倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

第12章 遅れてやってきた朝鮮半島経由の文化

2012-11-07 10:27:08 | 第12章 遅れてやってきた朝鮮半島経由の
 縄文の日本列島や朝鮮半島における三足土器が極めて少ない事実からいえば、「黄河流域文化が本格的に朝鮮半島や日本列島へ入りだす時期」は、やはり三足土器や鼎をつくらなくなった秦以降と考えるべきなのかも知れない。
 紀元前4000年頃の朝鮮半島には櫛目文土器が出現する。対馬でも櫛目文土器が分布している。櫛目文土器文化のあとに、北方に起源を持つと思われる農耕を伴う無文土器文化が広まる。縄文時代前期に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑式土器も、朝鮮半島の櫛目文土器の影響を強く受けたと考えられている。同時代にはほかに結合式釣針など南朝鮮と九州に共通する文化要素が見られる。(Wikipedia)
 櫛目文土器と曽畑式土器は、三角や菱形の文様をもつものがあることから、ひょっとすると朝鮮半島南部の櫛目文土器は、長江河口部から直接持ち込まれたものか、あるいは九州から持ち込まれた可能性もある。 

 天草は興味深いところである。早崎瀬戸の先端にある五和町に私の叔母の嫁ぎ先があるのだが、このあたりには男性の素潜り漁が残っている。かと思うと、沿海地方で外洋漁業に使われていたとされる結合式釣針が出土している。
 また、朝鮮半島から松菊里(そんぐんり)型住居や遼寧型青銅器も日本列島に伝わっているのだが、縄文末期に登場した松菊里型住居が、日本列島では弥生前期・中期の住居と共存している。しかも伝播地域も限られていて、その絶対数も集落の中では少数にすぎない。その程度の少数渡来があっただろうことは否定するものではないが、日本列島に渡来した人・もの・文化は、朝鮮半島からよりも長江河口からのほうがやってきた時期も圧倒的に早く、その量も多く、伝播領域も広い。
 こうした現象には実は、海洋民族と畑作農耕民族の違いと、造船技術・操船技術の違いと、対馬海流の問題がからんでいるようなのである。


●列島古代人の航海能力
 列島古代人の航海能力を知る手がかりとしては、石器時代にみられる黒曜石の分布が分かりやすい。長野県野辺山高原の矢出川遺跡から出土した細石刃石核5点が、伊豆諸島の神津島産の黒曜石でつくられていることが判明している。また、東京の武蔵台X層文化からも神津島産の黒曜石が確認されている。
①神津島産黒曜石の分布:長野県野辺山高原の矢出川遺跡、長野県奥信濃・野尻湖遺跡群、山梨県横針前久保遺跡、八丈島・倉輪遺跡、東京都小金井市の荒牧遺跡、神奈川県相模野台地の紬石刃文化期の石器、神奈川海老名市・長ヲサ遺跡。その他、関東南部・茨城県・静岡県の海岸地域など。
②九州産黒曜石の広がり:九州産の黒曜石は佐賀県の腰岳のものが最も多く、南は沖縄本島から、北は朝鮮半島南部の遺跡でも発見されている。
③その他:ロシアの沿海州地方の新石器時代遺跡の石片の中に、北海道の白滝産、秋田県男鹿半島産、島根県隠岐産の黒曜石がそれぞれ確認されている。
 これらの事実が伝えるところは、列島古代人の航海能力が優れていたことである。実に、約3万5000年前頃から海上航海を行なっていたことになるが、これは世界的にみても最も早い部類に入る。


