倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

終章 装飾古墳が物語る「東遷」

2012-11-07 10:24:58 | 終章 装飾古墳が物語る「東遷」
●九州に「~の君」と「県(あがた)」が多いわけ
 古墳時代になると、九州には「~の君」を名乗る豪族が多く登場する。宗像の君、筑紫の君、水沼の君、肥の君、芦北の君、大分の君などなど。君とは、天皇家の血筋の皇族が天皇家から離れて名乗った皇別豪族の呼称である。絶対的に恭順で信頼のおける親近血族に要衝とその領民を抑えさせるのが政権安泰政策の常道で、支配者が親近血族に領地を与えて各地に配するのも古来からの通例だった。こうした多くの君たちが、朝廷から大小さまざまな領地をもらって九州を分担支配していたのである。
 しかも九州は、大陸・朝鮮半島との玄関口であり、その先進度と重要さにおいてほかに勝るところはない。玄関口であるだけに、放置しておいても豊かで先進的になる。だからこそ力をつけ過ぎないよう、(大和朝廷直轄地の県を除く)領地を細かく分断したうえで親近血族に管理させた。それが、九州に「~の君」を名乗る豪族が多い所以でもある。(それでも筑紫の君と称した磐井のように力をつけすぎる者が出る)。
 ※九州には「~の君」と並んで県(あがた)が非常に多い。県は大和朝廷直轄地の名称で、県の長を県主(あがたぬし)といった。東日本では県は少なく、地方豪族がそのまま国造となる。

●磐井の墓は装飾古墳か
 筑紫の君・磐井の墓とされる岩戸山古墳は石人を配していることで知られる。同じく石人を配した石人山古墳は装飾古墳である。
 福岡県在住の知人が岩戸山古墳資料館に確認してくれたところによると、「八女古墳群の特性から岩戸山古墳の石室は装飾されている可能性が大きい」とのことであった。未調査の状況下で確かなことはいえないが、もしも磐井の墓が装飾古墳だとすれば、装飾古墳は天皇家に連なる皇別豪族たちが展開した墓ということになる。

 筑紫の君・磐井については、その響きから九州全土の支配者でもあるかのように思いがちだが、実は、数多の君と並んで筑紫という領域を支配していた一豪族にすぎない。その証拠が、磐井の乱の前後の状況に明確にみえている。磐井は、継体天皇の命を受けて半島に出兵する近江毛野臣にこういう。
 「昔、我とお前とは伴(とも)として、肩や肘をすりあわせて、共に器を同じくして食うた」。
 ここで磐井は「伴として」という言葉を使っているが、これは、彼が継体以前の天皇につき従っていた(仕えていた)ことを示唆している。
 さらには、物部麁鹿火が磐井を討ったあと、磐井の子の葛子は父に連座して誅されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上することで死罪を免れることを求めた。「父に・連座して・誅されるのを恐れて」とは、「咎(罪や過ち)」の存在を示唆する表現であり、この一件が謀反めいた内紛の様相を呈していることが分かる。
 古代史論空間の一部でいわれるように、磐井が九州全土の支配者でこの戦いが王朝間の戦争であれば、破れた王朝は滅亡で九州全土の処理問題に発展しているはず。だが磐井の場合は、領土の一部割譲で済んでいる。これは、もともと天皇家とこれに連なる者の内輪の確執だった証拠である。いわゆる同族の争いである。
 
