倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

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第2章 装飾古墳と装飾画の源流

2012-11-07 10:30:20 | 第2章 装飾古墳と装飾画の源流
●装飾古墳の源流
 装飾古墳に描かれた幾何学文様が、遥か縄文時代から日本列島に存在した事実を見てきたが、それでは石棺や古墳の壁面に装飾を施す文化が「どこからやってきたのか」と考えたとき、そこに見えるのは実は中国大陸である。(以下は岡崎 敬・九州大学名誉教授の論説からの引用だが、全文を掲載すると長くなるので要点を抜粋させていただく)。

●壁画古墳の起源は漢代の中国
❶河南省洛陽の壁画墓:墓室の門額、隔墻(かくしょう=棺のわき板)の上の横梁の上に壁画とくりぬきの画像があり、墓室の頂部には太陽(金鳥)、月(ヒキガエル)と星宿が描かれている。後墻には上下2段、宴飲する人物と怪獣の図がみえる。前漢末期と想定される。
❷山西省平陸県棗園村の塼室壁画墓:墓室の上面に青竜、自虎、玄式など四神の図がみえ、また耕作する農村生活の描写がある。後漢代前半のものである。
❸河北省望都県の塼室(せんしつ)壁画墓:第1号墓は墓門口には寺門卒、門事長、墓室の北壁には主簿史、門下功曹をはじめ官職の名がみえる。人馬の列像など山東省における画像石、また遼寧省遼陽の石槨壁画墓に同一の表現をみることができる。第2号墓から出土した塼(せん=焼き瓦の板)に光和5年(182年)の紀年銘があり、後漢代後半のものということになる。
❹内蒙古・和林格爾県新店子公社の塼室墓:神話伝説、主人公生前の事跡、被葬者に属する官僚の図が描かれ、中室の頂部には青竜、自虎、朱雀、玄武の四神が描かれている。後室には、車馬出行図、幕府図、楽舞百戯図、牧馬図、朱雀・鳳風・白象図などが展開して圧巻である。2世紀の終り頃で後漢末にあたり、被葬者は北方民族の鳥桓を管理する漢族の官東であった。
❺内蒙古自治区托克托県の壁画塼室墓:閔氏の名がみえる。北方民族と接したこの地域の漢人の官僚家族の墓に、当時の漢墓に共通した画題とともに、自由なその土地に即した生活があらわれている。
❻河南省密県打虎亭の壁画墓:塼の壁上に5ミリにわたる白灰の壁をつくり、その上に、墨、朱砂、石黄、石緑などで描く。百戯図、包厨図、宴飲図、車馬図、角抵(かくてい=相撲)図をみることができる。調査報告者は漢の宏農郡太守、張伯雅の墓にあてている。
❼甘粛省嘉峪関市新城公社の塼室墓:8基のうち6基に塼の壁画がある。長さ36センチ、幅17センチの塼の横面に白灰で画面をつくり、上に墨や石黄、石緑、朱などで描いたもので、 1点1点が一つの作品となっている。1号墓には「段清」という名がみえ、漢代の甘粛省の家族段氏の一族と考えられる。この壁画には、宴飲、奏楽、出行など中原にみるものに、牛馬飼育、養蚕、播種などの農村生活をうつしていて、当時の辺境の人々の生活をナイーヴに表出している。魏晋代の墓と考えられている。
❽遼寧省遼陽市近郊の石室壁画墓:棺室の廻廊や側室などの壁面に壁画を描く。家屋の中に慢幕をたれ、その下に人物がすわっている。左右より供献される人物が一般に墓の被葬者を示すものと考えられ、これに宴飲、百戯、草馬出行などの図が展開されている。魏晋代のものが多いと考えられる。
漢魏晋の古墳壁画が、遼陽の壁画などを介して高句麗古墳壁画の源流になったことは、いうまでもないところで、さらに日本の装飾古墳の中にもその余波を見ることができると思う。
長沙市・馬王堆(まおうたい)の木槨墓(長沙王の宰相・軑侯利蒼の第一夫人の墓)の上を覆った彩色の帛画(はくが=絹織物に彩色した絵)が発見された。この帛画は墓絵であり、これを墓室の上に表現すれば、漢墓の壁画になっていく方向性をもっているということができる。