●海路には海流と潮流がからむ
 海にも川のような流れがあり、この、川のような(周期的に変化せず、ほぼ一定の向きや速さの)流れを海流という。日本の南を流れている黒潮の速さや量は場所や時により違うが、沖縄島の西方では最大時速4km(大人が歩く速さ)、 紀伊半島沖合では最大時速6km大人の急ぎ足程度の速さ)以上で流れる。さらに、時には時速9km程度の流れが観測されることもある。
 対馬暖流は対馬海峡の西水道(韓国側)と東水道(日本側)から入り込む。このときの速さはおおよそ時速2kmだが、西水道で最も速い流れは時速6kmにもなる。
 対馬海峡を抜けて日本海に入るとおおよそ時速2kmで流れ、大半は津軽海峡を抜けて太平洋に出る。
 潮流とは海面が高くなったり低くなったりすること(潮汐)に伴って、1日1回または2回の周期で海水が流れることである。太平洋や日本海の外洋では一般に弱い流れであるが、瀬戸内海の来島海峡や九州の早崎瀬戸(有明海)などの海峡では 時速11 以上で流れている。特に鳴門海峡では、強い流れの時に時速19 以上で流れている。この速さは、トップクラスのマラソン選手が走る速さである。 (海上保安庁海洋情報部・日本近海の海流) 
 「日本海に入った対馬暖流は、大半は津軽海峡を抜けて太平洋に出る」というところにご注目いただけば、苗族の文様文化を全身にまとった土偶が北海道から出土した理由にも思い至るはずである。一説によると、対馬から手漕ぎ船で行く場合は一旦西へ向かって漕ぎだして、対馬海流に乗ってから半島へ向かったという話がある。それを想定して、対馬から朝鮮半島へのルートを想定したのが上の図である。必然的に、行きと帰りでは航路が違っただろうことも容易に推察できる。
 こうした現実を踏まえたうえで、「海流に乗って」の長江河口から九州へ九州から朝鮮半島への渡海と、「海流に逆らう」朝鮮半島から九州への渡海の違いを確認する。

●朝鮮半島南部の実情
①韓人は基本的に海洋民ではない上に、朝鮮半島から九州への渡海は海流の関係で難しさがあった。(対馬海峡を古代の手漕ぎ丸木舟で乗り切ることは容易ではなかった)。
②朝鮮半島に最も早く流入したのは、地理関係的にも遼河流域の文化であった。
③黄河流域文化が朝鮮半島南部に本格的に入るのは秦以降だと思われる。

●九州の実情
①長江河口から九州への渡来は、海流の関係で比較的に容易だった。
②倭人は基本的に海洋民であり、九州から朝鮮半島への渡海も海流の関係で比較的に簡単だった。(時速2km~6kmの対馬海流に乗って渡ることは比較的容易だった)。
③『三国志』東夷伝は、朝鮮半島には倭人の居住した島嶼や沿岸地域があったという。ごく稀には、長江河口から九州を目指したが五島列島を抜けて朝鮮半島南部に漂着した人たちもいたことだろう。そうした人たちは九州に定着した民族と同じであることから、朝鮮半島では倭人と呼ばれ、彼らが定着した島嶼や沿岸部が朝鮮半島における「倭」と呼ばれた可能性も考えられる。



 日本列島や朝鮮半島をとりまく潮流図はかなり複雑な様相を呈しており、沿岸部や湾内では海流とは逆に流れる潮流も少なくないという。こうしたことを勘案すると、朝鮮半島南部と九州とに共通してみられる人・物・文化の多くは、やはり「倭人が倭人の船で運んだ」とみるのが妥当なところかも知れない。
 同様の意味合いで、具体的には次のようなことが指摘されている。
①朝鮮半島の松菊里遺跡で出土した米と日本で出土した炭化米は、ほぼ同じ形質であるとされる。また、そこで出土した石包丁や磨製石斧の形式も、日本最古の唐津市菜畑遺跡(紀元前500年ごろ)のものと酷似する。こうしたことから、次の項で示すように、朝鮮半島南部にみられる稲作文化は九州を経由して伝播したとの意見が大勢を占めつつある。
②朝鮮半島南部の金海伽耶出土の硬質土器には、三角文・半円形文などの文様が描かれている。蕨手文が刻まれた鳥文青銅器もある。日本全国均一デザインともいえる短甲が出土している。その他、道鏡・銅剣・銅矛なども九州のものと同じである。その出土地も南部に限られているし出土量も多くはないことなどから、九州からもたらされたと考えるのが自然である。
③九州北部と朝鮮半島南部に展開する碁盤式支石墓のルーツは、浙江省の温州地市ということが判明している。これまで、「糸島半島周辺の支石墓は朝鮮半島の影響が濃い」といわれてきたが、逆に、朝鮮半島南部の支石墓は九州を経由して伝わった可能性が高い。