 私は、磐井の謀反の動機についてはこう考えている。
 皇位継資格をもつ皇親の範囲は4世血族までとされていたが、継体天皇は応神天皇の5世孫である。磐井は、継体天皇が正統な継承資格をもたない傍流だったことから、これに対して反発したのかも知れない。いかにも九州の頑固豪族らしい所行である。
 確かに継体天皇は、「傍流にありながら皇位を継承した」ことへの恐れと謙虚さに満ちた発言をしている。
・継体天皇の治世7年12月8日、詔していわく。
 「朕は皇位を承けて宗廟を保つことを獲て、恐れ戒め慎んでいる」。
・継体天皇の治世24年春2月1日、詔していわく。
 「磐余彦(神武)の帝、水間城(崇神)の王より、みな博識の臣に頼り明哲に佐けられた。故に道臣が謨りを陳べ、而して神日本(神武)は盛る。大彦命が計略を申のべ、而して瓊殖 (崇神)は隆えた。継体の君に及び、中興の功を立てんと欲するは、賢哲の謨謀 (計画ごと)に頼らずにできようか。小泊瀬天皇(武烈)の天下は、ここにおいて隆え、幸いにして前聖を承け、太平の日久しく隆えた」。
 ※文中の「継体の君に及び」という文言から判断すると、継体天皇も磐井と同じように、要衝地を与えられた皇別豪族の一人だったようである。また、一部で喧伝されるように、継体が系統の異なる出自だったり、継体の即位が半島渡りの異民族による皇位乗っ取りであれば、「宗廟を保つ」「中興の功を立てんと欲する」という発言はしない。むしろ『日本書紀』は、乗っ取りを誇らしげに書いていたことだろう。
 ※5世血族で即位した継体天皇の後継者たちは、継体天皇を傍流のままにしてはおけなかったとみえて、705年に皇位継承権の範囲を5世血族まで拡大している。
 
 それではなぜ「九州には大和朝廷とつながりの深い~の君と県が多いのか」と考えたとき、「九州が倭国支配者たちの故地だったのではないのか」という仮説が当然のごとく浮上する。これについて順を追って考えてみたい。
  

 九州に装飾古墳が展開し始める5世紀前後の時期は、日本列島では一大転換が起きている。
▼近畿地方に大古墳が造営される始める。(4~5世紀)
▼近畿地方に鉄器が本格的に普及し始める。(4~5世紀)
▼沖ノ島祭祀に近畿方面から大和政権が参加し始める。(4~5世紀)
 すべて4~5世紀を境目にしている。これらと九州に装飾古墳が展開し始める時期と、大和に統一政権が登場する時期とがぴったり符合する。こうした画期と足並みを揃えているのが、先に提示した朝鮮半島南部に展開する金官伽耶領域内遺跡の出土品である。それによると、列島内の対外交流の拠点が2~4世紀には北部九州だったものが、5~6世紀になると近畿地方へ移っていた。4世紀頃までは半島との交易の痕跡がなかった近畿地域で、5世紀になって強大な勢力が出現し、北部九州にとって替わるという図式は物理的にも起こり得ない。むろん、そうしたことを告げた歴史史料もない。
 これはいったいどういうことなのだろうか。

●海を制する者が列島を制する 
 古代における大陸・朝鮮半島とを結ぶ通交ルートは、筑紫から壱岐・対馬・朝鮮半島という海路ルートである。この島伝い海上ルートは、史実が示す通り、人・もの・文化・技術・知識の往来の命脈だった。このルートが戦略上極めて重要なポイントであり、関門海峡とを併せて掌握することで九州以東を容易に統制できることは誰の目にも明らかである。
 武力闘争の時代は、「食うか食われるか・取るか取られるか・敵対するか与するか・支配するか従属するか」である。ここで仮に、島伝い海上ルートが大陸・半島との唯一の通交ルートだった古代において、九州の有力勢力が関門海峡を封鎖した状態を想定しよう。
 すると、瀬戸内海・畿内方面の出入りは遮断され、中国や半島との「人・もの・文化」の通交が不可能になる。人・もの・文化の出入りは、出入り口ほど濃厚で遠くなるにつれて希薄になる。このままの状態で孤立が続けば、裏日本と化した瀬戸内と近畿地方は、後進国に甘んじるか淘汰を待つか、さもなければ、戦わずして関門海峡を掌握した勢力に与するしかない。
 この大陸・半島とのルートを最初に掌握したのは、史実として判明しているかぎりでは1世紀半ばに登場する倭奴国である。(最初に島伝いルートを使って中国へ朝献・朝貢した事実から、島伝いルートを支配したのも関門海峡を掌握したのも倭奴国だったことが容易に推察できる)。むろん、時代的にも倭奴国は九州を拠点とした勢力だった。このことも、志賀の島に埋納されていた漢委奴国王印の存在が証明してくれる。
 そこで、読者のあなたに問う。もしもあなたが、倭奴国王か倭奴国首脳だったとした場合、この妙脈ルートを、防衛管理も出入りの統制もせず、自由・野方図に開放しておかれるだろうか?……解答は明白だろう。



