倭人が来た道

謎の民族文様が告げる日本民族の源流と歴史記憶。

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第1章 幾何学文の謎

2012-11-07 10:30:48 | 第1章 幾何学文の謎

●銀象嵌銘太刀(国宝・東京国立博物館所蔵)
Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/


●鵜飼いの伝統
 3世紀半ばの倭国を目撃した中国人の調査記録に基づく『魏志倭人伝』は、倭人の官吏に奴佳鞮(ぬかて)という人物がいたと証言する。また、5~6世紀築造の江田船山古墳から出土した鉄刀には、幅数ミリの峰の部分に銀象嵌で銘文が刻まれていた。その銘文によると、刀の所有者は无利弖(むりて)、刀を鍛えたのは伊太加(いたか)、銘文を書いたのは長安とある。所有者と刀工は倭人で、文字原稿を書いた長安は文筆職能の中国人のようである。さらに、7世紀初頭に隋からやってきた使節の掌客(接待役)を務めた官吏に、大河内直(おおこうちのあたいの)糠手(ぬかて)という人物がいる。
 どうやら「○○て」は、古代倭人の命名パターンの一つだったようである。中でも、无利弖という倭人有力者が葬られた江田船山古墳出土の鉄刀には、馬と鵜と、鯉か鮒と思われる川魚が象嵌されている。日本の鵜飼いの対象魚がいつごろから鮎になったのかは不明だが、3000年の歴史をもつといわれる中国の鵜飼いは、現在でも鯉や鮒に似た川魚を獲っている。
 2009年秋に放映された某BSテレビ番組の中で、女流芥川賞作家・楊逸(ヤンイー)さん(日本在住の中国人)が、たいへん興味深い所感を漏らしていた。「鵜飼いは、発祥地の長江流域ではいまでも川辺の庶民の生活手段だが、日本では鵜匠は宮内庁管轄下の国家公務員で、鵜飼いを文化の域まで高めて国によって保護されている………」。

 驚くべきことに江田船山古墳出土の鉄刀は、5~6世紀の倭国には鵜飼いを文化にする兆候があったことを証言している。というのも、典曹人という官位をもつ有力者无利弖の所有刀に、鵜飼いをシンボリックに刻んで残すほどだからである。 かくして、外来文化を模倣するだけではなく、アレンジ・工夫して自分たちのものとしてきた倭人の素晴らしさを、いみじくも中国の女流文化人がこういう形で教えてくれたものである。

 長江流域といえば、この地の少数民族の村を訪れた日本人は、「故郷に帰ったみたいだ」「むかし見た風景に似ている」と口々にいう。確かに、この地に住む少数民族と私たち日本人との生活文化の共通点は多々みられるし、風貌や体格などの形質的にも近いものがある。また、日本人や稲作の源流を長江流域とする学説も多方面から出されている。
 私は、中国文献に依拠した日本古代史の研究を続ける中で、日本人(倭人)の起源についても強い関心味をもってきた。とくに、「装飾古墳の幾何学文様を描いた人たちは、いったいどこから来てどこへ行ったのか」という疑問を長く抱いてきた。そんな数年前のこと。ある個人の長江流域を歩いた旅行記サイトで、ちょっとした発見する。それを見た瞬間、私が長年かかえてきた疑問と謎とが一気に解決に向かうことになった。


●発端は装飾古墳
 ちょっとした発見の実態を明かす前に、装飾古墳について触れる必要がある。 
 ここでいう古墳とは、3世紀末から7世紀末にかけて造られた古代人の墓のことである。古墳の種類には、長方形の墳墓(盛り土の墓)の周囲に溝を巡らせた方形周溝墓、円形の円墳、正方形の方墳、そして、平面で見ると鍵穴の形をした前方後円墳などが代表的なものである。
 装飾古墳とは、これらの墳墓の中で墓室内部の壁面や石棺に絵画、文様、彫刻などの装飾を施した墳墓の総称で、山裾や崖に横穴を開けた横穴墓も含まれる。ひと口に装飾古墳といっても墳形も装飾もまちまちである。装飾には、浮き彫り、線刻、彩色と3様の手法がある。初期は浮き彫りが石棺の蓋や内側・外側に彫刻され、やがて赤色以外の色が使用されるようになる。(横穴式古墳では入り口や壁面に彫刻装飾が描かれる)。6世紀になると基本的には彩色だけで、石室全体に図柄が描かれるようになる。
 装飾古墳の描画には、抽象的なものとしては、幾何学的な双極(そうきょく)文、二頭うず文飾り、直弧(ちょっこ)文・蕨手(わらびて)文・鍵手(かぎて)文・円文・同心円文・連続三角文(鋸歯文=きょしもん)・菱形文・双脚輪状(そうきゃくりんじょう)文・区画文などがある。具象的なものでは盾・靱(ゆぎ)・甲冑・刀などの武器・武具や、船や人物・馬・鳥・蟾蜍(せんじょ=ヒキガエル)・朱雀などが描かれている。 専門的には、人物や鳥獣には大陸文化の影響が認められるといわれる。(Wikipedia)
 これが、古墳時代に入って久しい5世紀から7世紀にかけて、九州を中心として一部は関東まで展開する。その密度も九州中部が最も濃く、北上するにつれて薄くなり様式も時代も新しくなる。