● 朝鮮半島に渡った倭人文化
 九州と共通する朝鮮半島南部の人・もの・文化については、九州から渡った場合と、長江河口から五島列島を通り抜けて漂着して根づいた可能性を先に述べた。長江河口から九州へ渡海する場合の朝鮮半島への漂着は、多くはなかったにしろ起こり得たことである。このあたりを脳裏において、朝鮮半島の倭について触れておく。
 
 朝鮮半島南部の沿岸部と島嶼部一帯には、紀元前のかなり早期から倭人が住みついていて、彼らの居住地帯は「倭」と呼ばれた。3世紀に現地調査した記録による『三国志』韓伝によれば、倭人は辰韓で産出する鉄を韓人や濊人に混じって採掘していたという。また、朝鮮半島の倭人居住地帯に近いところでは、辰韓人の男女は倭人と同じ文身をしており、馬韓人にも文身をする者がいたという。
●私は、これらの倭人は九州から半島へ進出した倭人と、長江河口から海へ乗り出した中で、朝鮮半島に漂着した人たちが混じっていたことを想定する。両者は、半島に渡った時期もルートも違うが、文身をする習俗と長江流域民族の言語は共通する。同族と分かることから、比較的簡単に融合したものと思われる。
 

●倭と倭人の定義の変遷
 ここで、そもそも中国人のいう倭・倭人とは何だったのかを確認し、今回の考察とどう整合するのかを見るために、文献を頼りに時代とともに倭と倭人の定義が変化した経緯を確認する。
 「漢語としての倭人は、背が低く、猫背で、かがみ腰の人を意味する。そもそも中原人のいう倭人とは、朝鮮半島沿岸部から渤海湾、黄海に至る沿海地区、さらには東シナ海に至る広大な海域にまで居住範囲が及ぶ、水辺の生活文化をもつ集団を指していた。『史記』李斯伝によれば、倭人は浙江省から西は広東・広西、雲南、越南におよぶ広汎な海域に居住しており、種族の多種多様さから百越とも呼ばれるに至っている。
 彼らは海原や海に注ぐ河川流域に住み、漁労もしくは水田稲作農耕を営み、米と魚を主食としていた。漁労に従事するので、サメやワニなどの危害を避けるために頭髪を短く切り体に刺青をする。海にもぐり水田で田植えや草取りをするので、裸や裸足になることが多く、しばしばしゃがみ腰で作業をする。日常生活では、交通の手段として欠かせない船をあやつるのに体を柔軟に屈折させる。同じく屋舎内でもあぐらをかくなど膝や脚を曲げて坐る」。(『馬の文化と船の文化』福永光司/人文書院から抜粋)

 福永氏も指摘するように多種多様の民族がいたのだろうが、こうした水人たちが広義の倭人であり、長江河口を含む東シナ海沿岸部から朝鮮半島北部の沿岸地域まで広範囲に居住し、漁労と水田耕作を営んでいた。こうした水人たちの棲息する広域の沿岸地域が倭とよばれていたのである。


●中国歴史書のいう倭人
 中国歴史書の中に倭の文字が登場する最古のものは『山海経』である。『隋書』倭国伝が倭の異字体を使っている。これと同じ『史記』にも登場するがこれは人名である。
 『山海経』は周王朝時代後半の戦国時代に書き始められ、秦・漢代にかけて段階的に加筆されて成立した中国最古の地理書とされる。中国では玄幻的書き物として奇書扱いされており、多くは史実を反映したものとはみなされていない。そうおことわりした上で、『山海経』に見える一文について言及する。

蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
 燕は戦国の七雄といわれた大国の一つで、その版図も東は漁陽から、遼西・遼東、西は上谷、代郡、雁門、南は、容城、范陽、北は新城、故安、、良郷、新昌から渤海におよび、のちの楽浪・玄菟郡の領域まで燕に属していたとされている。
 ここに登場する倭は、まだまだ日本列島のことを把握していなかった時代のことであり、燕の版図にある勃海沿岸から遼東半島・朝鮮半島沿岸の、(中原人のいう広義の)倭人の居住身領域を指すと判断しなければならない。つまり、日本列島の倭とはまったく無関係の記録である。

 周の時、越掌(えっしょう)白雉を献じ、倭人ちょう草を貢す。
 成王の時、越掌、雉を献じ、倭人暢草(ちょうそう)を貢す。

 越掌はベトナムあたりを指し、白雉は白いキジ、ちょう草は祭祀薬草(一説によるとマンネンタケ)のことをいう。暢草も芳香性の祭祀薬草である。
 周の成王は紀元前1100年ごろの人物である。この時期の列島は縄文時代にあたるから、時代的にもここでいう倭人は、やはり原義に近い人種(南方沿海の倭人)ではなかったと思われる。


●中国が列島の倭人を公式に確認するのは1世紀
 中国歴史書のいう倭人が、列島人を指すようになった時期を考える際に、申し合わせたように引き合いに出されるのが、『漢書』地理志・燕地の条のこの「部分」である。

 楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという。
 これについては、文章全体を見わたせば、文章の性格と意味とを正しくを読むことができる。
 「玄菟、楽浪は武帝の時に置く。朝鮮、濊貉、句麗はみな蛮夷である。殷の道おとろえ箕子去り、朝鮮に之き、その民に、以って礼義・田蚕・織作を教える。(中略……かくして、このように教化されて変わった)。
貴むべきかな仁賢の化、然して東夷は天性柔順、三方(南西北)の外(の夷狄)に異なる。ゆえに孔子は道の行なわれぬを悼み、(筏を設けて)海に浮び九夷に居らんと欲す。(その故)以ってあるなり。それ楽浪海中に倭人あり、分れて百余国をなし、歳時をもって来たり献見すという」。

 これは、春秋時代の乱世を嘆いた孔子が殷末における箕子による朝鮮教化を引いて、「いっそ天性柔順な東夷へでも行こうか」と漏らした逸話が柱になっている。
 前漢代の中国人の感覚では、陸地の終りは朝鮮半島で、ここが彼らのいう東夷だった。楽浪郡は現在でいうところの自由経済特区的な側面があり、東北アジア諸民族、朝鮮半島の韓人、列島の倭人たちはみな、楽浪郡を通じて中原の先進文化を入手してきた。したがって、前漢代において楽浪郡へ交易しにいく倭人の船が浮かんでいただろうことは推測できる。これは民間レベルの交易だが、いつもいつも楽浪市中で交易するのに、郡役所に付けとどけぐらいはしたことだろう。そうしたことをとりあげて、王朝の威光を示すために『漢書』で「歳時を以って来たり献見すという」というほどに、中国王朝人もまた姑息ではなかったろう。そこで、私は次のような見方をしている。

 秦代を記録した『史記』は、東海の彼方のことを伝承・伝説としてしかとらえていなかった。また、『漢書』郊祀(こうし)志をみても、歴代の皇帝が始皇帝を真似て蓬莱(ほらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えいしゅう)の神仙探しをさせている。これは、前漢朝が伝説の東海の島(日本列島)の存在を確認していなかった証拠である。この時代の中国人に、大海の中の列島倭人の存在を把握できていなかった事実と、「献見すという」との表現が伝聞であるところからも、列島の倭人を公式に確認していた様子はない。そこから後漢代に至るまで、中国人の感覚では朝鮮半島が東夷だった。そのようなわけで、歴史的にも前漢代の中国人が列島倭人の情報を把握していた可能性はない。

