大菩薩峠(2057メートル)は甲斐と武蔵の国境にある。(現在の山梨県)
峠は視界360度の展望を誇り、ここに至る山路からの「裏富士」の景色は特に名高く、500円札裏面の写真となった。
よく晴れた日の夜には、遠く東京のネオンの点滅が見えるとも言われている。
中里介山の描く大河小説「大菩薩峠」の主人公、ニヒルな剣客“机竜之介”は、黒の着流しで、海老鞘巻の脇差しをさし、
この剣しい山道を【下駄履き】のまま武蔵野国からさっそうと登り、甲州路を見廻し、刀をふりかざして巡礼を斬り捨てる。
小説、「大菩薩峠」は中里介山が30年近くにわたって書き続けた40数巻の大長編である。
しかるに不思議なことに、介山は小説、大菩薩峠において全くこの「富士山」を画いていない。
直木賞作家で登山家でもある井出孫六氏はその紀行文の中で「介山が富士を描写しなかったのは、介山が大菩薩峠に登っていなかった
という単純な理由によるのではないか」という疑問を呈している。
その理由として、氏が自分でこの峠に登ってみて、机竜之介が【素足に下駄履き】の出で立ちで大菩薩峠をきわめたことが著しくリアリ ティに欠けるからと指摘されている。
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あれは昭和40年、私が早稲田の4年生で、まだ司法試験勉強も始めていない頃の、肌寒い季節の頃であった。
クラスコンパのあと夜の新宿駅へ夜行列車で登山に行くクラス仲間を見送りに出かけ、一緒に列車に乗り込んだものの帰るのが面倒に
なって、そのまま私は行く先も知らず登山に同行する羽目になった。
早朝中央線の「塩山駅」に着き、朝もやをついて登り始めること5時間。
苦行そのものは当然のことで、その出で立ちは机龍之介と同じ【下駄履き】であった。
(当時私は下駄履きで早稲田大学に通っていた)
始めはこれしきの山と、なめてかかっていたものの、特に岩場にさしかかった時は、下駄では登る足場が掴めないという痛手、
にさらされた。
なるほど、【わらじ】とか【登山靴】はその為にあるのかということが身にしみてわかった ※
大菩薩嶺をきわめた時は下駄の歯は全部綺麗にすり減って1枚のペラペラの薄い板になっていた。
さらに反対側に下るとまもなくその板はふたつに割れた。その後は素足に仲間から拝借した厚手の靴下であった。
「後悔先に立たず」とはこのことであったがまさに記念すべき登山であった。
苦行のせいか、大菩薩峠から眺めた富士の山がどの程度に美しかったのか取り立てて、記憶には残っていない
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貧困であったが故に当時の社会主義に惹かれざるを得なかった中里介山は、人がほめそやす絶景であるが故に富士山を無視し去った
のか?
人間の持つ業(ごう)を流転輪廻のなかに描き出すのに富士の山など必要でなかったのか?
それとも頂上から絶景の富士山が見えるということを知らずに小説・大菩薩峠を書き続けたという、ただそれだけのことなのか?
※ 足下の岩場のどこに下駄を置くのが良いか、いちいち確かめて歩かないと 岩で滑ったり、踏み外したりする。
登山靴では 適当に登れる