 かくして、最初に島伝いルートを掌握した勢力が、つねに独占的に支配し続けることになる。その支配権は倭国王をかつぐ勢力に属してきたと私はみている。それ以来、朝鮮半島と列島とを結ぶルートを支配してきた勢力はいつの時代においても一つだったはずである。
 このルートを独占的に支配してきた勢力は、必然の結果として列島一先進的で強力になる。たとえ別ルートを使う勢力があったとしても、この島伝いルートを支配した勢力よりも、抜きん出て先進的で強力になる可能性はない。しかも格差は開く一方である。考古的にも文献的にも、派手な「島伝いルート争奪戦」があった形跡もないところをみると、圧倒的大多数が島伝いルートを支配した勢力につき従ったものと思われる。
 このように、日本列島における統一国家づくりは、島伝いルートとセットであり、これを支配・維持した勢力のみが可能にする。海を制する者が列島を制する。......これが真理であり、日本列島の地理・地形と朝鮮半島との地理関係から生じるところの「力学」である。


●人・もの・文化は西から東へ
▼遅くとも2世紀初頭には倭国の支配政権は近畿地方にあって、朝鮮半島・対馬・壱岐・関門海峡の海上ルートを支配していた可能性はあるだろうか。
 ……時代の成熟度からみても史実からみても否である。
▼2~3世紀において、朝鮮半島・対馬・壱岐・関門海峡の海上ルートを使うことなく、近畿地方に先進的な「人・もの・文化」が流入した可能性はあるだろうか。
 ……大陸・朝鮮半島との交流ができない現実の下では否である。
 すでに見てきた通り、唐戸・鍵遺跡出土の土器に描かれた男女司祭の扮装や祭祀様式も、土器に描かれていた楼閣も南方色が濃い。また、「ヤマト政権」「ヤマト王権」などと吹聴される倭国政権中枢の人々が、長江流域民族の習俗たる「お歯黒」をしていたという事実は揺るがない。
 日本列島各地には、中国神話の三皇にあたる伏義女媧に由来する人首蛇身の神を崇める多様な非漢民族が、縄文後期から弥生時代・古墳時代にかけて継続的に渡来している。彼らの信仰的精神性を現す各種うず巻き文(蛇)、鋸歯文・菱形文(蛇のウロコ)、同心円紋(蛇の目)が、縄文の土器・土偶から銅鐸・銅鏡・埴輪・古墳・神道へと連綿と続いている。これらの人・もの・文化が日本列島の西から東へもたらされた事実もまた揺るがない。これらが「いつ・誰の手で・どうやってヤマトにもたらされたのか」について問うたとき、合理的な説明ができ得る歴史動向は一つしかない。
 すなわち、「4~5世紀頃の倭国政権中枢の九州から近畿への計画的な遷都」。いわゆる東遷である。

 「ヤマト政権」「ヤマト王権」なるものが、「はじめから(創成期・黎明期から)ヤマトに存在した」という考古事実も歴史的事実もない。ヤマトの地は、弥生後期に組織的開拓の手が入るまでは、銅鐸の出土数すら極めて少ない未開の湿地帯だったのである。
 日本の古代史をやや乱暴に区別すれば、「弥生時代は九州で古墳時代は近畿」という構図になる。とくに近畿地方の歴史は、「その先へ」とさかのぼるほど歴史の脈絡がかすんでしまう。極論すれば「古墳時代の前がない」のである。「近畿における古墳時代誕生の突然性」や「古墳時代はいつ・誰の手で・どうやって近畿にもたらされたのか」を合理的に説明し得る仮説は、「倭国政権中枢の九州から近畿への計画的な東遷」しかないといえる。
 そこで次に、私なりに東遷の実態について考えてみる。