 百歩譲って、この「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」が前漢代のことを述べているとすれば、実は大きな不条理が浮き彫りになる。
 まず献見とは、楽浪郡の行政窓口に貢献物を差し出す程度の意味ではなく、皇帝に接見する朝献・朝見の意味である。ところが、前漢朝の都は洛陽のさらに奥の長安だった。紀元前の弥生中ばの列島倭人が、年季ごとに長安まで使者を送って歴代の皇帝に朝献・朝見することは、時代の成熟度からみて不可能だったはずである。
 万歩譲って、倭人が年季ごとに前漢の皇帝に朝献・朝見したとすれば、地理志・燕地の条という場違いの条項にではなく、歴代の正史がそうであるように、朝貢窓口部署が使者から聞きとって記録した資料に基づいて、藩外の異民族が天子を奉る化外慕礼(かがいぼれい)として、『漢書』帝紀に(ある種誇らしげに)記録されていなければならない。そうするのが、(例外もあるが)歴史書記録の基本パターンである。だが、そうした事実も一切ない。

 文章をつぶさに見ると分かるのだが、「それ楽浪海中に倭人あり」以降は前段の文章とは異質で、朝鮮半島を東夷としていた時代の話のはずが、唐突にも東夷を「倭人」へ飛躍させている。そもそも文章の性格からして、「(その故)有以也!」は明らかに編纂担当者の感嘆文であり、これ以降の文章は編纂担当者の所感であることがわかる。
 しかも、朝鮮半島沿岸域にいた倭人のことではない証拠に、後漢代になって明らかになる「別れて百余国」という列島の情報を書いている。これに続けて、「歳時をもって来たり献見すという」という伝聞を挟むのだが、こうした芸当ができるのは、西暦57年の倭奴国の朝献の事実と、そこで得られた情報を知っていた人間にほかならない。
 倭人の島の存在が情報として得られるのは、57年の倭奴国の朝献以降のことになる。『漢書』が書かれたのが倭奴国の朝賀から30年ほどのちのことであることと、「分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」が後漢代に得られた情報であることから、「(その故)有以也!」以降の文章は、後漢代に『漢書』地理志を編んだ編纂担当者の所感とみるべきである。
  

●『三国志』韓伝のいう倭と倭人
 次に、3世紀の東アジア諸民族について調査した『三国志』東夷伝の韓伝の記録から、朝鮮半島に倭人の居住する「倭」と呼ばれた領域があったことを確認しておく。

 韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし南は倭と接す。
 「東西は海が韓の地の境界となり、南は倭と接している」というのだから、南は海が韓の境界になっているのではなく、倭の尽きたところが海になる。つまり、「南は倭と接す」という表現でもって、半島の南部に倭があったことを告げている。
 現実問題として、 魏の調査官たちは半島から海を渡って日本列島の倭国に来ている。したがって、彼らが報告書を書いた時点では「半島の南も海をもって限りとなす」という明確な現実を知っていた。もちろん、1000余里も海を隔てた対馬をして「倭と接す」とは書かない。
 どうしても朝鮮半島と対馬(倭)が接していると書きたければ、地理的に1000余里もある海峡を挟んで位置する関係なのだから、「南も海をもって限りとなし、その南は倭と接す」と書かれていなければならない。そうするのが地理学的調査記録としても妥当だといえる。  
 仮に「韓の南は対馬と接す」という意味で書いているとすれば、朝鮮半島南沿岸の東西約260~280キロメートルに及ぶ領域が、小さな対馬と接すると書いたことになる。その理屈でいけば、馬韓の南は対馬の約3倍もある州胡(しゅうこ=済洲島)とも接している。だが韓伝は「南は州胡と接す」とは書いておらず、「州胡という島が馬韓の西にある」と書いている。州胡だけではない。西には山東半島とも接しているのだが、「西は山東と接す」とは書かず「東西は海をもって限りをなす」としている。
 つまり、韓伝がその冒頭で「東西は海をもって限りとなす」と書いた視野には、山東半島や州胡は入ってはいない。同じく南も対馬までは視野を広げておらず、あくまでも半島に限定した視野で書いている。海に面したところで版図が途切れるとの認識で書いたのは、東沃沮伝、ゆう婁伝の「大海に濱(ひん)す」と濊伝の「東は大海を窮(きわ)む」で、表現を変えつつ海に面していると書いている。