●馬王堆漢墓出土の帛画
・人首蛇身像:天上界中央に描かれたこの人首蛇身は、最も重要な神であることが分かる。女媧であろうという説が有力である。
・太陽と金烏:後漢以後は三本足の烏が多出するのだが、これは二本足である。
・月とヒキガエル:満月の中にいるのが多いが、これは三日月の上にいる。
・玉璧(ぎょくへき)は富と権力の象徴であり、天を祭る祭祀に用いたほか、明器として死者に副葬されたりした。

 『史記』魯周公世家には、周の武王が病に倒れたとき。彼の実弟の旦(たん=周公旦)が、古公亶父(ここうたんぼ)、季歴、昌の父祖三代の祭壇を設け、璧(へき)を抱き圭(けい)を手に、三者の霊に向かって武王の命乞いをするシーンがある。玉壁はどうやら、天との交信にも使われたようである。この帛画では、玉壁の孔の部分で2匹の龍の胴体が交錯しているところが興味深い。玉壁をしっかり携えた2匹の龍によって、被葬者が天上界に昇る意味合いをこめた画のようである。(中国ではこの帛画を昇天図と呼んでいる)。



※玉壁(ぎょくへき) Wikimedia PD


 古墳の内部に装飾を施す様式が中国の前漢代に誕生したことが分かったところで、やや横道にそれるが、古墳壁画に関する日本のごく一部に漂う考古所見の問題点に触れておく。

●高句麗壁画古墳の源流は中国
①安岳3号墳:最初の高句麗壁画古墳といわれる。高句麗の壁画古墳は横穴式石室をもつ封土墳の形態である。(高句麗特有の積み石塚ではない)。安岳3号墳の7行68文字の墓誌によると、357年に冬寿(とうじゅ)という中国人が69歳で死去したと伝えている。『資治通鑑』によれば、 とう寿(とうじゅ)という人物が336年に遼東から高句麗に亡命したことが判明しており、 この安岳3号墳の被葬者の冬寿は、ほぼ間違いなく『資治通鑑』のいうとう寿だと考えられている。
②徳興里古墳:墓主の名前が墨書された数少ない古墳で、14行154文字の墓誌が記されている。 この墓誌によれば、 被葬者は幽州刺史の鎮という漢人官吏で、 409年に77歳で没したことを伝えている。後室の四面には墓主のほかに馬射戯図(流鏑馬)、高床倉庫、蓮花文、七宝行事図で埋め尽くされ、 天井には星宿図があり、周囲を彩色された火炎文や蓮花文が飾っている。 また前室にも墓主像のほかに13郡太守図、 鎮の家臣図があり、 それぞれに官職名が記されている。 ほかにも騎馬行列図も描かれている。(「世界遺産情報」高句麗古墳から抜粋して要約)
 
 高句麗壁画古墳とされる墓は鴨緑江と大同江流域に集中しているが、このあたりは高句麗人の棲息地で、紀元前108年に前漢の武帝が4郡を置いて以来、玄菟郡下の少数民族地域として中国文化の影響を多く受けてきた。事実、ここに最初につくられた安岳3号墳は中国人の墓であり、そこに見られる様式も明らかに中国発祥の様式である。これを、(積み石塚をつくる高句麗の中で)支配層の一部が、中国由来の封土墳(盛り土の墓)と壁画様式を採り入れたものと思われる。
 6~7世紀になると、青竜・玄武・白虎・朱雀をテーマとした四神が登場するようになるが、四神も、太陽と三足烏(三本足の烏)・月とヒキガエルもみな、中国古来の信仰精神によるものである。そうした流れの必然として、墓づくりも描画も中国人の手によるものとみるべきである。
 