●3世紀の倭国の実態
 弥生時代の列島は、紀元後57年の倭奴国~107年の倭国へと脈絡しながら、国家としての体制も次第に成熟していく。そうした段階を経た3世紀末には、九州や大和に限らず、東海・関東に至る広範囲に前方後円墳(前方後方墳)が登場しはじめる。このことは、鏡と剣を重要な呪具とする信仰精神と墓制とをもった勢力が、3世紀末には関東への進出・開拓・定着を果たし、安定収穫を実現していたことを物語る。
 交易・交流・資源確保などの目的で、はるばる朝鮮半島や中国へ出かけていた倭人のことだから、列島各地ではもっと盛んに進出・開拓・定着が行なわれていたのだろう。考古資料のいうところから卑弥呼の時代(3世紀中葉)をみると、すでに東海・関東に至るまで地ならし・根回しが進んでいたことになり、時代と倭国の国家体制が想像以上に成熟していたことになる。確かに、3世紀の倭国を見聞調査した中国人も、軍政・行政・法制のあらゆる面で、豪族の国邑を二重構造的に包み込んだ統一国家のヒナ形的体制ができていたことを告げている。
 そうした長い助走期間を経た5世紀には、すでに倭国の国家体制が出来あがっていたことを示唆する証拠がある。
 熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀の所有者ムリテは「典曹人」という官名だった。典曹という官名は中国に倣ったらしく、『後漢書』志・太尉の項に「典曹文書」というのが登場する。加えて、「~曹」という役職が細かく紹介されている。また『三国志』蜀書・呂乂伝には、明らかに官名らしい「典曹都尉」というのが見える。典曹とは文字・文書記録に携わる役人のことである。一方、稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文には「杖刀人」という官名がある。杖刀人は王の身辺警護にあたる親衛隊のことである。つまり、5世紀の後半には親衛隊から文書担当の官吏に至る間手で配されていたことがわかる。このことから、倭国政府の組織体制と役人構成が出来あがっていたことが推察される。

●なぜ引っ越したのか
 列島の統一経営には、列島の中心部へ出る必要があった。また九州は、年に数度は台風という招かれざる客が訪問する土地柄である。台風、河川の氾濫、水害も、当事者にとっては笑えない切実な問題である。台風の被害がより少ないところへの移転も、大きな政治課題であり政治選択の一つだったろう。だが私は、九州から瀬戸内の奥への遷都の最大の理由は、関門海峡と瀬戸内海を有する地形を活かした戦略的判断によるものとみている。
 魏以降の中国の動向をみてみよう。魏を廃して成った晋政府は、倭国にはさほど興味を示さなかったとみえて、266年の倭国の朝貢に対してどう対処したかには『晋書』も触れていない。むろん、親晋倭王と認証した雰囲気もない。晋の武帝・司馬炎は帝位についたあとは色ごとに熱中して政治を顧みず、武帝のあとを受けた恵帝は暗愚で外戚(皇后側勢力)の思うまま。そうしたことが引き金となって、290年代に入ると晋の有力王たちによる「八王の乱」が勃発して国内は騒然となる。これが、やがては五胡十六国入り乱れての騒乱の時代へ突入する。
 この時代、中国勢力はすでに数百人規模の兵士を積むだけの海洋船舶技術を手にしており、海を渡って侵攻される恐れが現実的になっていた。3世紀に魏の使節が乗ってきた大型楼船を見た時点で、倭国側はそのことを明確に認識したはずである。その倭国としてみれば、五胡十六国の争乱状態ではいつ何どきに中国勢力が侵攻してくるかは分からない。そうした外来勢力に対する防衛構想上、玄関口の九州から離れたほうがより安全であると判断して、関門海峡と瀬戸内海に幾重もの防衛体制を敷いた奥の大和へ引越したものと考えている。

●東遷のカタチ
 東遷といっても実現するまで作業は膨大多岐にわたる。一人一代で実現できることではない。 おそらくは何代にもわたって継続して実現した事業だったはずである。 遷都も統一事業を終えてから徐ろに実行するものだろうから、相当に早くから根回し・地ならし・平定・開拓の尖兵が進出していたのだろう。むろん、「山一つ隔てた東が毛人の国」というのでは安心して引っ越すことができない。まずは先遣開拓部隊を派遣して、毛人勢力を関東以北に押し込めたあと開拓農民を屯田させたところで、大和での王都建設が始まる。卑弥呼の時代がそうした事業への着手段階だったことを、3世紀末には関東でも前方後円墳や前方後方墳が登場することで推察できる。