●辰韓伝の「倭に近い」という記録  
辰韓は鉄を産出し、韓人、濊人、倭人はみな従にこれ取る。倭に近いところの男女は(倭人と同じように)文身する。

 辰韓人は、そもそも楽浪郡から流入した漢人系によって構成されている。 言語・婚姻制・葬制・風習・体格に至るまで違いがある。どれを取り上げても、倭人との民族的な違いは明白である。それでいて、「倭に近いところの男女は、倭と同じように文身する」というのだから、距離的・空間的に近接しているエリアの、共通の習俗に触れていると判断しなければならない。すなわち辰韓伝のいう「倭に近い」は、辰韓の一部と倭人居住区の近接関係を述べていることが分かる。(辰韓の鉄を入手する倭人がいたというが、列島から日帰りで取りに行くことはできないから、半島での活動基盤となる倭人の居住区があったことは明白である)。
 また馬韓伝でも、「馬韓人にも時々文身する者がいる」という。これらもまさに、馬韓と辰韓の南部に倭人の水人文化(文身の習俗)が浸透していたことを物語る。(起源は不明だが、韓国の済州島には海女の素潜り漁がある)。こうした習俗は、たまに倭人が海を超えてやってくるだけでは浸透しない。半島に倭人が定着して、互いに混住していたからこそ倭人の習俗が浸透したのである。しかも、現地の韓族に浸透するほどの影響力があったことを示唆している。


●決定的な証言
 さらに、弁辰伝が決定的な証言をしている。
 弁辰の涜盧(とくろ)国は倭と界を接す。

 ご覧の通り界(境界)を接すといっている。これも、距離的・空間的に近接してることを証言している。これを、弁辰の涜盧国と対馬が海を隔てて接していると解釈するようでは、文献研究以前の問題だろう。同じ東夷伝の中で、陸続きの位置関係説明はどう説明しているかをみてみよう。これは誰しも境界(国境)を接している意味だとわかる。
 「夫余は長城の北にあり、玄菟を去ること1000里、南は高句麗と、東はゆう婁と 、西は鮮卑と接す」
 「高句麗は遼東の東1000里にあり、南は朝鮮、濊貉と、東は沃沮と、 北は夫余と接す」
 一方、領域の境が海に面している場合や、領域の境が大海に接している場合は、東夷伝もきちんと書いている。
 「東沃沮は高句麗・蓋馬大山の東にあり、大海に濱して居る。北はゆう婁、夫余と、南は濊貉と接す」
 「ゆう婁は夫餘東北1000余里にあり、大海に濱す。南は北沃沮と接し、その北の極まる所を知らず」
 「濊貉は南を辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は大海を窮む」
 
 「大海に濱す」は大海の水ぎわで、「大海に接す」と同じ意味になる。「東は大海を窮む」も、大海の水ぎわで「大海に接す」と同じ意味になる。韓の場合は「南は海をもって限りとす」 「南は大海の窮み」「南は大海に濱す」と書いていないのだが、こうした比較の点からも、韓人領域の南の境界には海ではなく倭があったことが分かる。



●朝鮮半島の倭の重大機能
 半島の倭人拠点の存在を、倭国経営者の立場から考えてみよう。
 半島の倭は、防衛・安全保証・通交・交易の拠点として、進出基盤として情報基地として、そして、知的労働力・肉体的労働力誘致の実行窓口として、出入り管理と規制で大きな任務を果たしていた。とくに、武器・武人・武装集団などの渡海には神経を注ぐ必要がある。恐らくは、小規模ながら紀元前からの設置以来、その機能と役割りは、壱岐や博多湾岸とは違った意味で重要だったはずで、「列島倭国の進歩と繁栄は朝鮮半島の倭が握っていた」といっても過言ではないのである。
 半島の倭の存在そのものが、倭国の政治・経済・軍事的戦略の一環である。古くからの楽浪郡との交易の事実や倭奴国の外交で見た通り、倭国の外交と通交の対象は一貫して先進の中原王朝だったことが分かる。だが、通り道となる朝鮮半島との関係が円滑かつ友好的に運ばないと中国との通交も不可能になる。
 通交とひと口にいっても、敵対する半島勢力がいては中国との通交は不可能になる。通り道をうまく使うには、半島勢力と友好的共存策を維持しなければならない。 半島の倭は、そのためにも多大な動きを必要とする。中原への通路となる半島南部から半島西側に至る諸国と倭国とが敵対的だった歴史はないが、まさにそうした歴史こそが倭国のとった戦略の一端を証明している。

