碁盤式と呼ばれる南方式の支石墓が縄文時代晩期末の九州北部に出現している。唐津市の葉山尻支石墓群が最古とされ、縄文時代晩期末(弥生時代前期)~弥生時代中期の支石墓と甕棺墓がある。(wikpedia)

 中国側の資料にみるかぎり、遼東半島から吉林省南部地域の石棚墓は、箕子朝鮮の墓制と関係があると見ているようである。箕子は、紀元前1100年ごろ、殷の紂王の暴政を見限り、5000名の遺民を連れて朝鮮に移住して箕子朝鮮を興した。のちに、周の武王は箕子をそのまま朝鮮の地に封じた。紀元前2世紀に衛満によって箕子朝鮮は滅ぼされた。衛満は燕からの亡命者で箕子の末裔の箕準に仕えていたのだが、漢の恵帝のときに箕準を滅ぼして王となった。(衛氏朝鮮は紀元前190年代~紀元前108年)。この地域のものは高くそびえるテーブル状をしていることから、北方から陸伝いで伝来したものと思われる。
 考えさせられるのは、九州北部と朝鮮半島南部に展開する碁盤式支石墓である。浙江省温州地市といえば、出身者には海外で活躍する華僑が多い土地柄である。しかも、『倭人伝』が倭人の文身のルーツではないかとした会稽・東冶間の真ん中ほどにあたる。この碁盤式支石墓のルーツが浙江省温州地一帯にあるとすれば、長江流域や河口部の民族だけではなく、さらに南方の大陸沿岸部の海人たちもやってきていたことになる。それほどに多様な民族が、日本列島に早くからやってきていたということだろう。
 これまで支石墓は朝鮮半島南の影響が強いとされてきたが、支石墓の渡来も朝鮮半島より日本の方が早かったことになる。そうなると、稲作や「半島倭人」の流れと同じようにこの支石墓もまた、温州人たちが九州を経由地として朝鮮半島にもたらした場合と、稀に五島列島をすり抜けて朝鮮半島へ到着した場合とが考えられる。


●周代の土とん墓
 墓制(墓づくり様式)において、大陸と共通するのは横穴式古墳や支石墓のほかにも、円墳、方墳など、土を盛った高塚式古墳のルーツも中国の江南にあったことが明らかになりつつある。
 2005年、南京博物院考古研究所は、江蘇省の句容市と金壇市で、土を盛った墓である土とん墓群の大規模な発掘を行なった。(とんは土+敦)。総数で40の土とん墓を発掘し、233の墓葬と14の墓葬建築遺跡を整理したところ、幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件余りが出土した。発掘後の整理によって、船形棺の葬具、石の寝台、墓の上に建てられた木造の山形をした掘っ立て小屋の存在が明らかになった。(人民中国「江蘇省句容市と金壇市にまたがる周代の土とん墓」)


●墳丘墓の源流
 日本では、弥生時代の墳丘墓も、前方後円墳などの古墳も、遺体を地面より高いところに埋葬する。 一方、中国の華北では遺体を地面の下の深いところに埋め、その上に土を盛る。 ところが、呉や越の国があった長江河口域の土とん墓は、地面よりも高いところに遺体を埋葬する。
 土とん墓は、中国のきわめて限られた地域(春秋戦国時代の呉越の地域)で行なわれた埋葬形態であった。 越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってからは土とん墓は消滅し、楚の木槨墓が行なわれるようになった。 吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉・越の限られた時代に行なわれた土とん墓の影響を受けた可能性を示しており、この時代の人々が、日本列島に渡来したことと整合する。(邪馬台国の会「中国古伝承のなかの倭」)


●舟型木棺の源流
 江蘇省の土とん墓群からは船形棺の葬具が出土しているが、実は、四川省の成都市で約2500年前(春秋晩期~戦国早期)のものと思われる舟型木棺群が発見されている。
 舟型木棺とは丸木を船形に彫って作った棺のことで、舟棺で埋蔵することには「舟に乗って他界に行く」意味がある。大きいものは長さ18mを超えるものもあり、直径1・6~2mの楠の木をくり貫いたもので蓋もついていたという。ほかには、大小併せて17の丸太彫りの舟型木棺が確認されたが、当初はこの他にも多数あったものと推察されている。規模の大きさから、王の家族もしくは一族の墓であると考えられている。(「考古用語辞典」)
 舟型木棺は四川省の巴蜀文化の特色とされるが、わが国の古墳にも舟型木棺が多数使われている。構造はくりぬきの舟型木棺が多く、鏡、鉄剣、鉄刀、良質の勾玉などの副葬品を伴う。舟型木棺の思想もかなり早くから、長江流域の四川省から江蘇省まで展開していたようである。


●銅鐸祭祀の源流
 先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
 「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。(考古用語辞典)
 祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。そして、湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
 さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
 『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
 同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江下流域の呉と越に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。(2006年3月7日付朝日新聞)



 馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、宙に吊られているのが鐸である。それを、馬か鹿に乗った人物がひもで引っ張って鳴らしている。玉璧は天との交信に使われたりしたが、この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。一方の鐸は天上界の器であり、「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。


●人骨も補証する弥生人の源流
 共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、中日共同調査団の調査で分かった。渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられていたが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。
 東京で記者会見した日本側の山口敏団長らによると、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8~同5世紀)から前漢時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に共通点が多かった。また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があったが、江蘇省徐州市郊外の梁王城遺跡から出土した5000年前の男性の人骨2体にも抜歯の跡があった。
 江蘇省の人骨36体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の3体でDNAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。中国側の南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えられた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話している。(1999年3月23日中日共同調査団発表)

 こうした事実を前にすれば、倭人のルーツと渡来の経路も決定したようなものである。
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