 私は創作神話は考察に採用しないほうだが、唐戸・鍵と纏向を包含する外山の地に、天の磐舟で降り立ったニギハヤヒこそ、九州倭人による先遣開拓を象徴する存在ではないかとみている。
 天の鳥舟でこの地にやってきた神武は、ニギハヤヒと自分が同じ神の子であることを確認する。その後、ニギハヤヒは外山の地を無血開城する。この逸話を読むと、ニギハヤヒの祖先に先遣開拓を命じたのが神武の祖先だったのではないかと思うのである。
 (一説によると、ニギハヤヒは天孫降臨で九州・日向の地に降り立ったニニギノミコトの兄といわれる。また、天の鳥舟で九州からやってきた神武と同じ神の子だというのだから、天の磐舟でやってきたニギハヤヒも九州からやったきたことになる)。
 外山の三輪山の神も出雲と同じ蛇神である。この蛇神こそが、稲作渡来民族が崇めてきた最古の神であり、神社のしめ縄に顕著なように現代まで連綿と息づいている。私は、創作神話のいう出雲の国譲りもニギハヤヒの外山無血開城も、九州倭人の列島開拓進出の経緯を伝えているのではないかと思う。そうした遠大な東遷事業の実際の一端を、奈良盆地の弥生遺跡にみるのである。


●奈良盆地開拓を担った計画集落の存在
 奈良盆地の平地部分は古代においては湖か湿地帯だったといわれている。事実、幾つもの川が大和川となって合流するあたりの広大な平地は、まるでエアポケットのように縄文時代と弥生時代の遺跡がない。また、奈良県では近畿各県に比べて銅鐸の出土数が少ないのだが、少ない出土例の中でも北部に集中している。 このことは、外から開拓の手が入るまでは、大和盆地中央以南はほとんど未開だったことを物語る。
 さらには、奈良盆地の極めて特徴的な現象の一つに、灌漑用と思われるため池が無数に点在することがあげられる。その多くは人為的に掘ったものではなく、天然の湿地か沼を意図的に残したものと思われる。こうしたことがまた、奈良盆地の中央部から南西にまたがる大半の平地は、古代においては湖か湿地帯だったことを物語っている。事実、地質考古学者の伊達宗泰氏が作成した弥生時代の奈良盆地の地勢図によると、弥生の大集落「唐戸・鍵遺跡」は初瀬川沿いにあって、当時は湿地帯の際か初瀬川河口に位置する。
 唐戸・鍵遺跡をみると、弥生時代中期に周辺の3つの集落を統合して大環濠集落の形をとり、楼閣や大型建造物が登場する。弥生時代中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが再開発され、異なる土器を使用する3ブロックが並立する集落に膨れ上がる。弥生時代後期には大環濠はなくなり、集落の規模は縮小へ向かう。集落は、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されている。出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ勾玉などがある。(田原本町公式サイトより )

●唐戸・鍵遺跡における外来系土器の分布
①東南部(旧市街地):河内産の土器が大半を占める。
②北部:吉備・讃岐・山陰・丹後・紀州などの土器が出土。
③南西部:吉備・讃岐・山陰・丹後・紀州に加えて東海・関東・越などの土器が出土。
④九州北部・九州中部・九州南部と南四国、常陸・奥羽などは、少量ではあるが全時代的に出土している。弥生時代後期になると、これに加え全般的に近江や丹後・丹波・但馬・播磨などの土器が増加する。
 唐戸・鍵遺跡全体を通してみれば、ほぼ全国から人が集まっていたようである。この遺跡が湿地帯の際か初瀬川河口に位置すること、生活色に溢れた遺跡であること。さらには、生活必需品のほかに農工具が出土していることから、奈良盆地中央部の開拓と開墾を担った集落だったものと思われる。