 時代は異なるが、通交と交流には半島に出先拠点が必要だったことを示す実例がある。
 江戸時代、徳川幕府の最初の外交課題は朝鮮との国交回復にあった。また、地形的に作物を育てる環境に不向きで穀物の自給ができない対馬は、朝鮮との交易ができないと死活問題につながる。
 3世紀のこと、対馬は自前の産物だけでは食料が充分ではないので、船を使って南北と交易していた。そのまま、江戸時代になっても半島との交易なしでは存続が困難だったのである。
 そんな、朝鮮貿易を命綱とする対馬藩のギリギリの交渉努力が実って、日朝国交回復にこぎつけた。だが、秀吉の侵略の記憶が残る朝鮮側は、日本の使者を釜山より奥には入れなかった。 そこで対馬藩は、半島における通交拠点として交渉窓口として、朝鮮王朝の許可を得て、釜山に長崎出島の25倍といわれる10万坪の倭館を経営した。 日本からの使者はこの倭館を使用し、倭館には通交と貿易のために大勢の対馬藩士が常駐していた。この釜山の倭館設置の事実は、半島との通行・交流・交易には、どうしても半島に拠点が必要だったことを物語る。
 半島の倭は、倭国の進歩と繁栄の鍵を握っていた。防衛戦略・安全保証・通交・交易の拠点として進出基盤として、人・もの・情報・技術の出入り管理窓口として、さまざまな目的と機能を果たしてきた。これがのちのち根を張り、半島南部に倭人文化を展開することになり、やがては半島進出の出先基地として機能することになるのである。そのことを、倭国と敵対的接触を続けた高句麗の広開土王碑文も証言している。

 そうした倭国の朝鮮半島南部域への影響力のほどは、倭人の墓制である前方後円墳が韓国南部に展開することでも分かる。こちらは「人・もの・文化」が渡って行った証拠である。

●全羅南部の羅州・海南地方の前方後円墳
①霊岩チャラボン古墳は、5世紀後半~6世紀の築造である。鉄鋌の出土により加耶との交易・交流が注目される。
②海南方山里長鼓山古墳は、韓半島の前方後円墳のうち最南端に位置する。石室にはベンガラが塗られているが、これは韓半島にはない葬制で、倭の影響と考えられる。築造時期は5世紀第4四半期~6世紀第1四半期。
③新月里古墳は、城馬山北麓に位置する方墳である。墳墓表面に葺石が確認される。墳墓に石を葺くのは韓半島にめずらしく、倭の影響を受けていると見られる。
④北門龍日里古墳は、横穴式石室をもつ可能性がある古墳で、表面採取された土器から長鼓山古墳と同じ時期に造られた古墳と見られる。
⑤月松里造山古墳は、6世紀初頭の築造と推測される。横穴式石室で、腰石・立柱石・しきみ石をもつ。副葬品としてゴホウラの貝釧(腕輪)・仿製鏡(倭国産の鏡)などが出土している。ゴホウラや鏡は倭からもたらされたもので、とくに、それまでの韓半島ではゴホウラなど貝製の装身具は威信財ではなかったことから、埋葬者が倭人であった可能性もある。
⑥外島の1・2号墳は箱式石棺墓であるが、この墓制は栄山江流域に見られないものである。倭系かと思われる短甲、長鼓山古墳の年代よりも若干古い大刀、空堀りの溝などが確認されている。箱式石棺墓は北部九州にみられる墓制である。
⑦龍頭里古墳は、海倉湾周辺の集落よりも内陸に築造された前方後円墳である。近隣の住民の話によれば、昔は古墳のなかに入ったことがあったということから、横穴式石室の可能性が高い。