 ※高句麗古墳の壁画について、新井直樹という研究者のサイトが大変興味深い事実を載せている。写真転載許諾が得られなかったので画像は紹介できないのだが、集安市にある五盔墳4号墓(6世紀築造)の壁画には、神農氏が稲の束を持っている姿がある。石室内部の天井には皇帝の象徴である黄龍、その下には奏楽図、その下の角に伏義と女媧、さらにその下に四神図となっている。伏義が掲げる太陽の中には三足の烏が描かれており、女媧が掲げる月の中には蟾蜍(ひきがえる)が描かれている。(「新井直樹のホームページ」より)
 築造時期が6世紀というと時代的に微妙ではあるが、私は、これらも中国人の墓ではないかとみている。仮に高句麗人の墓だとした場合、高句麗支配層の間には中国の信仰的精神性が相当深く浸透していたことになる。

 ※高句麗の積石塚古墳には前方後円墳、前方後方墳などがあり、日本の前方後方墳、前方後円墳の原型であるという意見もある。(慈江道慈城郡の松岩里106号墳は前方後円墳で、松岩里1地区56号墳は前方後方墳といわれている)。
 これらの積石塚古墳の年代が古ければ古いほど、日本列島に伝わった可能性は低くなる。というのも、ご承知の通り3世紀はむろん4世紀末までは、倭国と高句麗の接触はない。史実としてみられる高句麗との接触は4世紀末頃からの敵対的接触で、高句麗の(墓制という)文化が伝わるような交流も接触もない。
 何よりも、墓制というものは信仰的精神性や葬送祭祀儀礼とセットで、いわば民族的アイデンティティの核ともいえるものである。その墓制と信仰的精神性や葬送祭祀儀礼が、文化交流のなかった高句麗から日本列島に伝わったという理屈は成立しない。高句麗の積石塚古墳のはっきりしない形状からみても、「前方後円墳、前方後方墳である」という見方そのものを懐疑せざるを得ない。

 蛇足ではあるが、中国人の墳墓・安岳3号墳に描かれた角抵(相撲)も、徳興里古墳に描かれた流鏑馬も中国発祥である事実を提示しておく。
 是時二世在甘泉、方作角抵優俳之観。(『史記』李斯列伝)
 この時、二世甘泉に在り、方(まさ)に角抵は優俳の観を作(な)す。
 秦の二世皇帝が甘泉宮にいるとき、角抵の技を競わせたが、それは演劇や雑技にひけをとらないほどのの見せ物だったという。この角抵については、應劭と文穎が次のような注釈をつけている。
▼應劭曰く:戦国の時、武道を学びたしなむ礼がやや多くなり、男子が相対して(力を比べて)誇示するをもって娯楽とした。秦はこれを角抵と名づけて呼んだ。角とは力の技なり、抵とはぶつかり合う(抵触する)なり。
▼文穎曰く:秦はこの娯楽の名を角抵となす。両者が相当り、力くらべをす。角技は、射御(馬を御し弓を射る流鏑馬)と同じ技、故に角抵というなり。
 このほかにも、『漢書』武帝記、『後漢書』夫余伝、『日本書記』皇極天皇紀にも、角抵を見せ物や賓客を迎えるイベントとして催したことが記録されている。


●日本の壁画古墳の源流も中国
 ここで、あえて強調しておくことがある。私たちはこれまでに、高松塚古墳やキトラ古墳の壁画をとりあげては、「高句麗壁画古墳の影響……」を頻繁に聞かされてきた。だがその実は、「中国に由来する高句麗古墳壁画との関連」、というのが歴史学的にも考古学的にも正しい。高句麗古墳の壁画も高松塚古墳とキトラ古墳の壁画も、様式と技法とそこに描かれた信仰的精神性もみな、源流は中国にある。