 見逃してならないのは、奈良盆地が湿地帯だった弥生時代中期に、計画的・組織的に開拓の手を入れた権力(全国から開拓労働者を集める権力)が、ほかの地域の「どこかに」存在したという事実である。弥生初期、この湿地帯の東端部にポツリポツリと小集落ができる。弥生中期になると、これらの小集落を計画的に統合した大環濠集落が出現する。これが唐戸・鍵の集落である。灌漑は、作物の安定的栽培を保証し生産性を高める。灌漑用と思われるため池をつくったということは、耕地に水を供給し適切な排水を行なう水利土木技術が伴っていたことを物語る。「沼沢開拓の経験と技術」「灌漑と水利土木の知識と技術」「鉄製の鋤先をつけた鋤」「多くの労働人口」、これらは、どこから未開の奈良盆地へもたらされたものか。湿地開拓技術や環濠集落をもたらした人たちは、どこからやってきたのか……。

 先に述べたが、唐戸・鍵遺跡から出土した土器片に描かれていた祭祀の様子をみると、男女司祭の紛争は隼人そのものであり、身にまとった衣装の文様は、蛇神信仰(蛇のウロコ)をあらわした連続三角文様(鋸歯文)である。祭祀は、集落や集団の長がとり仕切るものである。必然の論理として、集落の運営・管理と開拓指導をしたのが九州倭人だった事実は動かない。
 九州倭人は、すでに弥生中期には鉄器を所有していたし、佐賀平野と筑後川河口部の広大な沼沢を開拓した経験と技術がある。筑後川下流部から佐賀平野にまたがる平原沼沢の開拓は、紀元前から継続して行なわれてきた。湿地帯開拓でもこちらのほうが先輩である。奈良盆地の沼沢の開拓・開発にも、その経験と技術が活かされているものと思われる。これらの観点から総合的にみて、唐戸・鍵の集落は、九州倭人が奈良盆地の湿地帯開発のために設けた前線集落だったと私はみている。

 ということで、『日本書紀』のニギハヤヒの逸話は、こうした地ならしと開拓のために派遣された九州倭人の遠大な物語を、一つの逸話に縮小したものではないかと思うわけである。

 開発が終わると開発を担った大集落は解体され、水田耕作の小集落単位に分けられる。水田稲作は何かと手間がかかる。農民が耕作地から離れて住んでいては農作業にかかる時間が少なくなる。極端な例でいえば、片道に半日を要するようでは労働時間がない理屈である。そうしたことから、耕作地の近くに住んで農業を営む。開拓を終えた土地は、3家単位・5家単位といった具合に小集落を形成して、集落の周囲の水田の耕作を担うことになる。
 「東遷は1日にしてならず」………遠大かつ膨大な準備作業を経て開拓が終了した弥生終末期、奈良盆地では古墳時代を迎えることになるのである。


●ゆるやかな統制による「ゆるやかな支配」
 本題に戻ろう。
 私は、そもそも畿内勢力・九州勢力といった対立勢力もなければ、そうした二大勢力の対立構造もなかったとみている。東遷以前の日本列島は実際には海峡の武力封鎖を必要とはしておらず、「九州勢力による・ゆるやかな支配(流量の管理とコントロール)で維持されていた」というのが私の一貫した見方である。
 現実問題としての日本列島の勢力構図は、九州に派生した先進的勢力を頂点としたピラミッド構造だったものと私みている。もともと、長江流域から渡来した同じ民族が主流となって列島に住み分けていたのだから、九州勢力に与したり融和したりで九州勢力と友好的な倭人がほとんどで、倭国政権中枢の遷都もさほどの抵抗もなく実現したものと思われる。

 ※二大勢力の対立構造は、畿内勢力が九州勢力を滅ぼして列島を統一したとする説と、九州勢力がヤマトに遷都したとする説。この互いが、自論の展開上必要とするようである。だが現実は、支石墓、熱帯ジャポニカ、環濠集落。抜歯、文身、お歯黒。横穴墓・墳丘墓、舟形木棺。銅鏡、銅剣、玉類、鉄製の太刀。高床式住居と倉庫、破風には懸魚。鳥居に鰹木、千木。まげ、鵜飼い。棚田、田下駄。餠、揚げ餅、蕎麦、納豆、麹。味噌・醤油、豆腐。漆......。長い時間経過の中で、これらの「人・もの・文化」が西の彼方から九州へ伝わり、そして東へ伝播・移動したのである。