●全羅南道北部から全羅北道の前方後円墳
⑧明花洞古墳は、発掘調査時に埴輪が出土している。
⑨月桂洞古墳が長鼓墳とも呼ばれていた。横穴式石室の構造をもち、天井石や門柱石などに6世紀第2四半期の特徴が窺われる。
⑩潭陽古城里古墳1号墳も前方後円墳である。現在の測量図では判然としないが、ホタテ貝式のように前方部が短い。また後円部の周囲に周溝の痕跡がある。
⑪長城鈴泉古墳は、古城里古墳から15キロメートル離れた地点に築造された円墳で、長方形の横穴式石室をもつ。門柱石などが熊本県の臼塚古墳などと類似しており、柱石を2枚用いるなどの特徴をもつ。
⑫咸平礼徳里古墳は、その石室の系譜については漢城期の百済説と九州説がある。遺物からは武寧王陵(公州宋山里)の下の位にランク付けされる。土器編年から6世紀第1四半期の築造と見られ、百済系の技術をもつ馬具のほか、倭系の環頭大刀、胸当を副葬品とする。
⑬1号墳の周溝に隣接して営まれた2号墳は、円墳で陵山里古墳群と同じく泗沘式の石室であり、墳丘が大きい。
⑭咸平長年里長鼓山古墳は楕円状の後円部をもつ。腰部から埴輪が出土しており、年代は6世紀代と見られる。
⑮高敞七岩里古墳は、近年確認された前方後円墳で、韓半島では最北に位置する前方後円墳で、埴輪片が採取されている。



●金官伽耶領域内の遺跡
 大成洞古墳群をはじめ、良洞里古墳群、釜山の福泉洞古墳群からは、筒形銅器や巴形銅器、碧玉製紡錘車形石製品、碧玉製石鏃、碧玉製玉杖などの日本系遺物も多く出土している。大成洞古墳群の日本系遺物は日本の近畿地方と深く関連性を持っているのに対して、金海の良洞里古墳群の日本系遺物は北部九州を中心とする弥生後期のものが主流である。時期的にも、良洞里古墳群が造営されたのは狗邪韓国時代である。(國學院大學21世紀CEOプログラム・韓国全羅道地方の前方後円墳調査報告から抜粋)
 これは注目に値する所見である。2世紀から5世紀にかけて営まれた金海の良洞里古墳群が狗邪韓国時代の古墳群で、日本系遺物は北部九州を中心とする弥生後期のものが主流であり、5~6世紀に営まれた大成洞古墳群の日本系遺物は近畿地方と深い関連性を持っているという。
 交流・交易の中心地が変わったということは、金海に狗邪韓国があった時代と、倭国の中枢機能が近畿地方にあった(遷都した)時代の対外交流の中心が変わったということだろう。

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3 コメント

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Unknown (嘘はやめましょう)
2017-10-24 00:29:49
遼河文明?

大陸に行った事無いだろう?
農業は全くできない不毛の地だぞ。

北海道なんか比べるべくもない極寒の地

文明どころか定住する人間なんかいない。

おまえ三国人?
文化の流れはいつも南から北へだ。
北から来ることは絶対にない。

日本から朝鮮半島にしか文化は移動できない。
あらゆる農作物のDNA解析が日本から文明が半島大陸に移動してる事が判明してる。
一コメへ (Unknown)
2020-05-25 12:10:23
文化の流れはいつも北から南。大抵はそうだが日本の蝦夷やケルト人のブリテン島の侵入のように例外だって、いくつもあるんだぞ。いつも、南から北へ文化が来るなんて、大間違いだ。それに、遼河文明も知らんとは。日本の東北が古代は現在より温暖で米作りに今より適していたように、古代の遼河はもう少し温暖だったのだ。古代史をもっと勉強しろ。あらゆる、農作物のDNA解析が日本から文明が半島に来ている。だいぶ、偏屈な考え方だな。自分に都合の良い本ばかり読んできたのだろうな。
精到の見 (いしゐのぞむ)
2023-06-12 13:05:01
十年前の素晴らしいブログですね。鄙ブログ「尖閣480年史」に 
http://senkaku.blog.jp/2023061290801576.html
 引用させて頂きました。

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