●九州における装飾古墳の分布
①福岡県では、筑後川中流域、八女丘陵、筑豊、豊前の4地域に集中する地区が見られる。筑後川中流域は、彩色で描かれた同心円文を描く古墳が特徴で、日岡古墳、珍敷塚古墳、重定古墳など多彩である。八女丘陵では岩戸山古墳をはじめとして代々前方後円墳が築かれるが、その先駆となる石人山古墳は北部九州最古の装飾古墳である。筑豊地区は遠賀川およびその支流に分布するが、王塚古墳や竹原古墳など著名な古墳が見られる。
②熊本県では、玉名から山鹿にかけての菊池川中流域地区、熊本市周辺、八代海沿岸、人吉盆地の4地区に分かれる。菊池川中流域は最も装飾古墳が集中する地区で、チブサン古墳、弁慶ヶ穴古墳、鍋田横穴墓群など、彩色・彫刻ともに豊かな装飾古墳が見られる。
 熊本市周辺では鮮やかな双脚輪状文が印象的な釜尾古墳、直弧文が美しい井寺古墳や靭を彫刻した千金甲1号墳が挙げられる。八代海沿岸では田川内1号墳や広浦古墳など彫刻による装飾を持つ古墳が特徴である。人吉盆地では、大村横穴墓群や京ヶ峰横穴墓群のように、横穴の外側の壁に彫刻した文様を持つものが多い。
③大分県では、日田盆地、玖珠盆地、宇佐平野にまとまりが見られる。日田盆地ではガランドヤ1・2号墳や日田穴観音古墳など、同心円文、人物文などを彩色した古墳が見られる。玖珠盆地も日田盆地同様、玖珠鬼塚古墳など同心円文が主文様となる傾向がある。宇佐平野では一鬼手横穴墓群や加賀穴横穴墓群、貴船平横穴墓群などの彩色をもつ横穴墓群が集中している。
④佐賀県では、鳥栖市周辺、佐賀市周辺、小城~多久、杵島などの4地区に集中が見られる。鳥栖市周辺は筑後川流域の装飾古墳の影響を受けて、田代太田古墳などの彩色壁画を持つ古墳が見られる。佐賀市周辺には西隈古墳など線刻と彩色を組み合わせた古墳があり、残る2地区は線刻のみの装飾古墳が主流である。
⑤長崎県では、佐賀県と接する有明海沿いと壱岐の2地区に分かれ、両者とも線刻の装飾だが鯨や舟など海洋関係のテーマが目立つ。
⑥宮崎県では、宮崎平野とえびの高原に彫刻や線刻、または朱線による装飾を持つ家形の地下式横穴墓が築かれている。(「装飾古墳データベース」九州国立博物館)



※写真上左は、熊本県山鹿市のチブサン古墳の石室。上右は石室右壁のアップ。下は石室正面装飾のアップ。(写真提供:山鹿市観光振興課)



※写真右は山鹿市の長岩横穴群。左は108号墳入り口上部の人物の浮き彫り。(写真提供:山鹿市観光振興課)



※写真左は、茨城県ひたちなか市の虎塚古墳の石室。右壁の上隅に小さく双極文が見える。(写真提供:ひたちなか市教育員会)。右は、福岡県嘉穂郡桂川町の王塚古墳の石室。細かい同心円紋と、連続三角文のほかに、蕨手文、双脚輪状文などの渦巻き文様が描かれている。(写真提供:王塚古墳館)


※九州の装飾古墳の分布。「装飾古墳データベース」九州国立博物館を参照して作成。


●縄文時代から日本列島に存在した「うず巻き文」
 装飾古墳に描かれた幾何学文の中で、「うず巻き文」は縄文時代から日本列島に存在していた。しかも驚くことに、東北・北海道から出土した土偶にも確認できる。つまり、装飾古墳をつくった人たちと同じ文様文化が、縄文時代晩期には九州南端から東北・北海道まで及んでいたことになる。ここでいう「文様」とは土偶や墳墓にまつわることから、信仰的精神性を伴う文様であることは明白である。したがって換言すれば、装飾古墳をつくった人たちと同じ信仰的精神文化を持つ人たちが、東北・北海道まで及んでいたことになる。これは驚くべき事実である。



●鹿児島県国分市の上野原縄文遺跡出土の土製耳飾り。(縄文時代早期後半)。
 隼人楯にそっくりの双極文が刻まれている。また、同遺跡からは首回りに双極文を刻んだ 壺型土器も出土している。



●北海道室蘭市輪西町出土・縄文時代晩期の土偶。胸から肩にかけて、原初的な双極文と双脚輪状文が見える。腰回りには、明らかに二頭うず文飾りが確認できる。
(東京国立博物館所蔵)Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/




●宮城県田尻町恵比須田出土の縄文時代晩期の遮光器土偶。
 胴回りに蕨手文らしきうず巻き文が確認できる。背中には蕨手文の組み合わせパターンがみられる。衣装をみると、貫頭衣を着ていたはずの縄文時代に、袖つきの上衣に脚絆のようなものをつけている雰囲気がある。たぶん、女性が冠をつけて神に扮した象形なのだろう。(仮面の鼻づらが立体形の蕨手文である)。
(東京国立博物館所蔵)Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/



●左は茨城県ひたちなか市の虎塚古墳の石室。右壁の上隅に双極文が見える。( 写真提供: ひたちなか市教育員会)
●右は平城宮の井戸枠に転用されていた隼人楯に描かれた双極文と鋸歯文。


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