 さて、「九州が倭国支配者たちの故地だった」「4~5世紀頃の倭国政権中枢の九州から近畿への計画的な遷都」を私なりの方法で論証したところで、「装飾古墳の幾何学文様を描いたのはどんな人たちで、いったいどこから来てどこへ行ったのか」という問題に戻る。
 倭国の政権拠点が九州から近畿地方へ遷都したあと、重要な九州の管理・支配を委ねられた「~の君」を称する皇別豪族たちが展開したのが、装飾古墳ではなかったろうか、というのが私の所感である。
 かくいう根拠もまた明確である。装飾古墳に描かれた幾何学文様は、中国において荊蛮・百越などと呼ばれた三苗族に由来するものである。すでに述べたように、その彼らの民族的習俗が「文身・黒歯」である。これは倭人の習俗でもある。中でも黒歯は明治初期まで皇族・貴族もしていた極めて民族色の濃い習俗である。つまり、幾何学文様に潜む信仰的精神性と文身・黒歯はセットで、倭人の特徴的な習俗なのである。このことから、装飾古墳の被葬者たちも同じ習俗をしていたものと思われる。
 その装飾古墳は、紛うことなく九州土着豪族の墳墓である。とはいうものの、大和朝廷が列島統一を果たしたあとの九州に、朝廷直轄の「県」と「~の君」を名乗る皇別豪族たちがひしめき合う中で、これらとは別の土着勢力がそちこちにいたという史実はない。いたのは南端の隼人と、熊襲と土蜘蛛という少数社会部族である。それでは装飾古墳を造ったのは誰かと考えたとき、導き出される回答は、「~の君」を名乗る九州土着の皇別豪族たちしかない。



●装飾古墳と「~君」と「県」の分布
※「~の君」の領域と「県」の領域の正確な区分は分かっていないので、装飾古墳の分布図に、おおまかにその位置を重ねてみた。個々の版図も境界も不明なので一概にはいえない面もあるが、装飾古墳の多くは「~の君」のいた領域に造られている。
※上妻の県は、時代的な前後関係で八女の県・山門の県などと呼ばれたようである。
※水沼の君と芦北の君の領域には装飾古墳が少ない。ただ、未調査の古墳が少なくない現時点で、安易に「ある・ない」と断定する愚行は避けたい。
※私は、九州にある大古墳群の塚原古墳群と西都原古墳群は大和朝廷が営んだ国営墓域とみている。県主は大和朝廷直轄地を管理する役人だから県の中にその墓を造ることはなく、彼らの多くは塚原古墳群、西都原古墳群などの国営墓域に埋葬されたものと思われる。
※鹿児島県に装飾古墳が少ないのは、古墳時代のこの時期、九州南端は朝廷に服わぬ隼人の領域で、朝廷の支配がおよんでいなかったからだろうし、関東各地にまで散在する装飾古墳も、九州の皇別豪族の中から、要衝地を与えられて地方に赴任した者の墓とみている。


●大陸における多民族構成の縮図
 土偶といっても、意匠・サイズ・形状・製造技術など全国まちまちである。前方後円墳といっても、その形状や規模、石室の石材や構造や積み方、棺の形状や材質など千差万別である。装飾古墳といえど、形状はむろん装飾の手法・画法・描画テーマにも違いがある。墓づくりそのものも、地下式といえど横穴式墓や板石積み墓があったりと、少しずつ異なるものが同居している。それでいて、鏡と剣を重要な呪具とする葬送儀礼は全国共通である。
 こうした枝葉の違いは、それぞれの創意工夫が流儀となり地域性となった面もあるだろうし、基本的には同じ民族なのだが少しずつ文化の異なる多様な民族が渡来して、倭人という枠組みを構成していた証拠ともいえる。彼らは日本列島において、大陸における民族構成の縮図を描いていたといっても過言ではないようである。
  
 いまわが国では、発掘調査が可能な指定漏れの遺跡や中小の古墳から得られた情報で、倭国という国家とその支配層の歴史動向が語られている。「ささいな手がかりで大きな出来ごとを語る」という、手法が普通に行なわれているのである。仮にすべての古墳の発掘調査が可能となれば、大古墳の幾つかにも何らかの装飾が施されていることを想定しても、あながち的外れではないと私は思うものである。 (完)







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