●装飾画の源流
 2010年6月の某BSテレビの報道番組で、曹操の祖父にあたる曹騰(そうとう)の墓を紹介していた。それは小山ほどの大きな円墳で、複数つくられた地下の玄室(墓室)は立法体に均一に切り出された石が隙間なく積まれていて、みごとなアーチ天井である。時代的には後漢代後半の築造だろう。その墓の壁面に、筆で描いたような柔らかい線刻で人物画が描かれていた。
 古墳に装飾画を描く様式が、前漢代の中国に始まることは確認できた。ただ、日本の装飾古墳にみられる線刻・彫刻による直線的・幾何学的画像は、同時代の中国の装飾画とは技術も画風も異なる。先に見た漢代塼室(せんしつ)墳の壁画も、馬王堆(まおうたい)墓の帛画もしかりである。

 ところが、そうした柔らかい線で描いた絵とは異なる直線的・幾何学的な絵がやはり中国にある。それが、雲南省金沙江周辺の蒼山、滄源(そうげん)、麻栗坡(まりっは)にある岩絵と称される原始絵画である。岩絵そのものが注目されはじめたのは比較的新しいのだが、中国人学者・彭飛氏の調査報告によると次のようなことが分かっている。
①蒼山岩絵:大理市から30キロ西に離れた蒼山の岩絵は、130図以上が人物絵である。
②雲南南東部の麻栗坡、雲南南部の滄源の岩絵では、自然崇拝を示すものとして太陽を描写したもの、祖先崇拝や祭祀活動を描いたもの、狩猟採集活動を描いたもの、氏族間の戦いの様子らしきものなどがある。
 ※岩を削った太い線で人間、太陽、屋舎、村、道路、弓矢で獲物を追う狩猟図、放牧図、獣鳥、娯楽などが描かれている。中でも、文身(刺青)や、高床式建物に通ずる巣居や干欄式建物など、日本文化と共通する雲南文化の一部がこの岩絵にすでに見られる。
③麗江を中心とした長江上流の金沙江周辺には特に大量の岩絵が発見されており、その多くは野生動物で、狩猟対象として描かれ、野獣が矢を体に受けた図などがある。
④東聯村補此里山の岩絵。東聯村は、麗江から更に北へ180キロほどの、主にリス族、ナシ族が住んでいる地域である。(彭飛 編著・山折哲雄監修『中国雲南岩絵の謎』祥伝社)
 この原始的な絵の中に、明らかに二頭うず文が描かれている。しかも祭りの中心をなすようである。現在、雲南省の滄源地域に住んでいるのは佤族(ワ族)である。だが、佤族は紀元前200年頃に怒江一帯に居住しはじめたというから、岩絵は少なくとも佤族の祖先が描き残したものでないことは明白である。


●ちょっとした発見がまさかの発見に
 写真は、WEB上で異国の旅人と称する旅好きの人が、雲南省を訪れて撮影した滄源の岩絵である。ご当人は「なにげなく撮った」といわれるが、経年劣化で消えかかっている岩絵をおさめた貴重な一枚である。写真では分かりにくいので図にして説明する。



●滄源(そうげん)の岩画 (写真提供:「異国を旅して」)


❶ 二頭うず文飾りと神獣らしい組み合わせの仮面を、大きな人物が頭にかぶっているように見える。その人物の周囲を群衆が取り囲んでいて、四方から飾りをつけた人などが集まってきているようで、この絵全体が祭りの様子を描いたもののようである。
❷ 菱形連続文とうず巻き文。
❸ 頭に羽飾りをつけた人物。
❹ 斧を振りかぶっているような人物。
❺ 矢印のようなものを両手で持っている人物。
❻ 両肩に人を担いでいる人物。
❼ 頭に飾りをつけた人物。

 この原始的な絵の中に、明らかに二頭うず文飾りと連続三角文が描かれている。現在、雲南省の滄源地域に住んでいるのは佤(わ)族である。ただ、佤族は紀元前200年頃に怒江一帯に居住しはじめたというから、岩絵は佤族の祖先が描き残したものでないことは明白である。日本人学者が滄源岩絵を調べたところ、紀元前1000年頃に描かれたことが分かったという。紀元前1000年といえば周王朝の時代である。
 この「二頭うず紋飾り」を祭りの中心として描いた絵画の謎を解くためにも、そこにみえる民族の歴史と信仰的精神性をたどる必要がある。次に中国の神話をのぞいてみよう。


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